徹子の部屋 ガレッジセール・ゴリ[解][字]…の番組内容解析まとめ

出典:EPGの番組情報

徹子の部屋 ガレッジセール・ゴリ[解][字]

~沖縄本土復帰50周年…復帰直後に生まれて~ガレッジセール・ゴリさんが今日のゲストです。

◇ゲスト
1972年に沖縄がアメリカから本土復帰し50年。復帰のちょうど1週間後に生まれた、ガレッジセールのゴリさんがゲスト。
◇番組内容
沖縄では復帰の年に生まれた子供は「復帰っ子」と呼ばれ象徴的な存在。そんな復帰っ子のゴリさんが見た沖縄の歩みを語る。今日は、黒柳さんが普段は自宅玄関に飾ってあるというシーサーがお出迎え。そのシーサーをプレゼントしてくれた意外な人物とは?また、太平洋戦争で県民の4分の1が犠牲になったともされる沖縄戦。ゴリさんの家族は当時の事については口を閉ざしていたというが、一度だけ母が語った壮絶な戦争体験を明かす。
◇おしらせ
☆『徹子の部屋』番組HP
 http://www.tv-asahi.co.jp/tetsuko/

ジャンル :
バラエティ – トークバラエティ
ドキュメンタリー/教養 – インタビュー・討論
福祉 – 文字(字幕)

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  13. ステーキ
  14. 死体
  15. 親父
  16. シメ
  17. 一緒
  18. 映画
  19. 沖縄県民
  20. 屋根

解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)

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(黒柳)今年は
沖縄の本土復帰から50周年。

沖縄では 本土に復帰した年に
生まれた子供を

復帰っ子と呼んでいました。

今日のお客様 ゴリさんは
沖縄出身の復帰っ子です。

はい。
色々 お話を伺います。

ゴリさんです。
お願いします。

ようこそ おいでくださいました。
どうも。

復帰っ子です。
そうなのよ。 復帰っ子なんですね。

はい。

ちょうど 沖縄は
昭和47年の5月15日に

本土復帰して
今年で50年という事でございます。

その ちょうど1週間後
5月の22日に僕は生まれたので。

あっ 本当に?
じゃあ 復帰っ子ですね 本当に。

あっ 多分 これ
那覇市民会館ですね。

復帰式典。
はいはい。

屋良朝苗知事の
多分 復帰の挨拶の時…。

あっ これ 平和通りです。
あっ そう。

うちの母親のお店が
あった所ですね。

あっ そう。

ドルで書かれてる。

あっ ドルだったのね 当時はね。
で 復帰して

円に換わるっていって
銀行がパニックになったんです

これ。
なるほどね。

大変だったのね この時ね。

復帰っ子っていうのは 沖縄では
どういうふうにいわれているの?

やっぱり
1972年っていう言葉であったり

昭和47年っていう言葉が出ると
もう 沖縄のおじい おばあから

みんな 意識的に頭に入っていて

「あっ あんた 復帰っ子だね」
っていうふうに

必ず言われる存在というか…。
あっ そんなに。

だから 僕ら自身も 何か こう

沖縄が
また日本に復帰したっていう

歴史的な時に生まれた
何か こう なんか…。

別に 何も背負う必要は
ないと思うんですけど

なんか 運命的なものを
みんな 持っていますよね。

私も
沖縄に仕事で行ったんですけど

パスポートを
持っていきましたもんね。

じゃあ アメリカ統治下の時に?
そうです。 NHKの仕事で。

はあー。

あのね 芥川也寸志さん
っていう方と一緒にね…

みんな 出ていた人と一緒に
行ったんですけど。

っていう事は まだ沖縄が
車が右側通行だった…。

ええ。 全部 外国みたいな時。
うわー。

僕が
その当時の事を知らないので…。

うん。 そうですか。
親から聞くしかなかったですね。

そうですか。 それから なんか
一般家庭でヤギ飼って…。

なんか ヤギを飼うのが
みんな 流行って

ヤギ飼ったんですって?

沖縄で結構 今でも やっぱり

南部だとか北部だとかの
道沿いとかには

急に なんか 柵とかに

ヤギが ひもで縛られて…
まだ いるんですよ。

そこら辺の雑草を食べてもらって

ある程度 肉ついたら
食べるっていうのなんですけど。

僕らが小さい頃とかも やっぱり

家が
新築 建ちましたとかってなると

お祝いで
ヤギを1匹 潰すんですよ。

ええー。
潰して みんなでヤギ料理を

近所とかに振る舞う
っていうのがあるんですけども。

やっぱり
おじいの実家の近くとかでも

そういうヤギとかも
いっぱいいて。

可愛がっていて よく頭とか
なでていたヤギとかも

いるんですけれども。

ある時 こう…
すごい ごちそうみたいな

親戚っていうか 近所の人たちが
みんな 集まって…。

名前付けたヤギなんかでもね。
はい。

そしたら もう
その可愛がっていたヤギも

薄くなっていて。
フフフフ…。

みんなが おいしい おいしいって
食べたり

ズルズルってやっている中
子供心には なんかね

ちょっと
ショックだったんですけども。

そうよね。 あいつは
もう いないんだっていう。

はい。
そうですね。

それから お盆には
お墓で宴会するんですって?

お盆っていうか 清明祭…
清明祭ですね。

うん。

沖縄のお墓って 本当に こう

古墳みたいに大きいお墓とかが
いっぱいあるんですけれども。

旧暦の3月…。
これ あなたですかね?

ちょっと 写っているの。
4月ぐらいに 大体 こう

みんな お墓に集まって
お墓の前が広いので

もう 何十人… 多い所では
100人 超えるぐらいの

一門が集まって。
あっ そうなの。

そこで料理 食べたり
お酒 飲んだりとか

もう 派手なところは
バーベキュー始めたり…。

あっ そう。

携帯用のカラオケ持ってきて
歌ったりとかっていうふうに

お墓の前で 一族でピクニックして
祖先に

あなたが命をつないでくれた
子孫たちは

こうやって 元気に
過ごしていますよっていうのを

お墓の前で伝えるっていう
楽しい儀式というか…。

ええー。
お墓が怖いイメージは

沖縄の人 ないかもしれませんね。
なるほどね。

お墓っていうものに対してね。
これは うちの母親の

ちょうど 今年の清明祭…
うちの兄貴と2人でやって。

奥に写っている黄色い…。
お札みたいな?

あれが天国で使えるお札。
うちかびっていうんですけれども。

沖縄では 普通に コンビニとか
スーパーとかでも売っていて。

これを最後 あの世に帰す時に
燃やして…。

ああー これは使えないのね
お金としてはね。

だから あの世の祖先に
使ってもらうために

最後は燃やして
お金を送金するんです あの世に。

なるほど。
あの世では あの一枚一枚が

何百万とかって
すごい大金に換わるっていって。

なるほどね。

でも 本土復帰後に誕生した
大スターが

プロボクサーの具志堅用高さん。

ちょうど
復帰して4年後ですかね

具志堅さんが
世界チャンピオンになったのは。

うわ 1979年の具志堅さん
まだ目が虎ですね。

フフフフ…。
今みたいに ちょっと

天然といわれている
優しい具志堅さんじゃないな。

そうね。
うわ この時の具志堅さん…。

現在も この連続13勝
っていうんですか?

はい。
日本人最多の防衛記録。

これ まだ
破られていないんですってね。

はい。
すごい。

本当 すごい人なんですよ。
すごい人なんですけど

天然が
やっぱり すぎるんですよね。

面白い人。 フフフフ…。
面白いっていうか もう

僕も具志堅さんと
初めて お会いした時に

やっぱり 沖縄のスターですから
うわー 具志堅さんだと思って。

それで 具志堅さんと
仲良くさせてもらって。

そしたら 「ゴリ 東京でも
沖縄と同じレベルの

沖縄料理 食べれるお店
見つけたから

みんな… ISSAとか集めて
食べに行きましょう」って言って

ISSAとか
ロバートの山本君とか

みんな 集めて。

で 具志堅さんと待ち合わせして
行ったお店が

シンガポール料理の
お店だったんです。

(一同 笑い)

フフフフ…。 そう。
はい。

僕らも どうしていいか
わからなかったです。

沖縄じゃなかったのね。
沖縄ではなかったです。

シンガポール…
国さえ違っています。

フフフ。
沖縄出身の すごい方だって

みんな… ねえ。
あの方 いい方ですもんね。

そんな思わないかもしれないけど
すごいのね。

やっぱり 日本に復帰したあとの
沖縄県民って

コンプレックスしか
なかったんですよ。

やっぱり 全て… 経済的にも
スポーツや何もかも

全部が遅れていたので。
やっぱり みんなが こう

遅れている
コンプレックスを抱えている時に

沖縄県民の中で
日本に通用するどころか

世界に通用する具志堅さんが
出てきたっていう事で

本当に 沖縄県民が みんな
自分たちに自信が持てたんですよ。

よかったわね。
あっ 俺たち うちなーんちゅは

自信 持っていいんだ。
日本に そして

世界に通用する人たちなんだ
みたいな事を

最初に教えてくれたのが
具志堅さんなんです。

あっ そう…!
そう。

ここにあるの これね
具志堅さんに頂いたんですよ。

シーサーっていうんですって
皆さん。 可愛いでしょ?

具志堅さんからもらったんですか。
これ どんなに可愛いかってね

私 沖縄 行った時に
雨が降ってきたんですよ。

高速 走っていたらね
屋根の上に猫がね

乗っているんだけど みんなね
おとなしく座っているから

沖縄の猫は
雨 好きなんだなと思って

運転手さんに 「沖縄の猫は
雨 好きなんですか?」って。

「別に好きじゃないですよ」
「屋根の上で みんな

おとなしくしてるじゃないですか」
って言ったら

みんな こんなとかやったり
寝たりして

屋根の上にね これが…。
これだったんですよ それが。

遠くから見たら
猫に見えたんだけど。

守っているんですってね。
そうです。

具志堅さんも小さい頃
石垣島の屋根とかには

猫が いっぱいいるなって
思っていたんですって。

そうなの?
具志堅さんって

本当 天然だなと思ったら
まさか 黒柳さんと具志堅さん

ここの共通点があるとは
思っていなかったです。

それで その事を
具志堅さんに言ったら…。

「あれ 可愛いね」って
私が言ったら…。

「あんなに可愛いのない」って
言ったら

「今度 あげますよ」って言って

こんな重いものを
あなた 沖縄から

持ってきてくだすったのよ 2つ。
へえー。

で これね うちの…
私 マンションなもんですから

マンションの外に…
ドアの外に置いといて

なくなると嫌だから 中へ入れて

ちょっと 出口の所に2匹ね
置いてあるんですけど。

お守りに置いてある。 可愛い。

大きさもね ちょうど 可愛い。
いいですね。

でも ゴリさんは小学校の時に
大阪に転校なすったんですって?

小学校1年生の時に
大阪に行ったんですけど。

もう やっぱり 沖縄って

こんなに違うんだっていう
衝撃 受けた時でしたね。

何が一番違っていました?

まず やっぱり 電車。
うん。

あれだけの鉄の長い塊が
何両もつながって

何百人っていう人を

一気に乗せて 蛇のように動く。

鉄の蛇っていうんですか?
フフフフ…。

こんなのが動くんだ
っていう衝撃もあるし

地下鉄は もっと怖くて。
うん。

地面に こんなに大きな穴を掘って
天井 落ちてこないのかとか

どこまで続くんだろう
っていうぐらい

なんか 巨大モグラの巣を
旅しているみたいな感じで。

今だとね さすがに もう
電車に乗ったら

ワクワクしませんけれども
子供の頃は もう

アトラクションみたいに
電車に乗ったら

端から端まで 無駄に
歩いて行ったりとかするんですよ

もう 楽しくて。
うれしくて? 可愛いわね。

そう。 だから あっ 沖縄って
遅れてるんだなって

知ったのが やっぱり
6歳の時でしたね 僕は。

なるほど。 だから その頃から

ちょっと 沖縄だっていう事で
コンプレックスも

ちょっと あったんですって?
そうですね。 やっぱり

今みたいに沖縄出身っていったら

みんなが
「ええー うらやましい」とか

旅行 行きたいとかって…。
朝の…。

はい。 朝ドラもやってますし。

やっぱり 沖縄イコール
観光地として人気の所ですから

みんな うらやましいとか
あと 安室奈美恵ちゃんを筆頭に

アクターズスクール旋風で…。
そうそう。 歌のうまい人。

歌がうまいとか
ファッショナブルで踊りがうまいとか

っていうふうな
かっこいいイメージですけど

僕の子供の頃って まだ 沖縄って
そんなに旅行としても まだ

人気の所でもなかったですし。
行けなかったから そう簡単にね。

やっぱり 芸能人とかって…
有名人も少なくって

具志堅用高さんとか
ぐらいだったので。

なんか 「沖縄? どこやねん」
みたいな感じだったんですよ。

それも すごいな。
大阪でも。

しゃべり方も
向こうは関西弁だけど

こっちは やっぱり
なまりがあるから

なんか 馬鹿にされるんじゃないか
と思って

ずーっと教室で黙ってて

友達もできなくて。
うん。

休み時間は みんな遊びに行くけど
僕だけ教室にいてっていうので

すごく やっぱり 寂しかったんで

やっぱり
友達 欲しいじゃないですか。

どうにかしたいって思った時に

僕も その時の自分の行動が
びっくりしたんですけど。

掃除の時間に

持っているほうきを
マイク代わりにして

確か 松田聖子さんの歌を
歌い出したんですよ。

フフ…。
そしたら みんなが最初

えっ? って固まって
引いたんですけど

そこから
「お前 おもろいな」っつって。

「照屋っていうんやろ?」って。

「沖縄から来たんやろ?」
とかっていって

やっと 僕に興味を持ってくれて
そこから友達が すごく

増えたんですよ。
ああー よかったね。

そう。 だから なんか 僕の中で
その時に なんか

人を笑わせたりだとか
面白い事をやれば

人は
自分に気付いてくれるんだとか。

友達になってくれるみたいな
きっかけだったので なんか

僕の中で この…
自分の存在意義みたいなのを

見つけられたのが
お笑いだったのかも

しれないですね。
あっ そうなんですか。 ええー。

でも あなたはゴリさんと
みんなに呼ばれているけど

お母様はゴリっていうのが
とっても嫌いだったんですって?

もう 本当に 深夜番組とかしか
まだ出ていない頃

やっぱり 僕が
ゴリって呼ばれている事が

すごく嫌みたいで。
お母様は向こうにいらっしゃるの。

はい。
もう 電話かかってきて 沖縄から。

「あんた ゴリって
呼ばれているの? 周りから」。

「恥ずかしい。 あんた 年之って
私たちが付けたのに?」。

「ゴリ やめなさい。
本名の年之に戻しなさい」

って言われて。
「いやいや もう でも

ゴリってなったし」
みたいな感じで ずーっと

押し問答だったんですけれども。

やっぱり 朝ドラの
『ちゅらさん』の出演が決まって。

それで 深夜番組しか
出ていなかった僕が

急に 全国に名前が
知れ渡るわけですよ

全国ネットに。
『ちゅらさん』。

はい。 ああー そう。 恵里。
国仲涼子ちゃん。

そして
『ちゅらさん』に出たあとに

沖縄に帰ってきたら
那覇空港で待っていた

母親の第一声が 「おかえり ゴリ」
って言って もう…。

「ゴリ」だって?
自分が付けた年之って名前で

呼ばなかったんです。
フフフフ…。

「うちのゴリ」とか言って もう
他の人に紹介する時も

ずっと ゴリです。
フフフフ…。

じゃあ もう それで
いい事になったわけ?

そうですね。 やっぱり
全国ネットになった瞬間に

こんなに 親が簡単に

手のひら返すとは
思っていなかったので

びっくりしました。
でも お母様は面白い方で

本土復帰前の
ベビーブームに目を付けて

ベビー用品を
開業なすったんですって?

そうなんですよ。
やっぱり その…

やっぱり こう…
1972年前後っていうのは

とっても もう やっぱり
子供が増えた時期なので。

そういう部分では やっぱり
うちの父親と一緒に

今からは
絶対 子供服だっていう事で。

なんか こう…
基地から持ってきたのか

なんか パスポートで
大阪から輸入したのか

なんか こう… 自分らで なんか

あちこち飛んで
子供服を集めたらしいんですよ。

すごい。 ベビー用品店を始めた。

で もう トラックに山積みに
子供服を載っけて

自分の店の前に着いて。

そこから
店に降ろそうかなっていう時に

もう やっぱり
うちの母親の集めてくるのは

いい品で安いっていうのを
もう お客さんが知ってるから

もう 店に入る前に
みんな トラックよじ登って

赤ちゃんの服
持っていくんですって。

それぐらい馬鹿みたいに売れた
って言っていました。

それじゃあ 儲かったの?
はい。

よかったね。
本当に やっぱり 商売の才能は

すごくあったと思います 母親は。
そうでしょ。

たくましい方だったのね。
たくましいですね。

そういう たくましさで どんどん
全部 売れていきましたね。

すごく商売上手だったんだね。
はい。

頭 下がりますね
そのたくましさは。

そう。 それで お母様の…
お料理も上手で

おふくろの味というと
あるんですって?

僕は やっぱり 母親が作る
この中身汁っていうものが

とても好きで。
なんですか? 中身汁って。

これは もう 豚のモツ…
内臓なんですけれども。

やっぱり モツの

いわゆる臭みとか
アクを取るために

まず 塩もみして。

そのあと 鍋でグツグツ グツグツ
何十分も煮て。

で また アクをこぼして
また 同じ事をやってって

何回も繰り返すんですよ。
あっ そうなの。 大変ね。

もう アクも抜いて
それで モツも軟らかくなって。

それで ダシは まあ
カツオダシをメインに いわゆる

イメージすると
お吸い物みたいな感じの

スープの…
あっさりしてるんですよね 結構。

昔は
琉球王朝とかで食べられていて

あんまり 一般庶民は
食べれなかったものなんですが。

あっ そうなの。
それが まあ

庶民の方に下りてきて
正月とか祝い事の時だけ

食べるようになっていったものが

今の現代は 当たり前のように
日常でも食べるし…。

おいしい?
おいしい。 食堂とかでも

普通に中身汁として
メニューに置いてある…。

あっ そうなの。
普通の一般的な料理ですね。

あっ そうですか。 へえー。
これが好きなんですよ。

あっ そうなの。
シイタケのダシとかも出ていて

おいしいんです。
じゃあ おふくろの味のレシピは

忘れないでいる?
そのレシピを教わる前に

母親が亡くなってしまったので。
あら。

いつか このレシピ
教えてもらわなきゃねって

ずっと話していたんですよ。
うん。 書いておけばね。

そう。 母親も 入退院を
よく繰り返していたので。

退院してきた時に
「何 食べたい?」っていうと

やっぱり
僕は中身汁って言うから

うれしそうに
作っていたんですよね。

だから ああー その時に

聞いておけばよかったと
思いながらも

やっぱり この…

思った時に親はなし
じゃないですけれども…。

そうよね。
やっぱり 亡くなるとは

思わないもんですから
いつか聞こう いつか聞こうと

思っているわけですよ
こうやって退院もしてくるので。

うん。
でも そうなんですよね。

思った時には
何もかも遅いなっていうのは

すごく感じましたね。
そう。

じゃあ 結局 わからないじまい?
わからないです。

お父様はステーキ作るのが
上手だったんですって?

うちの親父は
やっぱり ステーキが とっても

食べるのが大好きなので。
すごい こんなに大きかったの?

まあ これは 親父の
作ったものではないんですが。

うん。 でも…。
いつも 親父は

ステーキのタレを
独自に色んなもの混ぜて

それに ステーキを5枚ぐらい
漬けるんですよ。

ええー。
それが 冷蔵庫に常にあるので。

うん。
「なんか食べるか?」

っていったら もう ステーキを
すぐジャージャーって

2枚とか平気で出しちゃう…。
うん。

あれぐらい でっかいの
ボンッて2枚とか出すんで。

肉は好きですね 沖縄。
本当に シメはステーキって

よくね 沖縄は
取り上げられたりしますけれども。

朝までやっている
ステーキ屋さんとか

夜中までやっている…。
私が行った時も そうでしたね。

はい。 ですので やっぱり
ある程度 居酒屋で飲んで

そろそろ 帰ろうかって
言いながらも

歩いている時に
ステーキ屋さんとか開いてると

行く? とかっていって

本当に シメでステーキ食べたりも
全然するんですよね。

なるほどね。
ここで言う

ラーメンみたいなもんですよね。
そうですね。 シメはラーメン

っていう代わりに
シメはステーキっていう。

相当 すごいよね。
はい。

それにしても 太平洋戦争では

沖縄県民の4分の1が
亡くなったという事で

皆さん あんまり
その事を口に出して

あなたのおじい様も おばあ様も
話した事なかったんですって?

あんまり。
ひと言も聞いた事なくて。

で うちの両親も
話そうとはしなかったんですが

たまたまテレビで
沖縄戦の映像を

母親と見ていた時に…。

それも 僕が ある程度
大人になってからですけれども。

「戦争の記憶ってあるの?」って
言ったら

「うん」って言って。
「お母さん 多分

6歳か7歳だったかな」。
小学校1年生とか

それぐらいの時に やっぱり
一番の激戦地だった

沖縄の南の糸満市って
あるんですが。

糸満の出身なんですよ。
あっ そうなの。 ええ。

うちの母親の母親
おばあちゃんに手を連れられて…。

本当に… 本当に
弾が見えるって言ってました。

チョチョ チョチョって
狙われているの。

その中で 本当に走って。

本当に 一緒に走っている人が
撃たれて倒れていくだとか

いわゆる 目の前に いっぱい
死体があったらしいんで。

その死体も
ただ倒れているんじゃなくて

体の半分が飛び散っているだとか。
そう…。

そういう死体を
飛び越えたりしながら…。

子供の手を引っ張って?
逃げている時に やっぱり

自分が じゃあ 7歳とかに
人が死んでいるのを見たら

もう 足がすくんで動けなかったり
すると思うんですが。

やっぱり もう生きなきゃいけない
っていう状況で

何日も食べていない
水さえ飲んでいないっていう

子供の体力で
意識も もうろうとしているから。

なんか すごく 僕は母親の言葉で
印象に残っているのが

「死体に途中から慣れた」って
言うんですよ。

僕は死体って
慣れるもんではないって

思うんですけども やっぱり

それぐらい
あちこちにありすぎて…。

ただ 逃げるのだけで
フラフラで必死だったから

なんか 死体というものに
一切 怖さを感じなくなって。

ただ 前に一歩 足を出すんだ
っていうのだけで

精いっぱいだったっていう話を
聞いた時に

それだけでも 戦争って
本当 恐ろしいなというか…。

お母様の話? それは。
はい。 やっぱり

7歳の女の子の精神状況が
そこまでなってしまうぐらい…。

本当ね。
ひどかったって聞きますもんね。

お父様は どうですか?
うちの父親からは

その話 聞いていないですね
戦争の話は。

母親から
その話を聞いたのだけが

僕の中での
唯一の沖縄戦の話ですね。

だから やっぱり おばあちゃんが
すごかったって言っていましたね。

諦めなかったって 生きる事を。

「手つないで ずっと逃げ続けた」
って言っていましたね。

ただ お父様の忘れられない言葉
っていうのがあるんですって?

ああ…。 僕自身が

今から15年以上前に
映画を撮る話を頂いて。

そこで 短編映画を
撮ったのをきっかけに

ほぼ毎年 映画を ずっと
実は地味に撮り続けていて。

あっ そうなの。
はい。

うちの親父が
酔ったら よく言うのが

「いつかは お前
沖縄戦を撮ってくれないか」って

よく言うんですよね。
あっ そう。

映画…。
「いや 戦争なんて そんな

簡単に撮れるものじゃないよ」って
言って。

そんな 生半可な知識でも
駄目だしとかって。

ただ やっぱり
うちの親父は なんか

「戦争映画を撮ってくれ
撮ってくれ」っていうのは

よく言いますね。
でも あなた

子供向けに
本 お書きになったでしょ?

はい。 アメリカ統治下の沖縄
っていうものを

今の沖縄の子供たちや
全国の子供たちは

知らないっていう事で
その内容がわかる

子供が読みやすい
児童小説っていうのを

僕も ちょうど復帰っ子なので
書いてみませんかって…。

なんという題ですか?
『海ヤカラ』というタイトルですね。

子供たちが自分たち目線で
その主人公に感情移入しながら

読みやすいようには 一応
書いたつもりではいるんですけど。

今 沖縄に対しては
どういう思いがします?

やっぱり
沖縄っていうものを題材にした

映画でもそうですし
お笑いでも そうですけれども。

そういうものを発信しながら
沖縄っていうものを

色々 皆さんに
注目してもらうっていう事が

僕ができる事だし
やれる事なのかなっていうのは

思っては… 続けてはいます。

最後に 沖縄の方言で
ちょっと 挨拶して頂けます?

はいさい。
ぐすーよー ちゅー うがなびら。

「こんにちは。
皆さん ご機嫌いかがですか?」

「私 ゴリと申します。
よろしくお願いします」と

言いました。
あっ そうなんですか。

本当に ありがとうございました。
ありがとうございました。

『徹子の部屋』は

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