出典:EPGの番組情報
ファミリーヒストリー「石橋凌~全力で生きる気質を受け継いで~」[解][字]
俳優と音楽に全力!石橋凌のパワフルさは母譲り。母は80歳まで病棟で看護師。娘・石橋静河が共通点語る。先祖は戦国大名とつながり。50代で病死した父の息子への思い。
詳細情報
番組内容
伝説的ロックバンドARBのボーカルでデビュー。音楽活動と俳優の両方に全力で取り組んできた石橋凌。エネルギッシュで努力家な気質は先祖譲りだった。母は80歳まで病棟の看護師をしたファンキーな女性。そのルーツをたどると大友宗麟の嫡男に仕えた武士だと分かる。父方祖父と凌との意外な共通点も判明。父は陸軍で激戦を経験し若き日の夢叶わず50代で病死するが思いは子供たちに引き継がれる。娘・石橋静河が語る父の姿とは
出演者
【ゲスト】石橋凌,【司会】今田耕司,浅野里香,【語り】余貴美子ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
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- 久渡
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- ミキエ
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- 石橋
- 先生
- 名前
- 労働者
- 一緒
- 活動
- 看護師
解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)
♬~
言うまでもなく ロッキード問題は
徹底的に究明されなければなりません。
長年
映画やドラマで存在感を放ち続ける…
♬~
伝説的ロックバンド
ARBのボーカルとしてデビュー。
ソロでも第一線で活動し
歌を通して
社会にメッセージを発信してきました。
♬~
さまざまな役を演じる中で
自らのルーツが
気になり始めたと言います。
自分たちは正しいとな。
例えば こう 歴史上の人物を
ドラマやなんかで やるじゃないですか。
「麒麟がくる」では
武田信玄をやらしてもらったんですが
どういった流れで この人が この時代で
どう生きたかっていうのを
知るじゃないですか。
そうすると自分は じゃあ
どういう先祖の流れがあって
今ここに生まれてっていうのが
だんだん興味が湧いてきましたよね。
更に今回 この方も楽しみにしています。
凌さんの次女で 俳優の石橋静河さんです。
今日のゲストは 石橋 凌さんです。
どうぞ!
よろしくお願いします。
(浅野)よろしくお願いいたします。
(拍手)
いや この番組は 本当に石橋さん。
はい。
え? ご覧になって? はい 見てましたよ。
ああ そうですか。 好きでした。
さあ今日 今から見てもらいますけども
今のお気持ち いかがでしょう。
まな板の鯉でしょうか。
(笑い)
♬~
父方 石橋家のルーツを
たどろうと向かったのは 福岡県。
古い戸籍によると
凌さん 本名 石橋秀樹の4代前
儀三太は
現在の柳川市で暮らしていたことが
分かりました。
柳川古文書館で 江戸時代後期を生きた
儀三太の名前を見つけました。
(白石)こちらは 慶応2年に
上宮永村の農民たちが
当時持っていた田んぼとか畑を
それぞれ書き上げたものになります。
(白石)こちらが
儀三太さんの名前になりまして。
儀三太は 一町以上の田畑を所有。
村では3番目の広さだったといいます。
村の中では
かなり上層の農民であったということが
言えるのではないかと思います。
明治19年に生まれたのが 守造。
後の凌さんの祖父です。
その人生は謎ですが
手がかりが あると言います。
戸籍を見ると
守造の妻 アイは
広島県出身。
取材を進めると 呉へ出た
いきさつも分かってきました。
明治36年 艦艇などを製造 修理する
海軍工廠が設置されると
呉は 軍港として発展。
学芸員の花岡拓郎さんによると
仕事を求めて
全国から人が集まっていたといいます。
(花岡)日本で最大規模の
工業地区と言われてまして
約2万人の方が
この一帯で働いていました。
守造が働いたと思われる時期には
労働運動も盛り上がり
ストライキも起きていました。
大正4年には 長男 久渡
後の凌さんの父が誕生。
ところが戸籍によると
生まれた場所は呉ではなく
神戸市 梅ヶ香町と
なっています。
守造は なぜ呉から神戸に移ったのか?
戦前の神戸の造船業に詳しい…
当時は その労働者 特に機械加工に
従事している工場労働者の方々が
より条件のいいところを渡り歩く
ということがございまして。
まあそれ 「渡り職工」というふうにも
呼ばれているんですけれども。
広島は 呉海軍工廠。 で 神戸であれば
川崎造船所や 三菱 神戸造船所といった
民間の造船会社というものが
ありましたので。
当時の地図を見ると 守造が暮らした
梅ヶ香町のすぐ近くに
川崎造船所
兵庫分工場がありました。
そこで守造は 呉で鍛えた腕を
振るっていたと思われます。
更に 興味深いことが分かりました。
こちらに
石橋守造氏の名前が出てきます。
「幹事長
石橋守造氏令息
御病氣中」。
守造の名前が載っていたのは
「勞働者新聞」。
労働者の地位改善を目指して活動した団体
「友愛会」の機関紙の一つです。
守造は 尻池支部の幹事長を務め
その会員は 川崎造船所
兵庫分工場の職工が中心でした。
守造は 労働環境改善のため
精力的に活動。
著名な社会運動家 賀川豊彦とも
同じ壇上に上がっていました。
友愛会などの運動は 実を結びます。
大正8年 川崎造船所では
日本初の八時間労働制が
実施されたのです。
その翌年 守造は上京します。
東京での足跡を
ある新聞の中に見つけました。
(取材者)こちらに
石橋守造氏の名前が出てきます。
東京で開催された 柳河學友會鷄會
なるものに参加していたようです。
柳河學友會とは何か?
柳川の歴史に詳しい
内山一幸さんに聞きました。
柳河學友會そのものはですね
明治18年に設立をしております。
基本的には 柳川からですね
東京にやってきた若者たちを
支援する組織になっておりまして。
神戸で
労働者のために活動していた守造は
東京で
未来ある学生たちを
支援していたのです。
会員同士の親睦を図る
「鷄會」。
守造は
こんな人物とも
同席していました。
この名簿を見てますと 目立つのはですね
小野英二郎さんという
後に 日本興業銀行の
総裁を務める方でですね
オノ・ヨーコさんの
おじいさんに
あたる方も
一緒に
まあ飲んでいた
ということが
分かります。
大正12年の関東大震災のあと
守造と家族は
福岡県 現在の柳川市に
移り住みます。
守造の息子 久渡は
ここで どんな少年時代を過ごしたのか?
久渡の長男で 凌さんの兄
征二さんのお宅で
貴重な資料が見つかりました。
(征二)これ あの… 38年前ですかね。
朝日新聞が 「わが家の
五十年史」というテーマで
一般公募をしたんですよね。
それで母親は66歳の時 自分も応募したと。
久渡の妻
須壽が書いた手記。
そこには 若き日の夫に
ついても記されていました。
芸術に関心を抱く
温厚な人物像が つづられていました。
柔和っていいますか 温厚でですね
実直な感じはしましたね。
優しい父親でしたね。
久渡は 地元の名門
旧制中学 伝習館に入学します。
こちらがですね 中学 伝習館を
卒業された
卒業証書を授与された方の
名簿になります。
で この昭和8年の
第四十四回 卒業生の名簿の中に
お尋ねの 石橋久渡様の
お名前が確認されます。
前途洋々のはずだった
将来。
しかし 卒業後に
転機が訪れます。
当時 義務だった徴兵検査を受け
二十歳の時に 陸軍に入隊。
その後 幹部候補生の試験に合格し
下士官の道を歩みます。
昭和12年 日中戦争が勃発。
久渡は 中国の激戦地を転戦し
下士官の上位である
曹長に昇進します。
昭和16年 太平洋戦争 開戦。
久渡は 戦略上 重要とされた作戦に
参加しました。
南へ 南へ
東亜解放の聖戦列車は ばく進しています。
日本軍が マレー半島に奇襲上陸し
シンガポールまで侵攻した
マレー作戦です。
マレー作戦を研究し
現地調査などをしてきた
関口竜一さんです。
久渡が所属していた
56連隊の役割を聞きました。
上陸作戦は 苛烈を極めたと言います。
更に 上陸しようとする兵士たちを
イギリス軍の一斉攻撃が襲います。
実に 300名以上が
ここ コタバルで命を失いました。
久渡は 戦友たちが亡くなる中
悲しみを押し殺し
自身を鼓舞しながら
曹長としての役割を全うします。
その後 ビルマでは
マラリアで命の危機に直面。
昭和18年に
7年にも及ぶ召集が解除されました。
帰郷した久渡は
ゴム製品の製造会社で働き始めます。
そこで出会ったのが 矢野須壽 25歳。
後に妻となる女性でした。
いや~ いかがでしたでしょうか。
いやほんとに まず写真も
初めて見る写真ばかりで。
労働者のために ものすごく動いてはった
っていうのは ご存じでしたか。
いや 知りません。
自分は まあバンドでデビューして
歌のテーマの一つに
ワークソングがあるんですよ。
その労働者に向けての?
そうです そうです。
それは 欧米のミュージシャンの
音楽の影響なんですね。
おじいさんの影響ということでは
ないんですか? じゃあ。
いや 全く知らないですから。
なんか不思議な。 ねぇ。
縁ですね なんかね。
リンクしちゃいますね。
リンクしちゃいますね なんか。
労働ソングも そうですけども
やっぱ反戦の歌も やっぱり。
そうですね はい。
やっぱり お父さんの
戦争体験みたいな?
それは 大きいですね。
ですから母親が 戦争が悪いんだって
言ってましたから。
続いて訪ねたのは…
母方の祖母の実家
津江家のルーツに関して
気になる情報があったからです。
凌さんの祖母 ミキエが出た
津江家が 今も残っていました。
すいません。
ごめんください。
現在の当主 津江豊吉さんです。
凌さんの はとこにあたります。
古文書は 今も大切に保管されていました。
豊吉さん自身は こういう文書が
何を意味するかっていうのは
ご存じだったりされるんですか。
いや 全然全く分からないんですけどね。
文書をお借りして
大分県立先哲史料館の館長
三重野 誠さんに
解読してもらいました。
江戸時代中期 農家だった津江家の
親族同士で交わされた書状だと言います。
大友とは 戦国大名
大友宗麟で知られる
「大友家」のこと。
かつて津江家は
大友家に仕えた武士だったのです。
取材を進めると
更に古いルーツに たどりつきました。
中津江村にある伝来寺。
津江家の菩提寺です。
1338年 この寺を開いた長谷部信雄が
津江家の先祖だというのです。
中津江村の歴史に詳しい…
更に 寺には津江家に関する
貴重な文書が残されていました。
後ろのほうに 「義統」ですから
まあ 大友家の大名としての
最後の当主ですね。
それの花押が
据えてあります。
大友宗麟の嫡男
義統からの書状。
津江家が
実直で よく働いたことが書かれています。
そんな津江家で
明治24年に生まれたのが
凌さんの祖母 ミキエ。
21歳の時 地元の役場に勤める
矢野 安と結婚し
6人の子どもを
育てます。
失礼します。
安の三男の妻
矢野スミさん 91歳。
当時のことを
伝え聞いています。
(スミ)あそこ 田舎ですから
中学に 日田の中学に入るにしても
下宿しなきゃ
いけないんですよね。
それにしたら 倍のお金が
かかるんですよね 下宿と月謝とで。
ミキエは かつて大友家のために奔走した
津江家の気骨を受け継いでいました。
子ども6人の将来のために
家事をこなし
粉骨砕身 働いたと言います。
そんなミキエの姿を見て育ったのが
長女の須壽。 後の凌さんの母です。
須壽が通った川邉尋常高等小学校の
学籍簿が保管されていました。
(職員)こちらに 矢野須壽様の
お名前がございます。
小学6年生の時の
成績を見ると
すべての科目が「甲」。
一番良い評価でした。
須壽は 人の役に立つ仕事をしたいと
看護師を目指して ある学校を受験します。
地域医療の発展のために
肝煎りで設置された場所でした。
合格した須壽は
寮生活を送ることになりました。
15歳の娘を送り出す母 ミキエ。
言い聞かせた言葉がありました。
当時のカリキュラムは
今より実習が かなり多く
厳しいものでした。
当時は ほんとに全寮制で
皆さん 寮と
それから 病院の中にある教室
それから 病院というふうなところで
そこを ほんとに回ってっていう形で
外に出ていくこともなく
学習に励んでいらっしゃったようです。
耐えきれずに
辞めていく生徒もいたといいます。
その中で須壽は 母の言葉を胸に
辛抱強く努力を重ねました。
昭和10年に 看護婦養成所を無事卒業。
その後 須壽は学校の近くにあった
ゴム製品の製造会社へ就職します。
昭和12年になりますと
戦時体制に移行します。
そうすると これらゴムの会社が
軍管理工場になるんですね。
その軍需工場では
衛生管理が大変大事だということで
500人以上の規模の工場には
必ず工場医を おかなくちゃいけない
ということになりました。
須壽は その会社の医局で
看護師として働いたのです。
そして 昭和17年には
別のゴム製品製造会社に移りました。
すると そこに
ある男性が入社してきます。
召集解除になったばかりの
石橋久渡でした。
ひかれ合った2人は
昭和19年に結婚したのです。
う~ん いかがですか。
いやぁ~。
すごいところまで
ルーツ さかのぼりましたけど
ご存じでしたか。
いや 知りませんでした。
古文書から 戦国時代まで
いきましたけども。 大友宗麟の…。
大友宗麟の嫡男って言いましたっけね?
そうです そうです。
跡継ぎの武将ですね 最後のほうの。
からの書状ですよね。
それが ずーっと なんかでも津江家の
お母様のほうには働き者と言いますか。
そこが つながってました。
なんか そこが ずーっと来てるような。
なんかこう しんがすごく強い人
っていうのは 感じてたんですけど
やっぱりルーツが
やっぱり そういうふうにね。
ですね。
結構 真面目な
家系だったんだなぁっていう。
終戦後 石橋久渡と須壽は
福岡県瀬高町
現在の みやま市で
化粧品店を開業します。
その店を覚えている方が見つかりました。
河野スマ子さんと 石橋カツミさんです。
須壽の名から取った化粧品店 「スズヤ」。
立地条件も良く 繁盛していたと言います。
石橋さんは中学時代
店でアルバイトをしていました。
久渡と須壽は 子どもたちの将来を
何より大切に考えていました。
ものすごく まあ いい生活ができてた
時代だと思いますね。
家庭教師が毎週ついたし
家に来てくれましたし。
それから これは今思うと
父親の影響だったんですかね。
絵の先生の自宅に 毎週通って
絵を習いましたし。
そして昭和31年には
五男の秀樹
後の石橋 凌が誕生します。
しかし翌年 思わぬ事態に見舞われます。
10年以上かけて築き上げてきたもの
すべてを失ったのです。
一家は 久留米に移り住み
ゼロからの再出発を
余儀なくされます。
失礼します。
久渡の三男 石橋壽生さんです。
その生活は 一変したと言います。
今までの環境と違って
やっぱり要するに ボロ家ですよね。
ボロ家っていうか。
とにかく狭い…
狭かったっていうような思いですね。
秀樹は まだ1歳。 久渡は屋台を引くなど
必死に日銭を稼ぎました。
そんな中 佐賀県にある
パチンコ店の仕事を紹介されます。
久渡は 家族のために収入を増やそうと
単身での生活を決意しました。
パチンコ店の経営者の三女…
こちらのほうになるんですけど
父が経営するパチンコ屋さんでした。
父と一緒にですね 写して。
こちらが 久渡さんになられまして
こちらが 私の父でございます。
とても穏やかで お優しくて
真面目に仕事をされていて。
で しかも
とても美男子でらっしゃって。
そういうお話を
女性の従業員さんから伺っておりました。
一方 妻の須壽も 子育てをしながら
地元のデパートの医務室で働き始めます。
須壽は 看護師としてだけではなく
お歳暮や お中元の時期には
のし書きで大活躍したといいます。
秋吉さんは この字からも ほとばしる
須壽の人間性に ほれ込んでいました。
普通の楷書じゃなく
草書でもなくっていうか
そういう なんか力強い字を
書いてあるっていうところが
私は好きだった。
パワフルでしたよ。
男5人を やっぱり育ててあるから
父親役も せないかんわ
お母さんの役も せないかんし。
もう会社ではね
みんなの まとめ役もするし。
先生の魅力は
そこにあると思うけどですね。
離れて暮らす父 久渡が
帰ってきた時
一家がそろって 出かけた
場所がありました。
おやじ 帰ってきたら
近くに映画館があったんですよ。
で 映画館に行って 映画を見る。
その時にやってる映画をですね
見に行くのが 楽しみでしたね。
タヌキ寝入りをすると 帰り道は
おぶってくれる 背負ってくれる。
で その背中で その… 家族が
今見た映画のことを話すのを聞くのが
またこれが 何とも言えないんですよ。
少年時代 画家になる夢を抱いていた久渡。
子どもたちには 感受性豊かに
育ってほしいと願っていました。
経済的に非常に厳しい家庭なんですけど
なぜかギターだとか あとレコード
ステレオなんかを
それを ちゃんと
買い与えてくれてたっていうのは
ほんとに感謝してるんですよね。
単身での生活を続けて8年。
久渡は 福岡市内の不動産会社に
転職を決めます。
「家族と一緒に暮らしたい」
という思いからでした。
久留米の自宅から
片道1時間以上かけて通勤。
50歳から新たな仕事に就いたのです。
そんなある日。
息子5人を 「並べ」って言ったんですよ
玄関口で。
で 自分は革靴のひもを
こう 結びながらなんですけど
背中で言うわけですね 僕ら息子に。
たぶん その当時
5人が5人とも 成績が悪くて
素行が悪かったからだと思うんですが
「何で俺が こんなに朝早く起きてね
電車に揺られて
福岡まで働きに行ってるかっていうことを
お前たち 考えたことあんのか」って。
その時 初めてなんですよ 僕が聞いたの
そういう声をあらげたのは。
自分の夢がついえてからは
子どもたちの夢のために働き続けた久渡。
温厚な父がもらした 重いひと言でした。
昭和44年 久渡は病に倒れます。
肝臓がんでした。
入院から およそ2か月たった ある日。
容体が悪化します。
私と すぐ下の弟だったと思うんですが
それと母親3人で 病室に行ったんですよ。
夜12時ぐらいだったでしょうか。
突然 こん睡状態から
パッと目を開きましてね
「あと 弟たちのこと 家のこと 頼むぞ」
って しっかりした声で
私に向かって言ったんですよ。
それで 「分かりました」って言ったら
ちょっと安心したような顔をしました。
最期も 家族のことを気にかけて
息を引き取りました。
享年54 若すぎる死でした。
その訃報を自宅で聞いた秀樹は 当時12歳。
秀樹が突然 泣き出して
何で自分を連れていかなかったんだと
会いたかったと。
後にも先にも 秀樹があれほど私に怒って
向かってきたのは初めてですね。
久渡の死から3年。 高校に進学し
音楽にのめり込んだ秀樹。
在学中 父への思いを募らせ
歌を作りました。
タイトルは 「12の頃」。
その歌は後に CDに収録されています。
♬~
高校3年の三者面談。
秀樹は 「プロのミュージシャンになりたい」と
口にします。
教師は 現実的に考えろと反対。
しかし母の須壽は
きぜんと こう言いました。
おふくろが先生に
「先生 今 聞きました?
本人が こう言いよりますけん。
よかじゃなかですか」って言ったんですよ。
こんなつり上がってた目の先生が
目が点になりましてね
もう 言葉が出ないんですよ。
亡き夫の思いを 誰よりも知っていた須壽。
秀樹の夢を 全力で応援しました。
屋上でね 何か演奏できんやろうかって。
結局 ステージを作るためには
宣伝課とか 工作をする人とか
お願いせんといかんやないですか。
関係部署に 一生懸命 頭を下げて。
こうしてデパートの屋上で
秀樹のバンドのライブを実現させました。
こちらが 石橋秀樹さんが
卒業された時のアルバムです。
そこに 秀樹が記したのは…
皆さん 「並べ!」って言われた
あれは忘れられませんか?
まあ 小学生ですし。
その時 思ったのは
親として当たり前じゃん!と
思ったんですよ。
それまで商売をやってて
いち会社員になった その釈然としない
おやじの気持ちなんか
分からないですから。
お父さんは やっぱり家族
そして子どもたちっていう
もう 一番に考えてて。
まあ見てても やっぱり2人で
やっぱり一生懸命やってくれてたんだなぁ
っていうのが分かりますね。 はい。
ご自身の「ファミリーヒストリー」
ご覧になって いかがでしょうか。
2人が一緒になって。
で その まあ時代もあって
自分たちが できなかったことを
子どもたちに託したのかなぁというのは
改めて 今日 思いましたね。
昭和53年 秀樹さんは ロックバンド
ARBのボーカルとしてデビュー。
昭和61年には 松田優作監督の映画
「ア・ホーマンス」に出演。
ミュージシャンと俳優
両方で活躍を続けていきます。
この信長 新しき日本 つくってみせる。
一方 母の須壽さんは
デパートの医務室を退職後も
看護師を続けたいと
ある病院の面接を受けました。
当時そこで 看護部長をしていた…
80歳まで病棟で働き その後も
かくしゃくとして生きた須壽さん。
2年前に 102歳で この世を去りました。
孫の静河さんは 亡くなる直前に
見舞いに行ったと言います。
「元気でいて下さいね」って
手を握って言ったら
もう手が痛いぐらいに 握り返して
「生きる 生きる 生きる!」って
言ったんですよ。
なんて強い人だなぁと思って。
50代で亡くなった夫の分まで
懸命に生き抜いた人生でした。
今年 凌さんはライブツアーで
ある新曲を披露しました。
それは 須壽さんのことを歌った曲。
タイトルは…。
「ファンキー バァバ」。
♬~
♬~
今回の取材で 須壽さんの遺品の中から
あるものが見つかりました。
93歳になった須壽さんを祝うため
親族で誕生会を開催。
その時の写真に
直筆で心情を書き残していました。
「泣き出しそうな 93才の 須壽婆さん」。
「50才の時 主人が肝臓癌で他界。
でも 今が一番幸福ですと
大声で叫びたい」。
石橋 凌さんの「ファミリーヒストリー」。
強い意志で困難に立ち向かい
互いを思い続けた家族の姿がありました。
静河さんが エネルギッシュなところが。
(浅野)パワーにあふれて。
そうですね。
そうですね。 だから なんかそういう…。
エネルギーだとかですね
その まあ前向きっていうところを
やっぱり たぶん見て
学んだと思うんですよね。
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