こころの時代~宗教・人生~“ごちゃまぜ”で生きていく[字]…の番組内容解析まとめ

出典:EPGの番組情報

こころの時代~宗教・人生~“ごちゃまぜ”で生きていく[字]

障害があってもなくても、高齢者も子どもも、日本人もそうでない人も集まって過ごす場所がある。元気な日も寂しい日も、独りがいい時も誰かと居たい時も思い合って生きる。

詳細情報
番組内容
石川県にある福祉施設「B’s行善寺」にはさまざまな人が“ごちゃまぜ”に集う。施設を作った雄谷良成さんは社会福祉法人理事長であり僧侶でもある。その原点は祖父が住職を務める寺で障害のある子どもたちと家族のように育ったこと。自身と彼らとの違いを感じながらも世間から蔑まれることに違和感を覚えていた。やがて福祉の道を進み始めた雄谷さんは、さまざまな人や法華経の言葉と出会いながら、皆で生きる意味を見つけていく
出演者
【出演】行善寺住職・佛子園理事長…雄谷良成

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
趣味/教育 – 生涯教育・資格
福祉 – 社会福祉

テキストマイニング結果

ワードクラウド

キーワード出現数ベスト20

  1. 障害
  2. 自分
  3. 一緒
  4. 雄谷
  5. 施設
  6. 場所
  7. 言葉
  8. 山本
  9. s行善寺
  10. 学校
  11. 今度
  12. 意味
  13. 元気
  14. 福祉
  15. お経
  16. 苦手
  17. 生活
  18. 大切
  19. 認知症
  20. 家族

解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)

NHK
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石川県白山市にある行善寺。

お寺と同じ敷地に

全国でも あまり例を見ない
ユニークな福祉施設があります。

「誰もが みんな仏の子」を意味する

佛子園という社会福祉法人が
運営しています。

ここに集まるのは
障害のある人ばかりではありません。

福祉サービスを利用する人も
そうでない人も

さまざまな人に訪れてほしいと
7年前に開かれました。

子どもたちが集まる
駄菓子コーナーがあったり

地域の人が集う天然温泉があったり

野菜の直売所があったり
まるで娯楽施設のようです。

障害のある人の生活支援や
高齢者のデイサービス 学童保育まで。

まだまだ あります。

外に出てみると
ハンバーガー屋さんに キッチンスタジオ。

園庭には
子どもたちが駆け回って遊べる遊具。

他にも フィットネスクラブに
クリニック 花屋 カラオケ

リラクゼーションサロンまで あるんです。

さまざまな場所をつくったら

子どもも高齢者も
障害のある人も ない人も

いろいろな人が
集まってくるようになりました。

おいっす~。

♬~

ゆかり姫 YouTube…。

ちょっと LINEで なんか…。

この施設をつくったのは…

施設と同じ場所にある
お寺 行善寺の住職です。

♬~(スマートフォンからの音楽)

ありがとね。

(男の子)何してんの?
撮影してま~す。

(男の子)俺も!
うつれ~!

B’sで来たんか。 そっか そっか。

山本さん。 中島さん 来たよ。
なんで そっち向いとるん。

ここでは 障害のある人も ない人も

スタッフとして
力を合わせて働いています。

とりわけ いろんな人がやって来る
人気のフィットネスクラブ。

健康づくりに ダイエット リハビリ
おしゃべりを楽しみに来る人など

その目的も さまざま。

来た 来た 来た。

あ~ もう 主役は あとから来る。

ハハハ…!

主役 登場。
(拍手)

主役 登場。
(拍手)

生活介護サービスを利用する…

「みんなでシンクロ」という水泳教室で
立ち上げたチームのメンバーです。

プールで沈まないように
体を絞っているんだそう。

最後に… 腕立て伏せをします。

それぞれ 20秒します。

間に有酸素運動として
足踏みを 20秒して下さい。

では… 説明からしま~す。

頭から…。

野竹さんも来い!

この日 市川さんが一緒にやろうと
フィットネスに誘ったのは 雄谷さん。

雄谷さんは時間ができると ここに来て
皆と交わります。

はい!
5秒前。 4…。

(一同)3 2 1。
膝が
内側に入らないように腰を落としま~す。

どんな人にも居場所があり
笑顔になれるところ。

雄谷さんは ここを
「ごちゃまぜの場所」と呼びます。

こういう ごちゃまぜの場所の場合は
あの

いろんな障害のある人や
あるいは遊びに来る

ちょっと様子を見に来るとか
そういう人とか。

子どもが走ってきて 「何やってるの?」
とか聞いたりとかする中で

いろんな人が このウェルネスにいると

そうすると その脳梗塞で 例えば
半身が 麻痺が出ているような人も

もっと いろんな人がいて頑張ってるな

だったら自分も もっと頑張ろうと思って
まあ 励まされるというか。

そういう中で どんどん どんどん
こう元気になってく。

僕たちは やっぱり社会福祉法人として

障害のある子どもたちを
受け入れるところから

始まったんですけど。

従来の福祉なり医療は 縦割りで

障害のある人は障害者だけと
あるいは高齢者の人だけと。

それは やっぱり なんとか みんなで
それをサポートしようという中で

必然的に生まれてきたことですけど。

でも そういった人が
ごちゃまぜになっていると

その人たちばかりではなくて

実を言うと いろんな人
福祉のサービスからは漏れるような人

例えば 引きこもりの人であるとか
あるいは ちょっと伴侶を亡くして

独り住まいになって寂しいなと
思ってきた人が例えば やって来て。

でも病気の状態や
障害のあるような状態ではないですけど

いろんな人がいるのを見て
また元気になってくということは

たくさんあると思います。

市川君にしても そうですよね。

彼 この間ね 見てたら

毎日 お昼 腹筋やってるんですよ。

腹筋ね この間びっくりしたのが
数えたら

100回 超えてるんですよ。 え?
ハハハハ。

最初 もう こうやって
右 左とかって やってたら

50回ぐらい簡単にやっちゃったんです。

そもそも そこも すごいんですけど

そこから 「今度は こういうふうに
してみようか」って言ったら

「はい~」って言って 50回ぐらいやって
100回

もう あっという間に 100回になったの。
ええ~。

そしたら だんだん そのね

ウェルネスの中のジムの雰囲気が
変わってくるんですよ。

明らかに オーバーワーク…。 ハッハハ…。

オーバーワークなんだけど
周りに期待されてるというのがあって…

で 頑張る。

そうすると 「ほら あと あと
じゃ 10回」とかって言ったら

もう最後
ギリギリの力 振り絞ってやって

ハーッて 周りも全然
バイク乗ってる人とかも拍手して

それで
ちょっとドヤ顔にはなるんですけど

スーッと離れて 隣の鏡のある部屋に
行ったら 本当に疲れた顔してる。

「この人が喜んでくれたらなぁ」とか
なんか期待されたら…

期待に応えて ああ 喜んでくれるなぁとか
ということが

彼を突き動かしてる。

皆さん それぞれ ウェルネスの中で
それぞれのトレーニングをしてるわけで

拍手が起こるなんてことは
おおよそ ないですけどね。

自分のことを一生懸命やってる
世界だから。

でも この巻き込み力というか
そこら辺が すごくて。

ある時は支えているし
ある時は支えられていて

それで関わってるってことなんだろうと
思うんですけど。

こちら 施設の名前が ちょっと
変わっているなと思ったんですけど。

B’sというのは
佛子園というのは

私たち
社会福祉法人 佛子園なので

「佛子園の」っていう「の」という
意味ありますけど

B’sというのは「数珠」という
意味でもあって。

人が こう つながっている

関係し合っているということを
表していて もう一つは存在ですよね。

be動詞の be。

で やっぱり一人一人が存在していて
その人たちを敬う。

お互い こう障害があっても なくても
認知症があっても

あるいは日本人であっても なくても

いろんな人が やっぱり こう
それぞれを お互いに敬いながら

いる 存在しているという意味で be。

その3つを B’s行善寺。

(鐘の音)

B’s行善寺のルーツは
同じ敷地にあるお寺 行善寺にあります。

そこには かつて障害のある子どもが
暮らす施設がありました。

今年8月16日
行善寺で行われた お盆の法要。

かつて この場所にあった障害児の施設で
育った人や家族たちが集まりました。

お経をあげるのは
行善寺の住職 雄谷さんです。

はい じゃあ 手を合わせて下さい。

(おりん)

(読経)

(おりん)

雄谷さんにとって ここは

自分の生き方を決める
原点となった場所です。

幼い頃 雄谷さんは ここで

障害のある人たちと一緒に
家族のようにして育ったのです。

(読経)

(おりん)

戦後間もなく この場所に
施設を開いたのは

祖父の本英さんでした。

本英さんは 幼くして両親を亡くした
孤児で

寺に預けられて育ちました。

大人になると 戦災孤児や
障害のある子どもたちを寺に引き取り

施設をつくって 一緒に暮らしました。

父の助成さんは その意思を引き継ぎ

施設の運営資金に苦労しながらも

障害のある子どもたちが楽しく
暮らせるよう工夫を凝らし 奔走しました。

雄谷さんは代々受け継がれた
その施設の中で育てられました。

あの ちっちゃい時は
本当に生まれたての時は

その時は まだまだ
お寺の一画を間仕切って

そこに みんな暮らしてましたので。

途中から やっぱり どんどん
また人が増えてきたので。

え~と あの時 実を言うと
鶏小屋があったんです。

自給自足に近いですよね。

やっぱり当時は みんな
畑 一緒に作ってたりとか

鶏も育てて 卵とったりとか

そういうことを みんな
施設としては してた。

それは まあ 一緒に朝
ナス 取りに行ったりとか

おみそも造ったりとか。

ず~っと そういう生活でしたよね。

ですから まあ 生活が
もう そこに全部あるという。

寝るのも一緒ですし。

8人とか 多い時は 12人ぐらいの部屋に
一緒に寝てましたので。

その中には やっぱり その
しゃべれない方もいますし

おっきな声を出す人もいますし。

障害のある状態に対して
やっぱり あの それを

やっぱり いろんなことができない人だな
とかって思うというのは

小さい時あったと思いますよね。

でも 一緒に暮らしていく中で
家族って そんなもんじゃないですか。

いろいろ できる人もいれば
できない人もいて。

怒るお父さんもいれば
優しいお母さんもいたりとか

反対の例もあったりとかして。

でも それで家族が成り立ってると。

でも なんか その 学校に行くと

やっぱり こういう施設にいる
ということに対して

まあ 学校の先生なんかにしても

悪いことしたら 雄谷のとこへ入れるぞ
みたいな話があって。

なんか カチンとくるんです。

なんで そんなこと
言われなきゃいけないのかな みたいな。

そこら辺が やっぱり周りとのギャップ
みたいなものを すごく感じて

で うん…。

そこら辺は すごい やっぱり
自分が悩んだというか

疑問に思ったところですよね。

一緒に住んでたので

誰かに いじめられたら 助けに来てくれる
おにいちゃんも いたし。

その人は いつも一緒に
おやつ 分けたりとか

卓球したりとか そういう人で。

まあ 僕が本当に ちっちゃい時に

墓石に みんなで登って競争して
墓石 途中で折れたんですよね。

折れた時に バーンって大腿骨…。

その時 あばらと もう腕と それから大腿。

で 大量出血して。

で え~と そこで ほったらかされたら
多分 アウトだったんですけど

当時の保母さん
保育士さん 呼んでくれて

そのまま病院に連れて行ってもらって
九死に一生を得ると。

その彼が そんなに
いつもは そんなに こう

誰かを呼んでくるということが
うまくできるかというと

そうではないような気もするので。

だから よく その時に呼んできてくれたね
というのが あるんですね。

きょうだいのようだった障害者に対する

偏見や差別に感じた憤り。

雄谷さんは 福祉の道を踏み出します。

障害のある人のことを
もっと知りたいと 地元の金沢大学に進学。

障害者心理を学びました。

あ~ やっぱり理解したかったって
あると思いますね。 うん。

やっぱり なんで
ああいうことになったのかなとか。

知りたい 分かりたいということ
まあ シンプルですけど。

障害という分野 障害福祉という分野を
学ぶというところが

なかなか なかったんですね。

私学とかありましたけど え~と

うちの環境というか 経済状況もあって
まあ あの…

国立の大学の中には
障害関係というのは1か所。

金沢大学では そこだったんですね。

で 養護学校教員。

もっと やっぱり今の障害のある人たちと
環境とか それから考え方とか

障害って何ということとか
きちっと やりたいなと思ったので

選んで行ったんですけど
実際には やっぱり

学校というところと
やっぱり その暮らしというものは

やっぱり
カリキュラム的には随分 違っていて。

もっと泥臭いというか
生活に密着したような部分を

やりたいなというふうに思っていたので。

転機になったのは

青年海外協力隊員として渡った
中米 ドミニカ共和国での体験でした。

思いがけない出来事が続く中

自らが幼い頃 障害のある人と
暮らしてきたことの意味を

教えられるようになったのです。

障害福祉の指導者の育成に
来て下さいと

スーパーバイズするという立場で
行ったんですけど。

行ったら みんな隊員として
訓練 終わったら行くんですけど

もらわれていくんですよね。

要請先が来て
例えば 農業だとか干害だとかって

みんな連れてかれるんですけど

何日たっても 迎えに来ないんですよ。
誰も迎えに来ないの。 え?

それで その要請があったところに
行ったら 呼んでない。 (笑い声)

首都にいたんですけど とりあえず

首都よりも
もっと田舎の第二都市があるんですけど

そっちに あの やっぱり

そういう教えられるようなスペースがある
ということで

そっちに行ったら もう電気も水もなくて
お金もないなって。

で じゃあ どうすっかってなって
えっと

当時 養鶏の隊員と一緒になって
鶏を育てて。

今度は その 出た鶏ふんで畑をして
野菜を取って それを売って

今度は それで木材を買って
障害のある人と一緒に家具作りとかして

それで学校とか それから
働いた人の工賃とかを出すようにして。

それで初めて 今度は
学校で先生あてに障害とは何とか

順番に一つずつ教えていくような
関係をつくった。

そこでも いろんな出会いが
あったんじゃないかなと思うんですけど。

すごいなと思ったのは その

僕が教える学校に
車椅子の方も来てたんですよね。

その時に すごい やっぱり
長い道を通ってくるんですよ。

で 向こうですから福祉車両とかないので
車椅子 押してこないとダメなんですよね。

だから 学校があると
彼の家は ここなんですよ。

でも
車椅子を押してくれる人がいるんですね。

その子も先生なんですけど。

で 彼は いっぺん学校まで1時間近い…
弱かかるの。

その それ通り過ぎて この車椅子の子の
うちに迎えに行って連れてくるんですよ。

だから全部で まあ 3時間ぐらい。

帰りも また3時間かけて彼を送って
自分が自分の家に戻っていくんですよ。

それを やっぱり
人のために使うことができるという。

で ある時 教えてたドミニカの

いろんな そういう障害のある指導者の
発表会 開いたの。

僕が教えたメインスピーカーが
来なかった。 穴開けたんですよ。

終わった頃に やっぱ来たんですよ。
そしたら 「どうした?」っつって。

「今日 メインスピーカーだったよね」って
言ったら

隣の なんか奥さんが
風邪ひいて寝込んだって。

で… 「で 来なかったの?」って。

「うん 来なかった」って。

病気になったら みんなで看病するし。

でも お金がないから社会保障なんか
しっかりしてないということがあるので

でも そこには
みんな寄ってたかって こう心配して

こう関わって
なんとかしようとしている人たちがいて。

反対に教えられちゃう。

よく どっかで この感じあったな
というのは 施設で育ってる時だった。

あっ これって なんか よく似てるな。

で ああ やっぱり
人と人は関わるという

いろんな役割 持ってるんだな
というのは

そこで じわっと気付きだすって
感じかなと思うんですけど。

自分のことよりも 人を思う。

それは少年時代 自分を助けてくれた
障害者の姿と重なりました。

雄谷さんは 1990年に帰国。

自分の少年時代 墓石から落ちた時に
命を救ってくれた人が

施設から社会に出たあと 激しい差別に
さらされていたことを知ります。

それは 兄のように慕っていた人でした。

うちの法人というのは
児童施設しか なかったので

必ず卒園していくと まあ 社会に出る。

あるいは 他の施設に行くということに
なったんですけど。

墓石の下敷きになった
あれを助けてくれた人が

虐待に遭ってたんですね。

で まあ ちょっと
たたかれたりとかして

ちょっと
耳が聞こえなくなってたりとかという。

やっぱり今だったら もう
完璧に捕まるような案件ですけど

当時は なかなか そういうのが
立証できないというのが あって。

「お給料も もらってないですよね」
「いや 渡してた」って話とか。

でも 園から出たままの ず~っと服を
着てたりとかというの あって。

だから 結構ひどい状態になっていたので。

なんか悩みがあっても
聞いてもらえるような

そういうソーシャルワークのシステムが
なかったりとか。

例えば 働いていても なかなか

長い間 何十年も働いてても
正社員になれないとか。

なかなか障害があるから
でも働けるだけいいよね という時代。

その時は もう怒ってましたね。 うん。

あの うん 怒りでしたね あの時は。 うん。

なんか ちょっとした敵討ちみたいな
感情かもしれないですけど。

雄谷さんは 児童施設から社会に出ても

障害者が生活し 働ける場所を
つくろうと考えました。

まずは 大人になっても
皆で暮らせる入所施設を開きました。

(アナウンス)皆さん こんにちは。
今から 午後のサークル活動が始まります。

大切にしたのは
自分が施設で育った時の経験から

そこで暮らす人たちの
プライバシーを守るということ。

当時では珍しかった個室も作りました。

建物には鍵をかけず 日中は自分で選んだ
サークル活動に参加できるなど

好きな場所で 思い思いに過ごせます。

やっぱり プライバシーを守るってことは
すごい大切だなということは

感じられたんですけど。

そこは やっぱり経験したら分かる。

楽しいと思う部分もあるし やっぱり
一人でいたいなという時もあるし。

次に取り組んだのが
障害のある人が生きる糧を得られる場所

働ける環境を整えることでした。

1998年に開いた自家製ビールを堪能できる
レストランです。

飲食店で働いてみたいという
皆の願いを形にしました。

お疲れさまです。

福祉施設としては 日本初のビールの醸造。

それぞれの特技や
それぞれのペースに合わせて

さまざまな人が力を合わせます。

ここで造られるビールは

日本全国の地ビールが競う品評会で
数々の受賞歴を誇ります。

障害のある人たちは あの
いわゆる税金を使う側だ。

じゃなくて ビールを売ったら
酒税が町に落ちるんですよね。

ですから ビールを みんなで売ったら

使うばっかりじゃなくて
きちんと還元する力がある。

ここが出来てから 20年以上働く
東 外志秋さんは配達にも出かけます。

おはようございます。 失礼します。
日本海倶楽部です。

(東)
おはようございます。 日本海倶楽部です。
クラフトビールを お届けに来ました。

ありがとうございます。
また よろしくお願いいたします。

ありがとうございました。

はい ありがとうございます。

仕事は楽しいですか?

楽しいです。

お母さんに お金を一万円札で
お金をあげます。 あげます。

お母さんは喜んでますか?
喜んでいます。

ごく普通の生活を送れるように。

何か特別な暮らしではなくて
ごく普通の生活ができるように。

みんなで これを守っていくということが
できるんだということを

やってみたかったんだね。

福祉施設での活動を始めた雄谷さんは

一方で 実家の寺を継ぐため得度し
僧侶となりました。

子どもの頃から触れてきた
読経や お寺の仕事。

しかし 仏教と福祉の世界とが 雄谷さんの
中では うまく結び付いていませんでした。

34歳の時 日蓮宗の道場で修行。

その時 福祉の考え方に目を開かれる
仏教の言葉に出会います。

ずっと前から
疑問に思っていたことがあって あの

お経をあげられない
僕が一緒に育った子どもたち あの

言葉がない人とか そういった人たちは
じゃあ どうなるんだろう。

僕は こうやって修行に来て
お経を学んで

内容も こういうことを
言っているんだよって理解して

僧侶として 教師として
やっていくんだなってことは分かると。

じゃあ 本当に障害があって

お経すら よく読めない
唱えることができないという人は

救われないんですかというのが
僕の基本的な問題だったので。

じゃあ 僕の家族同様に育った人は
どうなるんだろうと思った。

聞いたんですよ。

どなたに聞かれたんですか?
そこの先生がいて。

その… 答えてもらったんですね。

そしたら 「雄谷君は そういう環境で
育ったんだね」って言われて

それで あの…

「三草二木」の話が出てくるんです。

「三草二木」という
その「薬草喩品」という

「法華経」の中の5番目のお経に
書かれてるわけですけど。

ある時 順番に読み進んでったら

最初1回目は全部
やり過ごして分かんなかったんだと思う。

2回目か3回目ぐらいに読んでって
あっ ここだというのを見つけて。

あっ このことだったのかって。

そこは大きかったですね。

およそ2, 000年前に編纂された
仏教の経典「法華経」。

生きとし生けるもの全てが持つ
命のかけがえのなさ。

それを尊重する行いの大切さなどが
さまざまな比喩を使って説かれています。

<例えば…>

世の中には 大きい大木もあれば
小木もあるし いろんな草もあるし。

でも これには みんな分け隔てなく
太陽も雨も降りそそいでるんだって。

だから 唱えられないとしても

必ず そういった平等に
機会は与えられているってことがあって。

小根 小茎
小枝 小葉

中根 中茎
中枝 中葉

大根 大茎 大枝
大葉 もろもろ。

まあ 施設で育った自分にとっては

やっぱり いろんな人がいるなぁ
ということが…

まあ 浮かびますね。

ああ ここにあったのかと。

それまでに読んではいるんですけどね。

読んではいるんですけど
気がつかなかった。

そこまで知恵が及んでなかった
ということだと思いますけど。

ああ なんか こういうことかぁという
腑に落ちるというか。

こう すとんと こう

自分の中に こう ああ こういうふうに

こう こう…

まあ 喜びというんですかね。

何千年も前の… 人の うん

考える お考えになったことが

今 自分にとっても
当てはまるということが

すごい やっぱり うれしかったんですね。

心が落ち着くというんですかね。

さまざまな人が それぞれに生きている。

雄谷さんは
仏教の教えに背中を押されるように

福祉の世界で 新たな挑戦に踏み出します。

「三草二木」と名付けた この福祉施設。

地元の人から
住職がいなくなり 荒れ果てた寺を

なんとかしてほしいという依頼が
舞い込み

力を合わせて
「みんなの居場所」にしていきました。

試みたのは 子どもも大人も分け隔てなく
地域に住むみんなが来られる場所。

ここでも 障害のあるなしにかかわらず
支え合うスタッフたち。

おそろいの紺のTシャツも作りました。

カエルが…。

えっ いや 潰さんといて。

あっ 行った 行った。

伊藤さん 行ったよ。

うう~。

いろいろな人たちが共に過ごす中で

時には元気を与えたり
それを受け取ったり。

この施設の中で 雄谷さんは
さまざまな人と人との関係が生み出す

予想もしなかった力を
目の当たりにしていきます。

初期の頃に びっくりしたんですよね。

ここまでのことが起こるとは
思わなかった。

やっぱり その

重度心身障害の方が知的障害を持ちながら
首から下が麻痺であるという その人と

認知症のおばあちゃんが関わったら

おばあちゃんが こう毎回もらった
ゼリーを彼に食べさせようとする。

最初は うまくいかない。

でも だんだん こうやってるうちに

彼も だんだん こう麻痺している首を
動かせるようになって。

そうすると
僕らが2年ぐらい リハビリで

うまく
なかなか可動域を増やせなかったのが

あっという間に みるみるうちに
動くようになっていくとか。

あと おばあちゃんが やっぱり その

今まで その深夜に
いろんなところに お出かけになる。

家族が それに対して もう疲弊している
という状況があったのが

なくなってはいないですけど
月に1回とかに激変していく。

まあ 認知症が改善されているかどうか
ということは別にして。

でも 私が西圓寺に行かないと
あの子が死んでしまう。

そこら辺の認識は おかしいんですけど。

でも そこに彼との関わりを通して

西圓寺に行くんだという目的が
生まれたから

深夜には しっかり寝て
それで朝起きて 西圓寺に行って

彼に 自分がもらったゼリーなり
プリンなりを

プレゼントするというところに
生きがいを感じている。

人は やっぱり いろんな人と関わることで
元気になっていくんだ。

決して そのクローズドの
福祉の決められた人間関係の中では

足りないものがあるんだということを
やっぱり理解するには十分でしたよね。

ああ 面白かった。
うわぁ 何が起こってるんだろうって。

障害があっても 認知症であっても

人と人が関わることで
引き出される秘められた力。

その力を生かそうと かつて自分が育った
施設を引き継ぎ 立ち上げたのが

B’s行善寺でした。

これまでの試行錯誤や学びを生かし

「ごちゃまぜ」の力を発揮できる場所を
目指したのです。

B’s行善寺のフィットネスクラブで働く
山本千咲さんです。

おはようございます。
おはようございます。

知的障害がある山本さんも

就労支援を受け
ここで スタッフとして働いています。

いいね キャッチフレーズ。
みんなのお姉さん?

みんなのお姉さん 山本千咲です。

えっ みんなのお姉さん 山本千咲です。
ちょっと どういう意味?

明るい性格の山本さんにも
苦手なものがあります。

それは大きな音。

数日前 自分の上司が
注意を呼びかけるため

スタッフの間で交わした
大きな声にも反応しました。

かわいそうだった?

かわいそう かわいそうって。

私 音 怖いから。

何でも苦手なものは…。

そんな山本さんですが こんな一面も。

この日やって来たのは 利用者の村井さん。

ちょ~や!
お静かに。 ちょ~や! ちょ~や!

村井さんは 自分の意思を
言葉で伝えることが苦手です。

大きな声を出す時もありますが

それは 自分の思いを
懸命に伝えようとする気持ちからです。

(大きな声)

大きな音が苦手な山本さんですが

村井さんを避けることなく
寄り添い続けます。

(大きな声)

静かにして下さい。 静かに。

言葉で表現するのが苦手な人が利用する
文字盤を使って

丁寧に コミュニケーションをとります。

トイレ行く?
そうそうそうそう。

そう 正解。 ちゃんと行って。

トイレ行こう トイレ。

(大きな声)
(山本)し~!

千咲さんってさ
村井君の大きい声は平気なの?

うん。
あっ そうなんだ。 うん。

(八巻)へえ なんでだろうね。

それが訳分からないんだよ 私も。
(八巻)訳分からないんだ。

共感するというか

あの おっきな声を出すというのが苦手で。

でも 自分がサポートしようとする人の
大きな声に関しては全然 問題がないとか。

野竹君も 上司に当たるわけですけど

「約束したのにね ごめんね」みたいな
という会話は

なかなか一般的な関係性ではできない。

彼女は そこを スパッといく力がある。
勉強になりますよね。

へえ~ こういうふうに入ってくるって。

毎日毎日 その こう…

試されるというか。

その自分の在り方を
きちんと こう問われるというか

そういう場所なんだなぁと。

あっ あれ持ってきましたよ。

手帳。
宮沢賢治ですか? ありがとうございます。

今 雄谷さんが大切にしている
言葉があります。

それは 「法華経」の教えを自らの人生で
全うしようとした

宮沢賢治の言葉です。

しばしば開くのは
賢治が残した手帳の復刻版です。

そのまま 賢治が書いた ほら

これ 曼荼羅なんですよ。

へえ~。 真ん中に書いてあるのが…。

南無妙法蓮華経って書いて
四菩薩が入ってる…。

曼荼羅を書いてるんですね。

宮沢賢治は
「風の又三郎」「注文の多い料理店」

「銀河鉄道の夜」などの童話や
数々の詩を残しました。

それらには みんなの幸せを願い

日々 他者を思いながら生きることの
尊さが刻まれています。

雄谷さんが とりわけ
賢治の思想が凝縮されているとして

大切にしているのは 手帳に書かれた
「雨ニモマケズ」の一節です。

「南に死にそうな人あれば行って
恐がらなくてもいいといい

ケンカや諍いがあれば
つまらないからやめろといい

デクノボーと呼ばれ

褒められもせず

苦にもされず

そういうものに私はなりたい」。

で ここに やっぱり
曼荼羅が書いてあるんですよね。

これなんか
やっぱり 「行ッテ」という言葉が

赤で書かれている。

そこに行くっていう 言葉ではなくて

やっぱ そこに行って
自分が行動を起こしていくということに

やっぱり すごい共感する。

自ら行って 行動するデクノボー。

このデクノボーのモデルとされる菩薩が
「法華経」の中に登場します。

お経を読まなくても やがて悟りを得て
みんなから敬われた菩薩です。

どんな暴力や迫害を受けても

常に相手を敬い
軽んじることがありませんでした。

常不軽菩薩というのは
実を言うと お経とか読んでないと。

行いを持って それが僧侶となる。

あるいは成仏するということなんだ
ということを書かれていて

ああ そうか じゃ あの時 僕が あの

「お経 唱えられない人は
どうなるんですかね」って言った言葉は

みんな平等なんだって。 その後ろにある

唱えるばっかりじゃなくて 実を言うと
人を思いやったりするということが

イコール そういうことなんだよ
ということが書かれてるのが 今度は

人を思いやる 決して軽んじないで
尊く対応していくということが

実を言うと
ああ 今度は ここにきたと思って。

常不軽菩薩という人は
皆さんは人を慈しんで敬っていくと

必ず成仏できるんだということを
言っていくわけですけど。

お前は何を言ってるんだと。

周りから そんな お前 偉そうにと言って
やっぱり疎まれる 軽んじられる。

でも それでも
一生懸命 そう唱えながら言っていく。

最後は それが人に伝わっていく。

私は決して
皆さんのことを軽んじないということを

ずっと言い続けて
やっていくということが

ああ 実を言うと これは
障害のある人たちと関わってきた

僕が… 行く道と

リンクしてるんじゃないかなって
思ったんですね。

B’s行善寺の中には

常に人を大切にして行動した
常不軽菩薩の精神が生きている。

雄谷さんは そんな思いを抱いてきました。

この場所で障害のある子どもたちと一緒に
雄谷さんを育てた父の助成さん。

B’s行善寺では皆が集まってくる そば屋の
カウンターに いつも座っていました。

助成さんが ガンで病床につくと

そば屋の常連や施設の仲間たちが
入れ代わり立ち代わり訪れました。

お弁当 配食サービスのお弁当を
一生懸命 作っている人が

山本さんという人がいて
その人が お見舞いに来たんですよ。

僕が たまたま その目の前にいて
そしたら オールド 片手に

お酒ですよね お酒 持ってきて
ウイスキー 持ってきて

パッて 「寝てる場合じゃないだろ」って
言ったんです。

そしたら モルヒネ打って朦朧として

ちょっと意識が はっきりしていない
ような時に ワッと起きるのね。

「ああ ありがとう」っつって。

もう急に元気になってきたのね。

まあ 他の仲間も一緒に来たら
親父が また急に元気になって

「お前らが急に来るってことは

俺も もうそろそろ死ぬってことか」って
言ったら もう恐縮しちゃって。

強烈な
やっぱり麻酔薬も入れてるんですけど

そこで フワッて元気になる。

まあ やっぱり
2週間後には亡くなるわけですけど

亡くなったあとに その さっき言った
差し入れした山本さんが

やっぱり うちの親父が座ってた場所に
献杯のグラスを置いて

ここは しばらくは
他の人間 座っちゃダメだぞって

地域の人に言ってるわけですよ。

それで自分が献杯して飲んで。

その山本さんも 4か月後に亡くなって。

今度 そこに また

2人 いつも一緒に気配を感じて
飲んでた人間がいなくなって

寂しいなというところに今度は また
障害の重い人が また そこに入ってきて

それで これが連綿と続いていくという。

そういうことに やっぱりね
励まされている。

あそこで いつも あの…。

雄谷さんの人生を支えてきた
「ごちゃまぜ」という言葉。

それは 同志だった人と交わした会話から
生まれたものでした。

B’s行善寺の建築を手がけ
去年 亡くなった…

さまざまな人が

一緒の空間で過ごすことなど難しいと
言われた頃から

雄谷さんの思いを受け止め 建築家として
「ごちゃまぜ」の器を実現してくれました。

こうやって僕が ここに座って見上げる。

そこには子どもがいる。

そうすると…

西川さんは やっぱり うん…

信じてくれていたという。

そこは大きかったですね。

やっぱ こうやって
みんなが一緒に住むということに対して

そうとはいえという。

それ無理あるでしょって人は
山のように いたので。

今ね 亡くなられて非常に自分たちのね

一緒に ごちゃまぜの空間を
一緒につくってきた盟友というか

そういう方だったので
非常に残念ですけど。

でも まあ
そういった西川さんの考えていることは

僕らの拠点の中には生きているので。

障害があるとか ないとか
そういったことを関係なしに

なんか居心地がいい…
居心地がいいというんですかね。

人の状態に限らず
ああ なんか居心地がいいなという

そういう言葉なのかなと思うんです。

なんか効能があるとか
そういうことではなくて

ああ なんか
居心地がいいなという感じを

皆さん 感じ取られてるんではないかなと
思うんですね。

まあ 例えば障害のある人が
ちょっと思いを伝えられなくて

おっきな声を上げたりとか

あるいは ちょっと
なかなか理解できないような

認知症の方の動きがあったりとかしても
最初は びっくりする。

でも それを こう だんだん こう
その人を見ていると

どうも言いたいことが
あるんじゃないのかなとか。

お互いのことを だんだん分かっていく。

そういった意味では あの… 一緒にいる

で その人たちの気配を
感じているというだけで

ああ だんだん理解が進んでいく。

こういう ごちゃまぜの場所というのは
そういった向き合うこともありますけど

実を言うと 向き合ってなくて
同じ方向を向いてたりとかすると

まあ ただ いるだけなんですけど
そのことって実を言うと

それが心地いいとかいうふうに

つながっていくという部分も
あると思います。

ありがとうございます。

♬~

「ごちゃまぜ」の思想は今 B’s行善寺から
全国へと広がりを見せています。

ここにもまた 一つの
ごちゃまぜの場が生まれました。

今年6月にオープンした…

建物は 西川さん亡きあと
彼が育てた建築士が手がけました。

雄谷さんも その開所式に駆けつけました。

おお 赤色いいね。 ねえ。

ここら辺も いい感じ。
(笑い声)

「ごちゃまぜ」というキーワードは

いろんなところから
学んだわけですけれども

子どもも若者も あるいは お年寄りも

障害のある人も ない人も
認知症の人も

日本人も そうでない人も

みんなが バラバラではなくて

関わりながら

一緒に気配を感じながら

暮らす場所ができたら

どれだけ すばらしいことだろうかと。

サングラスかけて。

(笑い声)

私 ここが気に入ったわ。

私も。

♬~

♬~

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