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英雄たちの選択「伊藤vs.大隈 “日本”を決めた政変の真相」[字]
明治14年、この国のカジとりをめぐって、大隈重信が辞任に追い込まれる。仕掛けたのは伊藤博文。複雑怪奇な政変の真相にメスを入れる。
詳細情報
番組内容
世にいう「明治十四年の政変」は、「開拓使官有物払い下げ事件」をきっかけに藩閥と結託した伊藤博文が、開明派の大隈を追放したといわれる。しかし、その背景には、大きな謎がある。伊藤は大隈と同じく開明派であり、明治初頭には鉄道敷設や廃藩置県など進歩的な施策を協同で実施していた。なぜ伊藤は政変のさなか、わずか半年のあいだに態度を急変させ、大隈を追放したのか?複雑怪奇な政変の真相に迫る。
出演者
【司会】磯田道史,杉浦友紀,【出演】久保田哲,真山仁,中野信子,【語り】松重豊ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
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- 自分
解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)
2019年4月
東京・港区で歴史的建造物が出土し
一躍注目を集めた。
明治5年に建設された
高さ4m 全長800mの巨大な石垣
高輪築堤だ。
実はこれ
日本初の鉄道レールの土台。
鉄道開通は
明治日本が近代化に向け
大きな一歩を踏み出す
ターニングポイントとなった。
この一大事業を実現させたのが
当時 新政府の
少壮官僚だった
伊藤博文と
大隈重信だ。
2人は その後も
近代化の施策を次々と実現し
政権の中枢へと上り詰めた。
ところが…
2人の運命は一変する。
大隈が突如として辞職
政権を追われたのである。
世に言う 明治十四年の政変だ。
実は この時
大隈辞職を画策した人物こそ
盟友の伊藤博文だったとされる。
なぜ伊藤は
非情とも言える決断を下したのか?
背景には政局の未曽有の混乱があった。
日本初の憲法制定を巡る主導権争い。
そこに 薩長藩閥の
スキャンダルが重なり
政府は存続の危機に陥った。
対応を迫られた
伊藤が残した直筆の文書を
今回 徹底分析。
複雑怪奇といわれる政変の裏で
伊藤が描いた思惑が浮かび上がってきた。
スタジオには
さまざまな分野の専門家が集結。
伊藤の巧妙な政治手腕を読み解く。
政治の動きっていうのは
想定外を どうやって
こう 後付けでもいいから
うまく渡り歩くかっていうことが大事で
ま その辺りの うまさっていうのが
伊藤には あった。
伊藤は いかにして政変を収拾し
日本のかじを握るに至ったのか
その真相に迫る。
♬~
♬~
皆さん こんばんは。
こんばんは。
歴史のターニングポイントで
英雄たちに迫られた選択。
その時彼らは何を考え 何に悩んで
一つの選択をしたんでしょうか。
今回取り上げるのは
明治十四年の政変です。
登場人物も多く
複雑な政変として知られていますが
今回は伊藤博文と大隈重信を中心に
見ていきたいと思います。
この政変のどんなところに
磯田さんは注目していますか?
明治十四年政変っていったら
ほとんどの方
あんまり重要だと
思われてないと思うんですけど
実はね これ 関ヶ原の合戦とか
鳥羽・伏見の戦いと
同じぐらい重要なんですよ その意義が。
ああ そうなんですね ええ。
これは 何でかっていうと
この 明治十四年の政変で
徳川じゃなくなった世界で…
う~ん。
この時に治めることにした人たちが
作ったシステムっていうのが
実は まあ 戦後まで
我々の日本の統治のしかたに影響してる。
例えば 民間より官の方が強い
官尊民卑だとかですね
まあ 軍の閥が出来て
で なかなか その~
国家でも統御できないように
なっていく
だから ひょっとすると 昭和の まあ
戦争とか 敗戦 悲劇っていうのも
明治十四年政変 辺りから見てかないと
いけないんじゃないかとか
非常に大事な。
だから 「何だ これは?」と思っても
しまいまで見ると
いかに 大事なものであったか
っていうのが 分かるはずです。
う~ん。
では その
明治十四年の政変の 前夜
若き伊藤と大隈の関係性から
見ていきましょう。
現在は料亭となっているこの場所に
明治初頭 若き政治家 実業家たちが
こぞって集まった。
人呼んで 築地梁山泊。
日本資本主義の父と称せられる
渋沢栄一や
政商 五代友厚などが
日夜 新政府の改革について
議論を戦わせていた。
明治2年 この場所で撮影された
一枚の写真が残されている。
中央には 大隈重信
その隣には 伊藤博文の姿がある。
長州出身の伊藤は
藩士時代にイギリスに留学。
藩の通訳として海外と折衝を行うなど
卓越した交渉力を身につけていた。
一方の大隈は
幕末の日本で最も開明的だった
肥前出身。
アメリカ人宣教師から英学を学び
優れた財政手腕を発揮していた。
共に 西洋の先進的な文明に
触れていた2人は
すぐさま意気投合。
新政府の少壮官僚として
日本の近代化を目指す盟友となっていた。
明治5年
2人は周囲の反対を押し切って
日本初の鉄道を開通させる。
新政府の実質的指導者 大久保利通は
当初 鉄道反対派の筆頭だった。
だが 開通した鉄道に試乗し
日記に こう記している。
大久保からの信頼を得た2人は
富岡製糸場設立など
近代化の施策を次々と実現。
実質的な政府首脳である参議として
国を動かすようになる。
ところが…
政界を大きく揺るがす事件が起きる。
2人の後ろ盾だった大久保が
暗殺されたのだ。
当時 参議6人のうち
強い影響力を持っていたのが
倒幕の中心となった
薩摩 長州出身者たち
いわゆる 薩長藩閥だ。
大久保の後継者となったのは
長州出身の伊藤だった。
時あたかも 西洋思想の流入とともに
国民の政治参加という機運が
高まりを見せていた。
土佐出身の士族
板垣退助らを中心にした
自由民権運動だ。
彼らは新政府に対して建白書を提出。
憲法を制定し
国会を開設することで
選挙で選ばれた国民による
政治を実現しようとしていた。
つまり
立憲政治への道である。
各地で暴動が起きていた上
明治12年には
運動は士族から地主 商人へと広がり
政府にとって
無視できないものとなっていた。
対応を迫られた政府は
参議たちに各自の意見を提出させ
国の在り方を決める議論を
政府主導で行おうとした。
薩摩出身の参議 黒田清隆は
国会開設は時期尚早だと主張。
長州出身の 井上 馨は
「すぐに国会を開けば
秩序が乱れ
明治政府の安固を
保つことができない」
と述べている。
国会開設は まだ早い
という意見が多数を占めた。
では 伊藤の意見は
どのようなものだったのだろうか。
ほかの参議と同様
国会開設はまだ早いとしながらも
ある特筆すべき特徴があった。
「今日の政府の役目は
過激になる民衆を
順を追って適切に教育し
時間をかけて 国民の意識を標準
つまり
西洋諸国と同等に成長させることだ」。
ここに 伊藤の自由民権運動に対する
危機感を読み取ることができると
明治史の専門家 真辺将之さんは言う。
伊藤は 国民の意識を向上させた上で
日本に適した憲法と国会を
作るべきだと考えていたのだ。
この意見に盟友 大隈も賛同。
2人は国民を啓蒙するための
政府機関紙発行を計画するなど
準備を進めていた。
ところが 伊藤の意見書提出から
3か月後の…
大隈が思いも寄らぬ行動に出る。
自らの意見書を 伊藤に相談なく提出。
しかも ほかの大臣 参議らに
見せることがないよう言い添えていた。
つまり 密奏である。
しかし これが政府高官の間に漏えい。
意見書を手にした伊藤は
その内容に驚がくし
一言一句を詳細に書き写した。
この時の伊藤直筆の大隈意見書が
厳重に管理された書庫に保管されている。
これが大隈の意見書です。
そこには 次のように記されていた。
年内の憲法制定と
2年後の国会開設を求める
あまりにも性急な意見。
更に 目指す政治形態も
伊藤が予想だにしないものだった。
「立憲政治とは
政党政治のことである。
政党は
主義によって争うべきである」。
「その主義が選挙によって
国民過半数の支持を得れば
その政党は
政権を獲得する」。
大隈が目指していたのは
イギリス流の政党政治。
出身地ではなく
政策の内容によって政党を作り
国民に選ばれた政党が内閣を運営する。
これは
藩閥政治の否定につながるものだった。
大隈の意見書を読んだ伊藤は
「意外の急進論に
ついていけない」。
と 怒りをあらわにした。
2日後。
大隈が伊藤のもとを謝罪に訪れた。
「自分一人の意見を
天下に施行する考えはない」。
と抜け駆けの意志を
否定したのである。
立憲政治の実現に向け
政府の団結が求められる今
これ以上
事を荒だてるわけにはいかない。
伊藤は大隈の謝罪を受け入れた。
この時点で伊藤と大隈の信頼関係は
修復したかに見えた。
共に近代化を推し進めた
伊藤と大隈の2人でしたが
立憲政治の形を巡って対立。
なかなか 一筋縄ではいかない関係
という感じがしてきましたけれど
今回も さまざまな分野のゲストに
お越しいただいています。
よろしくお願いいたします。
(一同)お願いします。
まずは 明治時代の政治史を
研究されている
久保田 哲さんです。
よろしくお願いいたします。
久保田さんは
2人に対してどのような印象を
持っていらっしゃいますか?
もう あの 簡単に言ってしまえば
伊藤も大隈も
本当に開明的な人間で
とりわけ
明治初期っていうのは かなり
どちらも 急進的な
改革論者だったのかなっていうふうに
思うんですね。 先ほどVTRでも
鉄道の敷設のことが流れてましたけど
やっぱり 当時の日本っていうのは
お金もないし
下手したら 欧米列強が進出してくる
かもしれないっていう中で
そんな鉄道なんてものに
金かけていいのかっていうような
批判もあったんですけど まあ
推し進めたというのが まあ
大隈と伊藤だったわけですよね。
ただまあ だんだんと
時代が下っていくに従って
立場も上がっていくと。
まあ 伊藤はそうした中で
すごく 長州閥っていうのが
ありましたし
もともと 個人的にも すごく
コミュニケーション能力に
優れた人だと思うんですけど
大隈も結構 頑張ってたと
思うんですけどね。
そういった両者の違いが
まあ 徐々に顕在化していくのが
この明治10年代に
なるのかなっていうふうに思いますね。
続いて小説家の 真山 仁さんです。
お願いいたします。
お願いします。
あの~ 真山さん これまで多くの作品で
政治の世界で渦巻く権力闘争などを
描かれていますけれど 伊藤と大隈の
この関係は どのように感じますか?
藩閥っていうのがですね やっぱ
権力機構の中心に だんだん出来てきた
ってことを考えると 非常に 伊藤さんは
いわば 後々の…
…みたいなイメージがあります 私にはね。
もう一方 大隈さんの方は そういう
基本的には
たたき上げの人たちなんですよね。
彼らって後ろ盾がないんで
何やるかっていうと…
…のが政治家じゃないかっていう。
そうすると 官僚側は
いやいや国が大事なんだと
国を前に進めるためには ある意味
愚民は黙ってなさいっていう
そういう その このバランスで ずっと
日本の政治
ずっと動いてきてるんですよね。
ええ。
で そういう意味では
いわば最初の取っかかりを作った
その いわゆる
統治機構の中にいるプリンスと
民衆を武器にして立ち上がってくる
最初の一人っていう印象。
青雲の志はあるけど そこから
ちょっと力を持ってくるとですね
やっぱり 自分たちのバックを
気にしたりしながら まあ
闘争が始まるっていう意味で
何かもう 本当…
う~ん 本当に あの
一触即発という感じがしましたもんね。
ま でも とはいえ 大隈の密奏
かなり大胆な行動なのかなと
思うんですが
中野さんは いかがでしょうか?
2人とも開明的で ちょっと
急進的なところがあるということで
能力も目指すところも近いとなると
あの~ envyですね。
ああ~ 嫉妬。
あの~ うん この まあ…
女性の方が強いでしょって
多くの人が思うんですけれども
実際には 男性の方が強いんですね
サイコロジカルには。
あ~。
そうですね。
深くうなずいてらっしゃいますが。
フフフ。 はい。
その強める条件として
類似性が高いということが
あの 指摘されてるんですね 心理学では。
で 類似性は
この2人は極めて高いところにいて
あの~ もちろん盟友なんだけれども
俺がもう少しこうであったならば
あいつよりも上なのに
という気持ちが
とても高まりやすい条件に
2人ともいるんですね。
ええ ええ。
で 先に あの 大隈の方が出し抜いて
その条件をちょっと こう
自分の有利なように
持っていこうとした
というふうに
考えられるんじゃないかと。
2人とも結果が大事だっていうのは
同じだったと思うんですよ。
ただ やり方が全然違うんですね。
つまり 後腐れなく きれいに形を整えて
箱を作りたいと思ってたと
思うんですよ。
で もう どう考えたって
負けるわけですよね これ。
もう状況見てて 勝てない。
そうすると とりあえず…
もしかすると 彼は結果ではなく
「さあ 伊藤どうすんの これで」って。
つまり そのプロセスばっかり
大事にして
形ばっかり大事にして
本当の我々が目指してる国なんか
できると思ってんの? あんた
っていう
もしかすると
その嫉妬もあるかもしれないけど
何かね そのあとの
あの謝ってるのを見ててもですね
相当 駄目もとで 仕掛けにいってる。
だから 同じ戦略家なんですけど
あの~ 伊藤さんって
成功するエリートなんですよ。
なぜなら
俺は正しいことしてるっていう。
こういう人は絶対成功するんですよね。
これはプリンス
最も重要な要素だと思うんですよ。
いや 伊藤は運がいいんですよ。
運がいい はい。
薩摩と長州っていう2つの藩閥の中で
もう有力なのがいなくなって
あの~ 伊藤は それを代表できるように
なっちゃってるわけですよ。
使いっ走りだったのに。
はい。
そしたら それ 十分に生かして
出世しちゃったらですね
大隈にしてみると あ~ これ やっぱ
藩閥があるからまずいんだって
こうなりますわね。
う~ん。
だから みんなの意見を集めるだとか
そういう政治の形態に
しようじゃないかっていうふうに
持ってきますよね。
で それは こっそり宮様を通じてって
こう やろうとしますよね。 うん。
さあ 一度は関係が修復した
伊藤と大隈でしたが
思わぬ事件が
2人の関係を揺るがします。
伊藤と大隈の
運命を
一変させる
出来事が起きる。
政府高官による汚職が
新聞に報じられた。
いわゆる…
事件の中心人物は 薩摩閥のリーダーで
当時 北海道開拓使長官の職にあった
黒田清隆。
1, 000万円以上の税金をかけて建設した
工場や倉庫を
僅か38万円という安値で
部下の役人に作らせた商社に
払い下げようとしていた。
各新聞は これを
黒田をはじめとした薩長藩閥による
政治の私物化であると 激しく非難。
藩閥政治を打破するために
一刻も早く国会を開設するべきだ
という意見が噴出した。
この事件の収拾を巡って
政局は思わぬ方向へ動き出す。
危機に立たされた黒田が
新聞に情報をリークした
人物がいることを問題視し
犯人の名を喧伝し始めた。
「今回の事態は
大隈が板垣退助をはじめとした
民権不平家と内通し仕組んだことである」。
政府の人間が
あろうことか 民間の不平分子と結託し
藩閥打倒の陰謀を企てていると
大隈を非難したのだ。
政府内では黒田に同調する意見が拡大
情勢は一気に大隈排斥へと傾いた。
更に ある人物の行動が
事態をより複雑にした。
法制官僚の 井上 毅だ。
井上は薩長藩閥の反大隈感情を利用し
自らが理想とする憲法を
彼らに広めていく。
それは…
井上は
ヨーロッパの司法制度を調査する中で
君主権の強い この憲法こそが
天皇を頂く日本に
最も適していると考えていた。
その上 憲法制定は
1~2年のうちにするべきだと
性急な意見を主張。
藩閥内では
これに賛同する者が続出していた。
藩閥と大隈の対立に
憲法論争が重なってしまったのだ。
これは 憲法を重視し 時間をかけて
日本流のものを作ろうとする
伊藤にとって
看過できない問題だった。
だが 当事者である大隈 黒田から
直接話を聞くことはできなかった。
時あたかも 事件直後の7月30日から
明治天皇が
北海道 東北巡幸に出発。
これに 大隈と黒田の2人が
同行していたのだ。
大隈と藩閥の溝が深まる中
どちらを支持するべきか。
悩む伊藤の心の内に 分け入ってみよう。
やはり ここは盟友
大隈を支持するべきだろう。
そもそも 大隈の陰謀論に
確たる証拠は何もないではないか。
それに 政府内に急ぎ プロイセン憲法を
制定しようとする勢力が
拡大している今 これに対抗するには
大隈の助けは必要不可欠だ。
確かに大隈は急進的な憲法案を密奏した。
だが それは よりよい憲法にしたいという
思いあってこそ。
十分話し合う余地があるはずだ。
しかし 待てよ。
ここで大隈支持を表明すれば
薩長藩閥との対立は避けられない。
政権の基盤はあくまで
圧倒的多数派である
薩長によって成り立っている。
彼らの協力なくしては
政権運営さえ ままならないではないか。
やはり黒田 井上ら薩長藩閥に
与するほかないだろう。
ほかならぬ私自身も長州出身。
藩閥の支えあってこそ
ここまでやって来ることができたのだ。
藩閥の参議たちは
井上に扇動されているにすぎない。
議論を重ねれば
性急な憲法制定の動きを止めることも
決して不可能ではないはずだ。
だが
大隈の陰謀論を認めるということは
政権からの追放を意味する。
大隈が無実であったなら
共に歩んできた盟友への
それこそ裏切りにほかならない。
悩む伊藤に 選択の時が迫っていた。
事態は だいぶ 入り組んできました。
藩閥と大隈の対立に
憲法の問題まで重なってしまいました。
さあ 伊藤は
大隈を支持するべきか。
藩閥に与するべきなのか。
皆さんが
伊藤の立場だったら
どちらを
選択するでしょうか。
まず 久保田さん
どちらを選択しますか?
え~ 2の「藩閥に与する」ですね。
で やっぱり 日本に限らず
近代国家にとって 議会開設ですとか
憲法制定っていうのは
本当に もう 一大事業ですね。
で あの~ しかも
当時のことを考えると
非西洋諸国で それを成し遂げた
国っていうのは ないんですよね。
僅かに え~
1876年かな 明治9年ですけど
オスマン帝国が
憲法を作ってるんですけど
それは 僅か1年で停止してしまって
ほとんど定着しなかったんですね。
結局 欧米のものを
そのまま持ってきてるだけでは
結局 日本にも
定着しなくなってしまうというので
やっぱり あの~
もう少し時間をかけなきゃいけないと。
で 中長期的な課題に取り組むためには
やっぱり 安定的な政権基盤というものが
欠かせない。
で そのためには
やっぱり 薩長藩閥っていうものの
力っていうものが不可欠だ
というふうに考えたんだろう
というふうに思いますね。
中野さん いかがでしょうか?
はい。
私は 2の「藩閥に与する」を選びます。
これ あの~
個人かシステムかっていう
選択なのかなという
感もあるんですよね。
この時期の やっぱり
プライオリティーって
国をつくらなければいけない
土台づくりの時期ですから やっぱり
これを あの 友情とか その 個人よりも
優先しなきゃいけないという
喫緊の課題がある。
で 伊藤という人は やっぱり
システムを選ぶ人だと思います。
選ばなきゃいけない局面だと思います
ここは。
で この藩閥というものの…
何て言うのかな
システムというものの
メリットというのもあって
人を吟味する時には
意思決定の様式とか
こういう方を選ぶとか
本当に信用できるのか
この人は裏切らないかっていうところを
吟味するの 本当に大変で
え~ なかなか そこにかけるコスト
というのは
とても かかってしまうんだけれども
藩閥 ある程度 出自が分かっていたり
この人は仲間であるということがあると
そこをスキップできるという
利点があるんですね。
スキップできるという
その コストカットというのは
実は 想像以上に大きいということを
知ってるんじゃないのかな この人は。
ああ 伊藤は。
伊藤は。 う~ん。
さあ 真山さんは
どちらを選択しますか?
え~ 私は お二人と違って
1の「大隈を支持する」を選びます。
はい。
ただ あの 前提として ちょっと
話しとかなきゃいけないのは
この時代ですね やっぱり
明治政府が やっぱり 西洋列強を
すごい気にしてたと思うんですね。
だから
国をしっかり固めなきゃいけないんだと。
そうしないと
逆に 餌食になってしまうと。
なので え~ もし それを頭に入れれば
もうこれは 迷いなく藩閥に与します。
ただし 安直すぎる。
つまり その まさに あの
中野さんがおっしゃったこと
まさに その理由で
私は止めたい やめてほしい。
つまり もっと血を見て 苦労して
バトって それで
ここの最終的な結論を手に入れないと
後々 日本は
すごく軟弱な国になるんじゃないかと。
つまり 藩閥。 それは いずれ その
どうかしたら 軍になったりとかですね。
確かにそう…。 あるいは官僚に
なったりしてですね
彼らの言うことは正しいだろうと
ずっと そうやってきたじゃないかと。
だから そこに 「なぜ」っていう言葉は
いらないんだっていうのを止める
もしかすると これ
最後のチャンスだったんじゃないかと
思うんですよね。
で そもそもですね この2人はですね
江戸幕府はおかしいって
言い始めたわけじゃないですか。
そうなんですよね。
日本の民のために ちょっと
そこを含めて
西洋の国になりたいよねって
そのためには
我々はどんな目に遭っても
何なら死んでもいいと
思って やってきたはずがですね
「何だ これは?」って 多分
なるはずなんですよね。
だから どうやって上手に
国民を巻き込みながら その
今までの延長線上にある
強い権力に寄って立ってしまうような
権力構図を やめなきゃいけないと。
そのために
自分たちは ここまで来たんだと
まあ あの 人間じゃない伊藤に
人間に戻ってほしいので。
なので ここは え~ 大隈を支持します。
ああ~。
あの 磯田さん 皆さんのお話 聞いた上で
いかがでしょうか?
う~ん もうこれは 伊藤は
2の「藩閥に与する」しか
ないですよね これはもう。
う~ん この状況では。
うん。 大隈の方に行ったらですね
これまで自分たちが持ってる
明治維新を起こした功績を
チャラにされるわけですよ。 はい。
要するに 明治維新で 鳥羽・伏見の戦い
の時とかに あの~
鉄砲を撃って 幕府軍を追ったので
その正当性で 自分たちは
政府の高官にいるわけですよ。
そうですね。
それで 議会を開いて みんな平等で
日本人全員参加するもんであって
革命の功績だとか そういうことで
政府の地位が決まるんじゃないんだと
いう話になると これ違う原理ですよね。
う~ん。
こんなのを 革命の功績で並んでる
人たちの前で言って
「うん」って言うのなんて
死んでいった西郷と木戸ぐらいですよ。
薩摩の黒田なんかは
議会とか憲法に そんな興味ないし
大久保利通が生きてたって
そんなの話すのは嫌だって
絶対言う男です 大久保は。
そっか~。
だから あの~
木戸と西郷が もう死んじゃった時に
こんなの実現するはずがない
っていうのが実際で
なるほど~。
さあ それでは
伊藤の選択をご覧いただきます。
伊藤は決断した。
在京の大臣 参議らを集め
会議を開いたのである。
会議に列席していた
太政大臣の三条実美は
その様子を こう記している。
「伊藤は ほかの参議と同様
大隈に憤激している」。
会議は 天皇と大隈が東京へ戻り
混乱が起きる前に
大隈追放で意見を統一すべき
との結論に至った。
伊藤の選択は
薩長藩閥に与することだった。
大隈の追放が避けられないと
判断した伊藤は
むしろ積極的に加担し
政変を収拾しようと動き出した。
まず 払い下げ問題の処理である。
黒田ら薩摩閥に対しては
民間だけでなく 政府内からも
次第に批判の声が上がり始めていた。
伊藤は 天皇の行幸に同行する黒田を
急ぎ帰郷させ
払い下げを中止するよう説得。
1週間かけて同意を取り付けた。
この結果
黒田の政治力は大きく後退する。
10月11日 いよいよ
大隈の処分を巡る
攻防が始まる。
天皇と大隈が帰還したのである。
同日 夜
大隈を除く参議 大臣が並び
明治天皇出席のもと 御前会議が開かれた。
会議の様子が
天皇の側近が残した日記に
克明に記されている。
それによれば…
「大臣 参議一同は
大隈の罷免を
天皇に上奏した」。
大隈が
民間と通じた
陰謀を企てている
というのだ。
ところが 天皇はこれに応じなかった。
「大隈の儀 確証ありや」。
薩長による謀略を疑い
大隈陰謀論の証拠を求めたのだ。
大臣をはじめ 伊藤ら参議は こう答えた。
「確たる証拠を
そろえることは
容易では
ございません。
ですが これまでの
大隈の行いから
もう十分 分かっていることなのです」。
「薩長の参議だけでなく
皆 大隈に憤激しております」。
「薩長のことを
お疑い遊ばされるようでしたら
内閣が破裂してしまうでしょう」。
深夜にまで及ぶ議論の末
天皇は大隈が同意するなら
辞任を認めると結論を下した。
会議の直後 大隈邸を使者が訪れた。
それは ほかならぬ 伊藤だった。
大隈は この時の伊藤の言葉を
後に こう回想している。
伊藤は大隈に 辞任の理由を
つまびらかにしなかった。
ただ 大隈にとって
盟友 伊藤からの勧告は
もはや政府の意見が
覆る見込みがないことを意味していた。
翌日 明治14年10月12日。
大隈は天皇に辞表を提出する。
大隈の辞任と まさに同じ この日
政府から国民へ 一つの訓示が出された。
国会開設之勅諭である。
「明治23年を期し
議員を召し
国会を開く」。
9年という準備期間を経て
国会を開設するという。
その理由は こう記されている。
「国の成り立ちは
それぞれの国ごとに
異なっている。
憲法は 軽々しく
制定していいもの
ではない」。
「時間をかけて 調査に当たらせる」。
これは ほかならぬ 伊藤が
草案をまとめたものだった。
日本に適した憲法を
時間をかけて制定するという
従来からの伊藤の主張が
強く反映されていた。
官有物払い下げに端を発した政治の混乱。
終わってみれば あたかも伊藤が
全てのあらすじを書いたように見えた。
後に 人はこれを
明治十四年の政変と呼ぶ。
伊藤の選択は「藩閥に与する」でしたが
それだけではなくて
払い下げ中止に動くなど
非常に複雑な動きを見せています。
あの 中野さん
伊藤は これ どういう思いで
この政変に向き合ったと考えますか?
やっぱり
追放が避けられないのであれば
自分がイニシアチブ取りたいって
いうのも 非常に こう
政治家としての資質は
感じさせる部分ですよね。
あとは ちょっと リスキーシフトという
現象がありますけども
恐らく その集団の中で 藩閥の中で
この人は もう排除したいという
意見が高まってたんだろうと考えると
その中で
より強い意見を言った人が
イニシアチブを取る
ということになっていくので
どんどん どんどん
行動が過激化していくっていうことが
集団内で起きることがあるんですね。
これを集団的極性化といって
集団的極性化のうち
危険な方に行くのを
リスキーシフトっていうんですけども
あの この リスキーシフトの現象の
最も こう え~ 先鋭的な部分を
伊藤が抑えたという感じがします
イニシアチブを握るために。
で 追放という手を取ったんだなという
様子じゃないでしょうかね。
政変の動き見ると やっぱり
ずぶとく かつ 俊敏に動いたのが
伊藤だなと思うんですよね。
ただ一方で
内面は 結構 冷や冷やしてたんじゃないか
と思うんですね。
さっきの御前会議の様子見ても
そうなんですけど。
ちょっと
その 当時の状況を考えてみますと
たった3年前に
大久保が暗殺されてるんですよね。
で それよりも何も
250年以上にわたって
存続していた徳川幕府っていうのが
瓦解してから まだ14年しかたってない。
そうですね。
伊藤からすると やっぱり
自分たちが倒されるっていうことは
まだ結構 現実的な問題として
捉えてたんじゃないかなと思うんですね。
在野の暴発ですとか テロ
下手したら自分も
暗殺対象になるかもしれない
というような恐怖もあったのかなと。
で 実際 政変後なんですけど 伊藤は
結構 神経症になってですね
毎晩 酒を一升かな 飲まないと
眠れないとかっていうような
まあ翌年ですけどね
そういうような状況になってるので
内面は結構
冷や冷やしてたんじゃないかな とも
思いますね。
う~ん。
真山さんは いかがですか?
伊藤にとって
結果が一番大事だったと。
で 彼にとって結果って何かというと
思いどおりの憲法を作ること
だったと思うんですね。
つまり 伊藤にとって
一番やりたかったことは
大隈を排除することではなくてですね
藩閥で ごちゃごちゃ
文句言う人たちに対してですね
天皇陛下は大隈に対してまだ
信頼感があるので
その 陛下の思いまで
その ある意味 踏みにじってでも
大隈を外した以上は あなたたち
憲法に関して文句言わせないと。
天皇陛下を利用してですね
最終的に 一番藩閥で彼にとって
気になっていた 切りにくいものを
全部 切りに行っているって
いうところが
何か やっぱり その 伊藤という人の
政治家としての器なのかなと。
あのね 明治天皇の発言自体が
伊藤が仕組んでる可能性さえ
僕は疑ってますよ。
ああ そうですか。
え~とね こうだと思うんです。
あの~ 明日
大隈さんの罷免の会議を開きますと
そこで 明治天皇が止めた形にした方が
明治天皇も傷つかないで済みますと。
はい。
みんなの天皇って感じになりますと。
はい。
もう それは
周旋家って言われた伊藤ですから
まあ 根回しっていうか
仕掛けは 細工は 非常に流々な
同日で ああやって 国会開設の儀が
出てるのを見ても分かるでしょ?
ええ ええ…。 緻密なんですよ。
そっか ああ~。
久保田さん いかがでしょうか?
政治の動きっていうのは
とかく 陰謀論で語られがちな
ところがあるんですけど
きっとですね 多分 そういった
想定外を どうやって
こう 後付けでもいいから
うまく渡り歩くかっていうことが大事で
ま その辺りの うまさっていうのが
伊藤には あった。
そのあとの時代を知る我々からすると
伊藤はすごくしなやかに
政変を乗り越えてるようにも
見えるんですけど
やっぱり 内実としては 結構
ギリギリのところを歩み続けた。
ただ そこを本当にうまく歩いたのが
伊藤だったのかなとも思いますね。
さあ 政変の結果
憲法制定の主導権を得た伊藤
どのような憲法を作ったんでしょうか。
東アジアで
初めての憲法
大日本帝国憲法が発布された。
憲法制定にあたって
中心的役割を果たしたのは 伊藤だった。
自らヨーロッパ各国に赴き
1年半に及ぶ調査を実施。
伊藤が日本に適していると考えたのが
君主権の強い プロイセン憲法だった。
だが 伊藤は
これを単に模倣するのではなく
日本独自の憲法へと作り替えていた。
憲法55条
ここに 伊藤は
プロイセン憲法
にはない文言を
盛り込んでいる。
「国務各大臣は
天皇を輔弼する」。
輔弼とは
大臣の天皇への
助言を意味する。
これにより
天皇は内閣の意見を聞かずに
独断で
権限を振るうことはできない とされた。
ところが
その内閣を構成する大臣の規定は
どこにも明記されていない。
ここには 伊藤の
ある ねらいがあったと
真辺さんは言う。
内閣に関する規定がないという形で
一切 その
明言しない形の憲法になってるので…
伊藤が憲法に込めた願い。
それは 国民が成熟した上で成り立つ
政党政治の実現だった。
憲法発布から
9年後の
明治31年6月30日。
伊藤の悲願が
成就する。
…の誕生である。
内閣は
陸海軍を除く
全ての大臣が政党員から成り
首相に任命されたのは 大隈だった。
大隈は政変後 自ら政党を結成。
議会の過半数を占めるまでに
育て上げていた。
そんな かつての盟友を
首相候補に推挙したのは
ほかならぬ 伊藤だった。
大隈内閣成立直前に
伊藤の別荘で撮影された
1枚の写真が残されている。
56歳の伊藤と 60歳の大隈。
共に政治の第一線に
身を置くようになった2人が
目指した国家の形は
くしくも同じものだった。
2人の歩んだ道が再び交差した時
明治日本は 政党政治という
新たな段階へ一歩を踏み出した。
共に過ごした築地梁山泊の日々から
29年後のことである。
伊藤と大隈の関係は
完全に壊れることはなかった
ということなんですね。
あのね 藩閥政治ってやっていくとね
実は単純じゃないんですよ。
藩閥の中に必ず派閥ができるんです。
ああ~ ええ ええ。
長州閥の中でも
伊藤の閥と山縣の閥が
できちゃうわけです。 ああ~。
それでね 山縣は
軍隊の組織力です。
ほいでね これ ほっといたら山縣の閥が
強くなっちゃうの。
そしたら
伊藤にしてみると
同じタイプの政治家 探したら
やっぱりね 大隈なんですよ。
口がうまくて 学校つくって
弟子いっぱい育てて
選挙の時に勝利できる
情報網や組織網がひけるっていうと。
そうすると やっぱりね
開明を謳ってた
若き日の2人っていうのは 結局 その
藩閥政治の最後の段階ですね
やっぱり あの~ 憲法も持って
議会も持って
政党をやってっていうと
似たタイプの2人っていうのは
協力し合っていくっていう方向に
やっぱり なったんだと思うんです
私は。
う~ん。
そうですね ウフフフ。
フフフ…。
なので ここは やっぱり もう少し
さすが政治として達人的な伊藤は
やっぱり
使いやすい大隈をキープしといて
よかったっていうことに
なるんじゃないのかなって
いう気がしますけどね。
何か いかにも一番最強の
敵を招いたように見えてますけど
手の内が全部分かってる大隈は
すごい使いやすかったと思いますね。
強い国にするためが最大の目的で
政党政治をやるってことが
目的じゃなかったと思うんですよ。
で 逆に言うと
だから 政党政治はリスクだったと
彼は思ったと思うんですね。 そうすると
一番分かりやすい人間を使う。
つまり 若いころから
考えは分かってるし
ずっと政党政治を研究してきて
しかも 人間的によく分かっている人間を
推挙する。
だから これで よく分からないけど
もっと先鋭的な人間が
総理大臣になられたら
多分 コントロールできなくなると
思うんですね。 う~ん。
さあ 伊藤は憲法を制定する時
この未来 どこまで予想していたのか
久保田さんは どう思いますか?
憲法が発布されたあとに 伊藤は結構
いろいろな演説をしてるんですよね。
で 皇族 華族だとか
府県会の議長なんかに対して
憲法政治っていうのは あくまで
やっぱり 国民が主体の政治なんだと。
だから…
…ということを
結構 力説してるんですよね。
だから そういった意味では
伊藤っていうのは やっぱり
将来的な政党政治っていうものは
やっぱり 考えていたし
時世の変化っていうものに
本当に合わせて
伸縮自在に対応できるような憲法を
作ったのが 伊藤だったのかなと。
で 実際 その 伊藤がいろいろ
憲法を運用していく中で
例えば 軍部に対しても
軍の帷幄上奏権ですか あの~
軍の高官が内閣を経ずに
天皇に意見できるって
いうようなものをですね
結構 こう
コントロールしようとして 軍政を
立憲体制の枠内に収めようというふうに
頑張ったりしてるんですよね。
ただ そういった この規定の枠内で
柔軟かつ弾力的に
運用するっていうのは まあ
制度を設計した伊藤だから
できることであって
その次の世代ですよね。
その もともと
憲法や議会っていうのがある中で
出てきた世代が そこまで
柔軟にできるのかっていうのは
分からないなと思うんですね。
う~ん。
あの~ 今の話 聞いてても
まさに そうだなと思うのは…
で よく分かんないけど 後ろの方に
秘密の通路もあればですね
いろんなところで その ボタンを押すと
いろんな変化ができるんだけど
理由も分からなければ
使い方も分からない みたいな状況で
伊藤が死ねば これどうやって使うの?
っていうことになるって
いうところに問題がある。
だから やっぱり
その 作った人しか
知らなかったっていうところが
まあ 結果 このあと 日本が
結局 権力者が 自由に使えば
いいんでしょっていう
政治になってきてしまってることを
考えると
やっぱり もっと衝突してほしかったし
もっと 思いどおりになってほしくない。
伊藤が 天才 伊藤でも
うまくいかなければ… って
思っちゃいますね やっぱり。
ああ~。
伊藤という人は やっぱり 個よりも
システムを重要視する人 しかも
意見の相違から出てくる建設的な
まあ 議論よりも
空気を読むことを求めるタイプ。
ああ~。
本当は建設的な議論があった方が
よかったんじゃないか。
それから 異論というものを
認める寛容性というものを
どんどん どんどん なくす方向に
やっぱり動いてしまったんじゃないか
という反省はあると思うんですね
今の時点から見ても。
さあ 磯田さん 今日は
明治十四年の政変について
見てきましたけれど
どんなことを感じましたか?
うん。 あの この明治十四年政変 以後
学校で秀才を育てて 官立学校で
それで この まあ 伊藤とか あるいは
藩閥のトップがいたところの
あの 秀才の子分にしていくっていう
システムで 長いこと
明治 大正は やったわけですよね。
ええ。
ほいで まあ
いよいよ明治維新の この~
特権階級の人たちが
いなくなったところで
彼らは やっぱり
ちょっと こう この憲法
伊藤が残した憲法の
操縦法を分かりませんし
元勲 元老って言われる人たちが
いなくなると
翌年は もう 日米開戦ですよね。
それで まあ 負けちゃったわけですよ。
だから ちょっと この辺の
明治十四年政変で作っちゃった
レールの方向性
そうしようとは
伊藤も思ってなかったでしょうし
当時の人も思ってなかったでしょうけど。
はい。
オートマチックに
この明治十四年政変で つくられた
この国の形っていうのが こう 先に
こう 進んでいくと
まあ 昭和の戦争を避けられなかったり
いろいろ問題も起きてるのかなっていう
気はしますよね。
そうですね~。
どこかで 決まったことを
もう決まったこととして
受け止めがちですけれど
決まったことに対して やはり
疑問を持ったり
本当に建設的な
議論をしてほしいなという感じが
今日 この番組を見て思いましたね。
そうですね。
はい。 さあ 皆さん
今日は どうもありがとうございました。
(一同)ありがとうございました。
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