こころの時代~宗教・人生~ 僧侶たちの戦争[字]…の番組内容解析まとめ

出典:EPGの番組情報

こころの時代~宗教・人生~ 僧侶たちの戦争[字]

不殺生を説く仏教僧たちはなぜ戦争に関わったのか。この問いに向き合う浄土宗の有志の僧侶たち。全国の寺から戦時中の遺物を収集し、その歴史から学ぼうと活動している。

詳細情報
番組内容
浄土宗平和協会の廣瀬卓爾理事長は全国7000を超える寺院に呼びかけ、戦時中の資料を集めてきた。それらの資料から僧侶たちが戦争に積極的に協力した歴史的事実が浮かび上がる。当時の教団は本来の教えを曲解してまで戦争加担の論理をうち立てた。廣瀬さんの、僧侶と戦争の問題を考える原点の一つは、先代住職の父が開教使として中国大陸に渡っていたこと。遺品から僧侶たちの人生に触れ、僧侶であることの意味を問い直す。
出演者
【出演】浄土宗平和協会理事長・佛教大学名誉教授…廣瀬卓爾

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
趣味/教育 – 生涯教育・資格
福祉 – 社会福祉

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  18. 阿弥陀仏
  19. 過去
  20. 気持

解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)

NHK
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エンスカイ(ENSKY)

♬~

今年6月 仙台市で
浄土宗の僧侶や信徒が集まって

平和を願う法要が開かれました。

会場に並べられたのは
戦時中の寺院の様子を物語る写真や資料。

その中に 注目を集めていた
一枚の写真があります。

太平洋戦争中

兵器を作る金属のために供出された
阿弥陀如来像を囲む人々。

滋賀県の僧侶・廣瀬卓爾さんは

各地に残る こうした写真や
資料を集めてきました。

戦争中 僧侶たちは
檀家や信徒の人たちを戦地に送り出し

自らも出征しました。

不殺生を教えとする仏教の僧侶が

なぜ 戦争に協力することに
なったのでしょうか。

♬~

廣瀬さんは 浄土宗平和協会という
団体の理事長です。

戦争当時の資料が見つかったと聞くと

全国に足を運んで 調査を続けてきました。

阿弥陀仏の供出があったことを示す写真は
群馬県の寺で見つかったものでした。

ようこそ いらっしゃいました。

遠いところを
どうもありがとうございます。

阿弥陀仏は 戦時中の「金属類回収令」
という勅令を受けて出されました。

象徴的な…。

(松本)お寺にとってはね
一番大切なもの…。 大切ですね。

(松本)本当に みんなに惜しまれて

当時で言えば お国のためにということで
戦争にタスキをかけて行かれてしまった。

江戸時代の享保年間に作成された
阿弥陀様の金仏様のようですね。

阿弥陀様の供出っていうのは
1点だけなんですよね。

1点だけですよね。
あっ そうなんですか。

阿弥陀様まで 供出のね命令っていうか。

皆さん 檀徒さんの方々?

(松本)
檀徒さんの方も いらっしゃいますし
近所の方だと思うんですよね。

80人ぐらいの方が
写真に写っていますけれども…。

若い男性の方が少ないなという。

(松本)そうですね。
女性とね 子どもが多いですよね。

あとはね お年寄りですよね。

やっぱり 若い方は みんな
戦地に駆り出されていたんでしょうかね。

阿弥陀如来を
戦争に やらなければならないっていう

本当に 当時の祖父 父も

大変 心を痛めるところだったんじゃ
ないかなってね 思いますし

近所の人たちも まさかって気持ちで
送ったかもしれないですよね。

この寺では 金属製の阿弥陀仏や梵鐘は
差し出したものの

木製の本尊は守ったといいます。

(松本)大事な本尊様が 戦争の戦火で
焼かれてしまってはということで

父が リヤカーで
高崎の いわゆる田舎のお寺に

疎開をしてるんですね。
ああ そうですか。

ええ。 ですから先に こちらの阿弥陀様が
戦争の方に とられてしまってて

あとは 本尊様の阿弥陀様を
守らなきゃならないっていう

そういった気持ちが
より強くなったかもしれないですよね。

阿弥陀様を
供出の対象にしているっていう こう

驚きと 腹立たしさというか
怒りというかね

その時に送っていかれる
その ご住職の気持ちっていうのは

やっぱり もう
言い難いものがあったと思うんですよ。

だって 教会で言うとね

イエス・キリストの
キリストの像を持っていくわけでしょ。

更に調査を進めると

同じ群馬県で 戦時下の寺の状況を写した
フィルムも見つかりました。

戦局が悪化し
本土空襲の危険が高まると

寺は 子どもたちが避難する
疎開先としても使われました。

これは 今 ここは参道ですね。

最初 これ見た時 驚きましたもん。

現実で こういうことが
あったんだなって ほんとに。

フィルムとともに見つかった
子どもたちの日記には

戦時下の寺での生活や

寺にまで 召集令状が届いた時の様子が
記されていました。

廣瀬さんは 発掘した資料の中に

当時の人々の さまざまな思いを
くみ取ろうとしてきました。

過去の遺物とか 過去のものを
考古学のような感覚で

ものを集めているのでは
決してないんですよね。

この間 伺ったお寺で
あれは 小嚢っていうんですかね。

兵隊さんが抱えてる
小嚢の中から出てきたゲートル。

ゲートル1本 見た瞬間 これを巻いた人の
肌のね ぬくもりというか。

ただ ゲートルをはいた兵隊っていうのを
文字で読むと

そこで ゲートルを巻いた兵隊が
いたんだなっていう。

もので… ゲートルをはいた この兵士が
既に戦地で亡くなっている。

ここへの思いがね
こういうものが 非常に あの

ものが持っている訴えというのがあると。

これを 過去に学ぶというか
あるいは 過去を生かすというか

だから 一つ一つのものが訴えている

そこには 家族への思いとか
あるいは 友人への思いとかですね

自分の人生に対する思いとか
いろんなものが凝縮されて

ものが そこにあるという。

それに 若い50代までの僧侶たち
今 僧侶になっている人たちが

思いをはせてほしいっていう。

それが 資料を収集している
私の思いですね。

協会全体の思いでもあると
思いますけどね。

(鐘の音)

滋賀県大津市
琵琶湖近くに建つ 願海寺。

廣瀬さんは 江戸時代から続く この寺の
31代目の住職です。

なぜ 自分が戦時中の資料を
集めているのか

法要に やって来る人たちにも
その動機を訴えてきました。

僧侶たちは どのようにして
戦争に組み込まれていったのか。

廣瀬さんが 理事長を務める
浄土宗平和協会は

全国7, 000を超える寺に呼びかけ
戦時資料を集めてきました。

福島県からは 寺を継ぐため
仏教系の大学を卒業した青年の

徴兵当時の遺品が寄せられました。

これが 大正大学の学生であった時の

青柳良厳さんという方が出征される時の
出征旗。

お寺の近在の人たちが

あるいは 学生仲間が
寄せ書きをしたみたいですね。

「俺も行くぞ」って
いうのが あるね。

僧侶総動員態勢調査表って
こんなのもあるんですね。

僧侶たちは なぜ戦場に向かったのか。

廣瀬さんは 明治時代の日清戦争当時

出征する僧侶たちに渡された
冊子に注目しています。

浄土宗が 教団として発行した教本
「報恩教話」。

僧侶が 国家に奉仕することの義務が
うたわれていました。

「たとい その身は海に死し
山に斃るとも

弥陀仏の慈悲
などか打ち棄ておかるべき

直ちに迎えて 浄土に往生せしめ給わん」。

「この際 出陣の士
よくよく前のことわりを心得て

のちの世のおちつきは
まったく弥陀仏に打ち任せ

この身は あくまで
君王に捧げ上るべし」。

「行く末は阿弥陀仏の慈悲に任せて
自分の身体は天皇に捧げよ」。

教団を束ねる管長が記した文章です。

「さて この度の戦争は朝鮮の弱きを憐み
独立を擁護せんが為に基づき

辭 明らかなる仁義の師なれば

之によりて 我帝國の光栄は
廣く萬国に輝くべし」。

当時の日本で 仏教は
どういう立場に置かれていたのか。

国のかたちを決めた
「大日本帝国憲法」では

宗教について
こう規定されています。

「日本臣民は 安寧秩序を妨げず

臣民たるの義務に背かざる限りにおいて
信教の自由を有す」。

「信教の自由は 天皇に仕える
臣民としての義務に背かないかぎり

与えられる」とされています。

仏教もまた 天皇を頂点とする
国家体制を支えるものとして

組み込まれていったのです。

日本は 天皇の国なんだと。
で 自分たちは それの子どもなんだと。

だから天皇が 天皇の名において
だから まさに聖戦なんですよね。

聖っていうのは
聖なる世界の聖戦ではなくて

天皇の戦争なんだと。

そこに それを親と思えば
子たる国民は 願ってでも行けと。

非常に厳しく言うと
当時の彼らに 仏教僧としての

その自覚があったのか
ということになるんですよね。

そういう時代であったから 武器を
取らざるをえなかったんだというふうに

まあ あとになって 今ね 私たちは慮って
そういうふうに言いますけども。

どういうレトリックで
やったのかというのは 分からないけども。

そういうことを説いていたっていう
事実は残っています。

なぜ 何のために 過去の歴史を
検証しなければならないのか。

廣瀬さんの僧侶としての活動の原点は
少年時代に遡ります。

この向こうが 海外だと思ってたんです。

これは 海だと思ってたんで
海の向こうにあるのが 海外だと。

廣瀬さんは 日本敗戦の2か月前

1945年6月に 代々続く
願海寺の長男として生まれました。

成長するにつれ 父のあとを継いで
住職になることに疑問を感じ

自分が 僧侶として人生を歩むべきか
悩みました。

中学の時に 進学校
今でいう進学校だったので

みんな それぞれ
夢があるんですね。

自分は こういう仕事に就きたい。
こういう職業に向かっていくんだ。

ところがね その夢を持とうにも
そのころから 世襲

これ 本来は世襲制じゃないんですけどね。
浄土宗の場合は。

ないけれども 寺に生まれた長男が
その寺を継ぐというのが

決まりではないけども
当たり前になってきた。

で 悩んだんですね。

なぜ悩んだのかって 今から思うと

こういう僧侶になりたいという
モデルがなかった。

当時 中村錦之助という
あとで萬屋って屋号が変わりますけども

彼が演じるところの
「親鸞」っていう映画があって

その親鸞聖人が
若い頃 悩まれるんですね。

法然上人と同じように
比叡山で学ばれるけれども

一体 その ここで学んでることの

あるいは自分が修行してるっていうことが
人々にとって どういう意味を持つのか。

あるいは 自分の苦悩
苦悶さえ 解決できないと。

そのセリフが
非常に強烈に 胸の中に響いて。

お経の本と 三部経と 全国寺院名鑑
というのが ありましたから

それを リュックサックに入れて

「立派な僧侶になって 戻ってきます」
という手紙も残して

法然上人が歩まれた道
比叡山の方へ向かったんですね。

廣瀬さんは 人々をどう救えるか

自らも苦悩した法然や親鸞の
足跡を追うようにして 家を出ます。

それは 俗世での生活を
絶つことまで考えた出家のつもりでした。

もう 辺り構わず お寺を探すか
あるいは仙人にでもなって… と思って

向かったんですけども
その日が ちょうど土用の丑の日で。

私が ウナギが好きなので
ひょっとしたら 今生の終わりかと

今生の最後の食事になると思って
そのウナギ屋に入った。

そうすると 2週間近く
夏 歩いてるわけですから

中学生が 無銭飲食に
来たんではないかっていうんで

店の主人が
お金持ってんのかと言いながら

その主人は 村の そこの駐在に電話をして
変なのが来たと。

駐在さんが来て そこで身柄が保護されて
で 帰ってきたんですね。

出家するための
旅立ちだったわけですけども

世間は それは 家出少年。
で まあ 謹慎処分。

で 東京に行こうと。

で それを父に言いましたら
それで よしと。 好きな道を歩めと。

寺に生まれたから
不承不承 継ぐっていうことになると

阿弥陀様の願いでもないし

ましてや 檀信徒さんたちの気持ちにも
沿わないと。

覚悟の出家のつもりが

不良少年の家出とされたことに
ショックを受けた廣瀬さんは

高校卒業後
念願だった上京を果たします。

大正大学に入学し 社会学を専攻。

そこで出会った教授の言葉が

廣瀬さんにとって
その後の道しるべとなりました。

社会病理学というのをね 学んだんですよ。

その恩師は 柏熊岬二という先生で
下半身が不随だったんですよね。

それで 私は おんぶして
教授会に出たりしたんですけども

社会病理学って
何のために 君 やるんだと。

そこに困ってる人たちがいる。

なぜ その問題が起こってきたのかって
いうのを研究するんだろうと。

そうすれば その状態をなくすには
どうすればいいのかっていうのを書く。

これが 俺の学問だと思うというふうに
おっしゃってね。

もう 55歳で亡くしてますから
あれですが

いまだに やっぱり
そういうことだと思うんですね。

仏教 ましてや仏教。

学問は 苦しんでいる人たちの身になって
その原因を探り

現在を よりよくするためにこそある。

この恩師の言葉は 廣瀬さんの その後の
ライフワークに つながってゆきました。

廣瀬さんには 仏教者にとっての戦争を
我が身に引き寄せて考えるうえで

ずっと わだかまりとなってきた
写真があります。

戦時中 中国大陸で撮影された
先代住職の父 亮誡さんの写真。

袈裟を着た父が
サーベルを持つ男たちと写っています。

父 亮誡さんは 日中戦争のさなか
日本の植民地だった朝鮮半島や

租界があった中国大陸などに
派遣される「開教使」

海外で布教活動をする僧侶として
蘇州に渡っていたのです。

四日市の農家の出身なんですね 父は。

で 僧侶になる道を歩んで
浄土宗の僧侶になって

やがて 中国大陸の開教師補ですかね
そういう形で 蘇州へ渡るんですよ。

蘇州で 日本語 幼稚園ですね
明照幼稚園っていうのをして

その時に 保母さんが 何人か必要だと。

そこにいたのが 母。

その母と 向こうで
結婚をするんですね。

行く時は 阿弥陀様をね くくりつけて
体にくくりつけて 同心一体なんだと。

それぐらいの思いで
開教に行ってますから。

当時は いわゆる満州に
開拓団の人たちも入る

ほとんど 満州のネイティブの人も
日本的な文化や言葉や

そういうものが
もう 日本化されてましたから

父は そういう若くて
向こうに移られた人たちを対象に

法然上人の御教えを教化する。

あるいは そこで生まれた日本人および
中国人の子どもたちを保育する。

そういう役割を担っていたんですね。

ただ 戦況が やはり厳しくなってくる
16年 17年になってくると

日本軍の戦線の拡大なり 整備等に
長く地元に住んでいるものですから

いろんな情報を提供するという
役割も担っていたと。

そのことは 当時
私 まだ中学か高校の時に

そういう役割について
疑問に思ってましたから

サーベルを持った人たちと一緒に
真ん中に座っている写真があるんですね。

なぜ 僧侶がサーベルを 脇に置いたのと
並んでいるのか。 同席しているのかと。

それで 別の写真があってね
その時に 父は僧服じゃなかったですね。

いわゆる 国民服というんですかね
カーキ色の あれを着て

小高い丘に立って
何か 軍人たちと一緒に並んでいる。

そして いわゆる軍人に 何かこう
説明してる写真があったので

「これは 何をしてるんだ」と言ったら

「私は 土地を
その蘇州の町を知ってるから

どういうふうに
守る時は どこを守ればいいのか

どこに構えればいいのかというのを
相談を受けたから

それの説明をしてるんだ」と。

それで 「これじゃ まるで
仏教の教えを伝えに行ったんじゃなくて

協力じゃないのか?」と
淡々と言ったんですよね。

そしたら 「冗談じゃない」と。

「子どもたち 中国の子どもたちに
蘇州で幼稚園を開き

そして そこに住んでる日本人の人たちに
ラジオ講座の企画もしたんだ」と。

「だから 決して
そういうことではない」と。

それが 父との軋轢に
ず~っと なってましたね。

まして その宣撫工作の一翼をね
担ったんではないのかと。

それで 最初 聞こうとしなかったので

「そういう話は よそう」と言ったんで
「よしません」と。

「なぜ その話から逃げるんだ」
というぐらいまで

ちょっと激しいやり取りだったですね。

まあ インド 中国 朝鮮半島から
経由してきた日本仏教が

なぜ その仏教が
西に向かって 開教というようなね

おこがましいことを考えたんだって
そういう疑問も当時 私 持ったんですが。

それは ともかく 日本仏教の
法然上人ひとえに 一筋に来ている

あるいは 親鸞聖人一筋に来た人たちが

この教えこそ 今 異郷の地で頑張っている
日本人に対して説くべき教えだと思って

多くの人たちは出ていったわけですね。

開教師になって 赴任するわけですが。

それを その
いわゆる統括している 上層部がね

ある種の目的を担って

彼らは動くんだというのを
知っているわけですね。

それは 今までの
いろんな資料の中からでも

その僧侶を 工作員というか
そういう任務に就かせるべく

その協力を要請しているという
日本の国策 国の政策が残ってますから。

だから
父が それをいつ感じ始めたのか

あるいは それを知ったうえで
協力をしたのかというのは

最後まで分からなかったですね。

父 亮誡さんは
戦争当時の心の内を語らないまま

この世を去りました。

廣瀬さんの記憶に残っているのは

帰国後の人生を 地域の生活困窮者支援や
福祉活動に捧げた父の姿でした。

蘇州時代というかね 開教師の頃の父は
そういう まあ 姿であったし

帰ってきてからも そのことに
触れることへの反応というのは

さっき言ったような
時に怒り 時に口を閉ざす。

ただ 帰ってきて
社会福祉に まあ 従事すると。

あれは まあ 開教に行ってた
ということもあるんでしょうけども

在日の ある 外国籍を持った人たち
一世たちが亡くなっていく

その弔いをしようということで。

まあ今も 在日韓国 朝鮮籍の方
あるいは帰化された方も

結構 このお寺 多いんですね。

それと生活保護
まだね 生活保護 社会保障が

そんなに整備されてない頃ですからね
昭和21年 22年 27年というのは。

だから その生活困窮の方々のお弔い
そういうものを やってましたからね。

だから 私の記憶は ただ母と共に
戦後の この大津の小さなお寺で

福祉に 一筋に生きた人だなという
そういう印象ですね。

廣瀬さんが率いる 浄土宗平和協会。

去年から 本格的に行われた
収集活動の結果

今では 150点を超える戦時資料が
集まってきました。

それらは 各地の僧侶が参加する
専門委員会で調査されます。

よろしくお願いをいたします。

気になったのがですね
この…

要は あの~…

(大谷)それが やはり行われていた。

…いうふうに思うんですね。

委員会メンバーの一人
千葉県の寺の住職 八木英哉さんは

僧侶たちが 教団の どんな指導を受けて

戦場に赴いたのかを示す資料の
分析を進めています。

「時局特別傳道教化資料」。

日中戦争のさなか
全国の住職に配布された冊子です。

そこには 国の内外で布教するにあたり

僧侶が説くべきことが記されていました。

「大御命」である
その「命」から 分け与えられて

私たちが出てきた国民だ
ということがありますね。 はい。

だからこそ 「忠誠」の心が
おのずと湧き上がってくるんだ

というようなことがあり

「だから 私たちに取って
陛下は『阿彌陀』でまします」と。

そこには 「限りない命」を意味する

「無量寿」の仏 阿弥陀仏が

天皇であると記されていました。

…ということは よく考えています。

この 「傳道教化資料」が
布教する僧侶に配られたのは 1938年。

それは 廣瀬さんの父 亮誡さんが
中国大陸に派遣された年です。

この資料は 戦時中のことは
堅く口を閉ざし

戦後は 社会福祉に力を注いだ
父の心情を察する

一つの手がかりとなりました。

いかに死ぬかということじゃなくて

いかに生きるか。

その時に
その 阿弥陀如来という

これ ストーリーですよね。

阿弥陀様が 阿弥陀如来になる前に

法蔵菩薩という 修行僧の時代に
誓いを立てると。

それは その西方の彼方に 立派な

人々が 平和に 安穏に暮らせる
国土をつくるんだと。

そこに自分は必ず 人々
苦しんでる人たちを呼び寄せようという

そういう誓いを立てる。

これが 阿弥陀様になられるんで
南無阿弥陀仏というふうに言って

まあ そこに行こうとする。

そこに行くためには
生きてる間に 人として 他者を敬う

自尊性を持つ

心を静める それが大事だと。

だから その論理と…

その論理というのは それとね
その天皇が どこで こう一緒になるのか。

ただ 当時の国家としては
そこに結び付け…

あの 国家なり 当時の教団は そこを
結び付けないと 論理が合わなくなると。

そのことが 一殺多生にも
つながると思うんですね。

自分が死んだとしても

多くの 自分の肉親や
国民が救われるのであれば

あるいは
一人をやっつけることによって

自分が やられても
他のものが救われていく。

だから 多くのものを生かすために
一人を殺すんだっていう

一殺多生なんていうのは 変な話で。

なぜなら 不殺生 不殺生戒ですよね。

一切のものを生かすという。

だから 僧侶が…

僧侶が武器を取るというのは
ありえないことなんですよね 本来。

武器を取った瞬間
僧侶をやめないかんでしょう。

僧侶という その地位をね。

僧侶であるかぎり
武器を取っては駄目だと。

殺されても 武器を取っては駄目だと。

そういう問題
つまり 社会的事柄というのに

僧侶が発言をするというのはね
らしくないという空気があるんですよ。

平和を言うやつは
その 左派のイデオロギーだと。

仏教者は もともと
そういうイデオロギーは持たない

持ってはいけないんだと。

平和を言うこと
戦争反対であるということを言うことが

なぜ イデオロギーの問題になるのか。

それは 国家が仕掛けようとする事柄に
反対をするから

反体制だというふうに
言われるんですよね。

非常に単純なんですよ。

ということは
国家の言うことは全部聞く。 ね。

反対であっても 聞くふりをするなり
聞くということになる。

それが 今 私たちがやってる
戦時の資料のいろんなものを見ていくと

明らかになってくる。

国策を担わされた教団の中で

葛藤を抱えながら戦地に赴いた僧侶たちは
どんな戦後を生きたのか。

それを物語る遺品が
栃木県の寺で見つかりました。

(山田)これ ず~っと名簿ですね。
ほ~。

この名簿を 今まで どこかに…?
(山田)あります。

出したことはあるんですよね。
ああ そうですか。

(山田)向こうで亡くなった人たちの
名前とかね 何とかの…。

法要をするんですね ええ。

その時に作ってきたもんだと
思うんですけどね。

南方戦線に出征した
この寺の住職・山田隆元さんが

戦後 持ち帰った名簿です。

山田さんは オランダ領インドネシアの
ジャワ島で

現地のオランダ人を収容した
抑留所の所長でした。

戦後 バタヴィアでのBC級戦犯裁判で
部下による虐待の罪を問われ

20年の長期刑となります。

6年後 山田さんは
巣鴨プリズンに身柄を移され 帰国。

身に携えて 持ち帰った名簿には

処刑されたり 自ら命を絶ったりした

兵士たちの最期が刻まれています。

山田さんが
インドネシアの刑務所の中で

砲弾のかけらで作った仏具 お鈴。

廣瀬さんは この遺品によって

最後は 僧侶として生きようとした
山田さんの思いに触れました。

山田隆元さんが 刑務所で

砲弾を加工されて お鈴にされてると。

そして その刑務所で亡くなられた
日本兵のご回向をなさると。

まあ 当時 どういう音色だったか
分かりませんけど…。

(鈴の音)

う~ん… うん。

僧侶として 出征されて

いろんな経緯があって
収容所の所長になった。

刑務所にいて
自分の部下たちが処刑をされる。

あるいは自死をする。

逃亡して そこで命を落とすと。

そういう人たちを
「私は やっぱり僧侶なんだ」というね。

ひょっとしたら
そこで自分は一生を終えるかもしれない。

しかし 自分は 僧侶として生きたんだ。

弔うためには 回向を きちっとしようと。

そのためには
これ 無くてもいいんですよね。

無くてもいいけれども
その 聞こえるかと。

(鈴の音)
うん。

だから これを作っておられた時の
心境を察するとね

ちょっと 言葉出ないですね。

けども これ 見るたんびに…。

その 無念とか何とかじゃないんですよ。

これを作り これを打ち鳴らすことで
ご回向するということが

まだ若い山田隆元さんの 僧侶としての
どう言うんでしょうね…。

平時だったら 思いつかないことですよね。

古い言葉で言うと 存在証明というか

自分が僧侶であることの
アイデンティフィケーションを探し求めて

これだと思って
お作りになったんだろうと思うんですね。

これは ほんとにね あの…。

浄土宗の宝物だと思いますね。

後世に伝えるべき
これは そういうものだと。

集めてきた戦時資料を
現代に どう生かすか。

廣瀬さんは
自らの歩みを振り返りながら

今を生きる僧侶たちが目指すべき道を
問い続けています。

何のために
資料を掘り起こしてるんだと。

掘り返すことを
今まで しなかったことが

問題だというのもありますし。

自分自身に
刃を向けなかった自分が

70後半をね 経て

これは やっぱり課題だと
改めて思ってるんですね。

言えなかった自分がいるんですよ。

今 言わなきゃ

あるいは 誰かが言わなきゃ危ないな
ということを 今 感じてるんですね。

個々の住職が 平和へ寄せる思いで

真剣に取り組んでおられるご寺院
ないわけではないし

よく知ってる方々も おられますけども

その時節 時節の 「終戦記念日だから
平和宣言しましょう」とかね

例えば 沖縄の問題にしても
広島 長崎にしても

まあ 衣を着て こんな ふんぞり返って
前の方に座ってる僧侶たちは

これ終わったら
このあと どうしようかって

思ってるのかどうか知りませんけど

その後ろで 手を合わしているね
人たちの方は 涙こぼしてるんですよね。

あるいは 幼い子どもたちでも

戦争は反対だという気持ちで
手を合わしている。

だから どこまで本気なのかっていう。

まあ ちょっと下世話になる…
なりますけども

国葬にかかる費用ね あるいは 浄土宗で
各遠忌 記念行事ですね 800年とか850年。

ここにかかる お金がね

僅か1週間とか 1日のためにね
億の単位を使うわけでしょ。

ちょっと 頭ひねればね うん…。

だから 法然上人が存命であれば

こういう行事を いいことだというふうに
思われたかなというと

決して そうじゃないですね。
ばかなことをやめとけと。

そういうね 余力があるんなら
飢えた子に象徴され…

まあ 象徴的に言えば 飢えた子にね
少しでもというふうに

おっしゃるだろうと思うんですよね。

祈るだけじゃ駄目だろう。

どう 実践に結び付けていくのかという。

仏教僧として生きるというのは
どういう意味を持つのかというのを

しっかり 今 持たないと

もう 仏教というのは
先ないんじゃないかと思うんですよね。

戦争は悲惨だとか 戦争は悪である
平和が尊いんだって

これ 言葉で いくら繰り返しても
そんなことは 誰でも分かってることで。

それを 一個の やっぱ人間として
そうだという信念を持って 説かないと。

その 経典からね 言葉を引っ張ってきて

「お経の本に こう書いてあります」って
言った瞬間に

私だったら 「お経の本に
そう書いてあるかもしれないけど

あなたは どう思うんだ」と
問いかけるでしょうね。 うん。

そういう… 静かに目を閉じて

社会の情勢
あるいは 日々の自分の生活を内省する。

そして
もし それが 今すぐ答えが出なければ

答えを求めて
精進するという姿を示すことが

自分を大事にすることだと
思うんですよね。

自身の人生を
あるいは 日々の生き方を大事に

自分の尊厳というか その自尊性

だから 知るということですよね。

知るということと 本当の意味で
自分の人生 内省するということと

自分の尊厳を 最大限生かすために
使命を持ってね。

使命感のある人とか 自尊心というか
自尊的な感情が豊かな人というのは

戦争に賛成するわけがないんですよね。

自分が尊い存在である

真剣に生きている存在だと。

そうすると 他者もまた同じように
そういう自尊的な感情

真剣に生きている他者であるという認識が
できてくるはずなんですよ。

そこには その
殺生が生ずるはずはないんですよね。

♬~

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