出典:EPGの番組情報
徹子の部屋 日野美歌[字]
~『氷雨』から40年…大好きだった両親が相次いで逝き~日野美歌さんが今日のゲストです。
詳細情報
◇ゲスト
今年デビュー40年、日野美歌さんがゲスト。今日はスタジオで思い出の『氷雨』を熱唱。そして今年、還暦を迎える胸中も語る。
◇番組内容
アイドル全盛期の1982年に演歌歌手としてデビューした日野さん、当時は周囲から浮いていたと笑うが、今も歌い継がれる名曲『氷雨』の大ヒットが人生を大きく変えた。デビューの翌年には紅白に出場。歌が大好きだった両親はそれをとても喜んでくれたが…2019年に87歳で父が、2021年に85歳で母が相次いで亡くなった。お人よしで優しかった父は、学生時代はいつもお弁当を作ってくれたという。しかし、ある日事件が!?
◇おしらせ
☆『徹子の部屋』番組HP
http://www.tv-asahi.co.jp/tetsuko/ジャンル :
バラエティ – トークバラエティ
ドキュメンタリー/教養 – インタビュー・討論
福祉 – 文字(字幕)
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- 氷雨
- 紅白
- 両親
- タコ
- デビュー
- 可哀想
- 施設
- 時代
- 万歳三唱
- JR
解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)
♬~「飲ませて下さい もう少し」
♬~「今夜は帰らない」
♬~「帰りたくない」
(黒柳)19歳でデビューした年に
この『氷雨』が大ヒット。
それから40年。
今日のゲストは日野美歌さんです。
どうぞ こちらへおいでください。
どうも お邪魔いたします。
今日は歌ってもいただきますけど
まあ しばらくでした。
お久しぶりでございました
本当に。
しばらく… どうも。
実は この3年の間に
歌が大好きだったご両親が
お亡くなりになったりしたとか
そういうお話も
いろいろ伺わせていただきます。
今年のお誕生日で
還暦をお迎えになる。
どうしよう。 そんな…。
黒柳徹子さんから
「還暦をお迎えになる」っていう
言葉が聞けるとは思わずに
生きてました。
ありがとうございます。
でも そんな風には
全然思えないです。
ねえ。 デビューが
40年前の1982年っていうと
同期 すごいのね。
そう。 もう…。
シブがき隊 小泉今日子さん
それから 中森明菜さん。
アイドル全盛期。
そうなんです。
もうね なんか みんな フリフリ
キレイな
可愛いドレス着てるのを
ちょっと 横目で
チラッと見ながら
そんなに年変わらないのに
なんで やる事
こんなに違うんだろうって
思いながら
なんとなく見てました。
演歌歌手で
デビューなすったんで あなた
随分 他の皆さんとは
違ってたんですってね。
ちょっとね うん…
なんか 地味な感じでしたね。
ちょっと こう 端っこの方で
地味に お化粧してたみたいな。
みんな キャッキャッキャッ!
って こう
なんか 修学旅行みたいな感じ
だったんですけど。
私だけが
ふーんっていう感じで。
同じ年なのにね。
そう。 だけど… なんとなく
同期の子でも
早見優ちゃんとかが
「美歌さん 私たちと
そんなに年変わらないよね?」
って言ってくれて
「だよね?」って言うぐらいで。
でも なんか 仲間に入れない
何かがあるみたいな。
でも まあ 苦労して のし上がる
演歌の世界っていう感じがあって。
そう。 イメージがあるんですよね。
皆さん あの時代
すごく苦労されて
苦節何十年とか。
デビューなすっても
すぐ売れないから
キャンペーンなすって
夜の街でスナック回りとか
レコードを手売りするという。
バーで歌ったりとか。
そういう時代がありましたね。
うん。
まあ でも あの…
なんだろうな…
いい人生勉強に。
短期間の すごい壮絶な
人生勉強にはなりました。
フフフ…! そうですよね。
はい。
あの… 『氷雨』大ヒット。
はい。
これが2曲目なんですってね?
この『氷雨』は。
はい。 1曲目が
『私のあなた』っていう曲で
2曲目が 12月の… 19歳の12月に
誕生日の前にリリースした
『氷雨』が。
これで もう 人生が激変した?
そうなんです。
えっと… だから
二十歳になった時の3月とかに
『ベストテン』に出て。
そうね。
黒柳さんとお会いして。
それから また 暮れになって
また『紅白歌合戦』でも
黒柳さんが司会をしていただいて。
その時ちょうど 私 司会したのね。
そうなんですよ。
だから なんか こう すごく…
私だけですけど
ご縁を感じております。
どうも。
でも その『紅白』は ご両親が
お喜びくだすったんですってね。
もう なんか 喜んでくれる
あの時代っていうかね
いたからこそね 目の前で
そういう感動を ちょっと こう
分かち合えた部分は
あったんですけどもね。
まあ やっぱり ちょっと
いなくなってしまうと
なんていうのかな…
目の前に人がいなくなるって
こういう事? っていう。
すごく なんとも言えない
とてつもない寂しさに
襲われる時ありますね。
そうでしょうね。
まだ 今でもね はい。
お父様は 87歳で
お亡くなりになった…?
そうです はい。
お母様は 85で
お亡くなりになった…。
でも お父様とお母様は
歌が好きで
結ばれたそうですってね。
ええ。 あの…
父が国鉄職員で
母が電電公社… 今のNTT。
お父様 国鉄… JR?
そう JR。 今のJR。
お母様は電電公社… NTT。
そうなの。
そこの なんか サークルかな?
なんかで
合唱のね サークルの…
父が指揮をやりにいって。
いろいろ 合唱の事
教えていた時に
母 廣子ちゃんが
いたという。
それで
知り合って…
三朗と廣子は
知り合ったんですけど。
父は「三朗」
っていうんですけど。
ただね
私の「日野美歌」っていう
「美しい歌」は 母親が
考えたんですけどね。
その話 していらっしゃる
VTRがあるので。
初出演の時に…。
ちょっと ご覧ください。
「“美歌”という
“美しい歌”っていうのは
ご本名ですってね」
「そうです はい」
「両親が あの…
母の方が考えたんですけど」
「父はね… 男の子の名前を
考えてたんですって 父は」
「それが “ホウネン”とかね
“マンサク”とかで
父は 山形出身なものですから
今でも なまりは
取れない方なんですけれども」
「“豊年満作”となると…」
「ちょっとね」
「くっついちゃうと…」
「母は すごい だから あの…
格好いい名前を付けたいな
っていう ただそれだけで」
「歌のサークルが縁で
父と母 結ばれましたけど」
「歌が好きだったのも
あるんですけど
やっぱり 変わった名前
付けたかったんでしょうね」
「“豊年満作”から離れたいという」
「離れたいという」
「『紅白歌合戦』決まったって事を
お母様に電話なさったら…」
「ええ。 電話しましたら
母は信じてくれないんですよね
最初」
「“えっ? 嘘でしょ?
あんたが入るわけないじゃない”
とかって
こういう感じなんですよ」
「なんだ 全然喜んでくれないな
なんて思いながらね…
思ってたんですけど
あとで聞いたら
すごく腰が抜けそうで
わざと こう
クールを繕っていたというか
クールにしていたというか」
「そういう感じだった
らしいんですよ」
「父は父で こう…
職場で見てたんですね」
「それで “あっ 日野さん
娘さんが出てるよ”って
テレビ見たら
決まったっていうニュース…」
「『紅白』に出るって
決まったニュース?」
「それで なんか 道端で
万歳三唱しちゃったっていう」
「お父様 道端で 万歳三唱…?」
「万歳三唱しちゃったんです」
でも ありがたいですね。
そんなね
道端ででも 『紅白』にね
お出になるっていう事で
万歳三唱したっていう
お父様いらしたって。
ねえ。 なんとなく
ちょっと泣けてきますね。
本当ね。
なんか…
あっ そうだったんだって…
今 そうだったんだって
見てるけど
改めて 親の事の…
親の その喜びとか そういうのを
今は ちょっと…
すぐ泣けてきちゃうんですけど。
そうですよね。
いらっしゃればいいけど 今 もう
いらっしゃらなくなったので。
やっぱり ちょっとね 悲しい。
やっぱり なんか こう
まだ あの…
自分の中で治まってるようで
割と治まってない…。
まあ 2019年に父が他界して
2021年だから
割と最近なんですよね。
じゃあ 随分 割とすぐだったのね
お父様とお母様が…。
割と1年ぐらいで
全く 後を追うように。
まあ 考えてみれば うちの両親
結構
けんかばっかりしてたんですよ。
もう… まあ 晩年も
父は まあ
割としっかりはしてたんだけど
足腰が やっぱり
思うように動かなくて。
そうなると なんか ちょっと こう
怒鳴ったりとか…。
「お父さん もう そんなに言っちゃ
ダメだよ お母さんの事」
「お母さん わからないんだから」
って言っても
「だって もう イライラするんだ」
とか言って…。
父も父で
ストレスがたまっちゃって
可哀想だったんですけど。
まあ でも しまいには
やっぱり 母親も…
うちの弟夫婦が
一緒に2世帯でいるんですけど。
それでも ちょっと
火の始末とかが
ちょっと怖い事があって。
もう これは 施設に
入れるしかないよっていう事で
父も思うように動けないし。
だから 可哀想だけど
お母さんだけ 先に
施設に行ってもらって。
まあ でも
お父さん 言ってましたね。
「可哀想だな。 入るのか」って。
自分が… 自分が何も
やってあげられないっていう
ものすごく なんともいえない
もどかしさは
あったと思いますけどね
父としては。
仲のいいご夫婦ね でもね。
そうですね。
けんかばっかりしてたけど
最後に 母が
父の亡きがらがね
安置してある場所に
連れていったんですよ お母さん。
お母さん 施設から
ちょっと 連れ出して
「お母さん。 お父さん
死んじゃったよ」って言ったら
「えっ! 嘘よ! 嘘 嘘」っつって。
父の亡きがらの所に…
眠っている姿を見て
「お父さん 起きて 起きて。
ほら 手 まだ温かい」。
でも 触ったら
もう冷たいんですよ。
でも お母さん的には
「まだ 温かいよ。
ほら 生きてるよ」って。
「お父さん 起きて。
1人じゃイヤだよ」って。
もう その姿 見たら みんな
ウワーッて泣いちゃって。
もう お母さん…。
なんだよ この人たち
すごい仲いいの? みたいな。
本当よね。
結構 けんかしてたんだけど。
最後の方で お母さんがね
お父さんの思い出を語るんですよ。
「お父さん
あの人は いい人だったのよ」
「もうね お酒を一緒に飲んだの。
優しくてね」って もう。
美しい思い出しかないの。
いいわね でも。
だから いい年の取り方してるなと
思いました。
本当ですよね。 そうですか。
そうなんです。
もうね なんか あの…
その時は 本当 切ない状況…
場面だったんですけど。
でも 何回言っても
やっぱり また 元に戻って
「お父さん いないね」って
やっぱり 言うんですよ。
だから 何回もリピートで
「お父さん 死んじゃったよ」
って言うと
また 「嘘だ」って言うんですよ。
で 「本当に死んじゃったの」って
わかってもらったかな?
と思ったら
また 「お父さん いないね」
って言うんですよ。
だから もう それは なんとなく
切ない部分でしたけどね。
そうですよね。 そうですか。
あなたにとっては
お父様もお母様も
割と両方とも いちどきに
っていう感じですよね。
あの… うちの母親も
亡くなる時は
施設で 代わりばんこに
親族が1人ずつ行って。
ほら 一斉に
ワッと行けないじゃないですか。
それで だから まあ 行って
「お母さん」って言って。
もう ちょっと 朦朧としてるから
もう 危ないかもしれません
っていう時に行って。
その時に もう 母も
おなかに腫瘍ができちゃってて
膀胱がんだったので
どんどん おなかの腫瘍が
どんどん こう…
大変だったんですよ 出てきて。
それを抑えるだけの
日々だったんで。
大変 うん。
それで まあ あの…
あまりにも ちょっと
このまんま ずっといるのも
可哀想だなっていう思いも
あったし。
「お母さん
もう よく頑張ったよ」って。
「よく生きてきた。
頑張ったよ」って。
「もう頑張らなくていいから」
って言っちゃったんですよ 私
手 握りながら。 でも
何も こう 反応はないんだけど
なんとなく フーッて 目 つぶって
ああ… っていう感じで。
そしたら それから2時間後に…。
お父様は どういう方だったの?
父はね もうね
本当に まあ おおらか…
おおらかすぎて
まあ いっぱい 人にも だまされて
いろいろと こう
「お父さん それ 買ったの?」とか
「お父さん 違う… それ ちょっと
だまされてないか?」とか
そういう事 多々あって。
で もう 家族で みんな
見張ってなきゃダメだよ
みたいな感じになっちゃってて。
まあ でも やっぱりね
人の良さっていうか
そういうので やっぱり
葬儀の時に
本当に 信じられないくらいの
弔問の方が来てくださって。
今の時代は ちょっと
あれですけど
でも 2019年でしたから
もう 本当に
父親の偉大さっていうか。
あんな 無邪気で
家族には ちょっと
ハラハラさせられるような事が
結構あったんですけれども。
でも やっぱり
いい人だったんだなって
改めて あの父の存在を すごく…
大きな存在を感じましたね。
そうですね。
お友達の中では 人気が
あったんでしょうね きっとね。
すごく慕われてて
合唱団の友達とかが来て
みんな歌うんですよ
その通夜の席で。
みんなで… みんな 立ち上がって。
もう 感動ですよね。
いいわね うん。
だから 多分…
だから 面倒見すぎて かえって
家を顧みない事もあって
それで 若い頃の父と母は
よくけんかしてたんですよ。
「また出かけるの?」
みたいな感じで。
それで お父さんとお母さんは
大丈夫なのかな? って
子どもながらに
思うじゃないですか。
そうすると 父親が
「あのな お父さんとお母さんは
レクリエーションなんだよ これ」
「けんかはね
レクリエーションだから
大丈夫だから」って
なんか 言われた事ある…。
多分 子どもが
心配するだろうなと思って
すごくね 父親なりの思いやり
だったんじゃないかなって
今 大人になって
ちょっと思いますね。
本当ね うん。
説明しとくってね。 フフフフ…!
でも あなたのお弁当 お父様が
作ってくだすったんですって?
そう。 お弁当ね 父親が あの…
まあ 中学校の頃から
お弁当 よく作ってくれて。
熱いまま バン! と
こう 閉めるから
開かなくなる アルミのなんか
あるじゃないですか。
そうすると
開かないからっつって
男の友達とかに みんなに
たらい回しにされたんですよ
私のお弁当が。
そしたら パカッて開けたら
本物のイイダコが3個… 3匹
ボンボンボンって
煮たやつが入ってて
「なんだ? これ。
本物のタコだよ!」
「ソーセージじゃない。
タコだよ! タコ」って。
私 顔が真っ赤になっちゃって
よりによって そんな…。
なんか 普通の何かが
チョロチョロッと
入ってるんだったらいいけど
タコってわかるやつが
入ってたものだから
結構 それね イイダコ事件って
言ってるんですけど 本当に。
お父様が作ってくだすったのね。
そうなんです。
もう つまみみたいなね。
まあ 今は
私も お酒飲むから なんて
素敵なお弁当だったんだろう
って思うんだけど 若い頃は
いやあ ちょっと なんか…。
いや でも 自分が作らないのが
悪いんだけど
お父さんが優しいから
作ってくれるんだけど。
そうだよな 昨日のつまみに
なるよなって思いながら。
フフフフ…! ねえ。
はい。
ところで
お父様が亡くなった翌日
横浜でディナーショーが
あったんですって?
そうなんです。 あのね もう これ
すごい 怒濤の
12月だったんですけど 2019年。
父が12月15日に亡くなって
翌日の16日が 私の…
いつも 恒例なんですけども
父親も母親も 元気な時には
本当 見に来てくれた
ディナーショーで。
来ないねって 周りの人も
ちょっと思ってたみたいで。
そしたら これ 言わなきゃ
ダメかな? と思って
最後の方で 「実は 父が昨日
亡くなりまして」って言ったら
みんなが ウワーッて なんか
もう 泣いちゃう人もいるし。
まあ その時に あの…
うちの父親は国鉄職員だった
っていう事もあってか
『遠くで汽笛を聞きながら』って
あの アリスの
堀内孝雄さんが歌ってた。
あの歌 大好きで。
「じゃあ 父の好きだった
『遠くで汽笛を聞きながら』を
歌わせてもらいます」って言って
歌って。
そしたら なんか
父親が来ているような気がして。
「お父さん 聴いてる?」って
言っちゃったんですよ
マイク越しに。
そしたら みんなが また
ウワッて なんか こう 大変な…
泣いちゃったりする人がいて。
私は なんか その時 気丈な状況で
涙ひとつ出なかったんですよ。
とにかく ちゃんと歌わなきゃ。
でも お父さんは
聴いてる気がした?
もう 絶対 聴いてると思った。
もう 絶対 来てる。
それで なんか こう… 絶対
気にしてくれてると思ってたから
きっと来てるなって。 それから…
まあ 終わってから 数日後
12月20日がお通夜で
12月21日が葬儀だったんですが
12月21日
私の誕生日だったんですよ。
もう これも…
ああ… お父さん なんか
ドラマ作ってくれるなと思って。
私に もう 忘れてくれるなって
言ってるような気がして。
お誕生日になったらね
思い出しちゃう。
そう 思い出しちゃう。 だから
なんとも言えない
12月だったんです 2019年は。
ところで あの…
今日 歌っていただくんですよね。
あの懐かしい曲ね。
はい。
では 『氷雨』を
歌わせていただきます。
じゃあ よろしいですか?
はい。
それでは
『紅白』でも お歌いになった
あの『氷雨』を
歌っていただきます。
お願いいたします。 どうぞ。
♬~
♬~
(拍手)
(拍手)
ありがとうございました。
どうもありがとうございました。
ありがとうございます。
私も 懐かしい…。
もうね…。
『ベストテン』の頃ね ずっと…。
ずっとお世話になって。
そうですよね。
で 『紅白』で聴いていただいて。
そう。 また 私が司会してね。
そう。 それで…
それ以来じゃないですかね
目の前で歌うの。
本当。
もう 本当に光栄です。
ありがとうございます。
ありがとうございました。
ところで お父様とお母様への
感謝の思いを込めて
作詞作曲なすった
『明けの明星』?
はい。 この曲 自分で
作詞作曲をしたんですけど
出来上がるプロセスが
とても また不思議で。
いろいろと… コロナで 仕事が
全部キャンセルになったり
私も どうなっちゃうんだろう?
これと思って
自分の家のソファで
ボーッとしてたら
なんか 曲が浮かんできて
それを口ずさんでたら
なんか 涙がポロポロ出てきて。
自分から降りてくる歌なんだけど
泣けてきて。
それで それから
まあ 母も亡くなったりして
いろんな意味で
また寂しいなと思いながら
寝てる時に…。
亡くなったあとって
結構 夢を何度か…
母親や父親の夢を見て。
なぜかね 母親とはね
温泉に一緒に行っている
楽しい夢で。
それで ふっと目が覚めると
自分の家の天井 当たり前だけど。
あっ そうだ。
死んじゃったんだなって。
夢… 夢だよね。
あっ なんだ 夢かって思ったら
なんか つーって…
涙が つーって出てくるんですよ。
もうね とてつもないもの…
それこそ 本当に
寂しさが襲ってきて
それで そういう事が
二度ぐらいあったかな。
それで その歌ができたんですけど
最初の。
それ 『明けの明星』っていうの?
ちょっと聴いてみますね。
♬~
♬~「止まない涙の雨に」
あら 残念。 もうちょっと
聴きたいぐらいなのにね。
でも いい歌ね。
ありがとうございます。
でも 今年の12月
還暦の60歳になるわけですけど
どんなお気持ちです?
いや そんなつもりは
なかったんですけど。
みんな
言うかもしれないんですけど。
なんか こう… 歌があって
自分自身 本当によかったなと。
この仕事を
なりわいにさせていただいて
40年 やらせていただいて
本当に ありがたいなと思います。
こんないいかげんな私が…
本当 いいかげんなんですよ。
いいかげんな私が こうやって
ここまで生きてこれたのはね
1人じゃないからだっていうのは
すごく思いますね。
決して1人じゃなくて
いろんな人が支えてくれて
見守ってくれる力もあるし。
なんか こう 全ての出会いに
感謝だなと思いますね。
今 ご両親におっしゃりたい事が
あるとしたら どういう…?
危なっかしいけど
見守っていてほしいなと思います。
いつも一緒にいるのは
わかってるよって言いたい。
言いたいです。
そうですよね。
でも 両方が相次いでっていうのが
ちょっと悔しいですよね。
まあ でもね 一緒にいますね。
一緒にいるから うちの母親が
「もういいよ もういいよ」
って言って
「私 ちょっと 違う事やるから」
みたいな。
結構 そういう… 「なんだよ
お父さん 待ってたのに」みたいな
そんな感じも
あるかもしれませんけど。
そう。 じゃあね そんな風に
楽しく思えるんならね。
そうですね。
あとは いい歌をお歌いになる。
キャンプで また 新しい自分を
開花していきたいです。
よかったですね。
寝たりしてるの? そこで。
そう。 地面で寝たり。
なかなか いいです。
ありがとうございました。
ありがとうございました。
『徹子の部屋』は
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