英雄たちの選択「“犬公方”の孤独 徳川綱吉と生類あわれみの令」[字]…の番組内容解析まとめ

出典:EPGの番組情報

英雄たちの選択「“犬公方”の孤独 徳川綱吉と生類あわれみの令」[字]

人間よりも犬を大切にする悪法として名高い「生類あわれみの令」。しかし本来は、民をいたわり、弱者を救うはずのものだった?将軍・綱吉の政治はなぜ暴走していったのか。

詳細情報
番組内容
徳川幕府5代将軍・綱吉。人よりも犬を大切にする“犬公方”と呼ばれたが、近年は、幕府政治を法律や制度尊重へと転換した、有能な君主として再評価が進む。民をいたわり、弱者に優しい社会を目指した綱吉。ところがある事件をきっかけに変わっていく…。そして登場した「生類あわれみの令」。人や動物すべてをいたわるための法令が、やがて、犬を傷つけた人を処刑にするほどにエスカレート!綱吉政治はなぜ暴走していったのか?
出演者
【司会】磯田道史,杉浦友紀,【出演】九州大学教授…福田千鶴,東京大学教授…小島毅,高橋源一郎,【語り】松重豊

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般

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  19. 幕府
  20. 目指

解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)

久能山東照宮。

徳川幕府の創始者
家康を祀る この地には

歴代将軍ゆかりの品が数多く残る。

この掛け軸も その一つ。

骨太の飾り気のない書体で記された

「誠實」の2文字。

記されている名は
綱吉。

五代将軍 徳川綱吉である。

綱吉は 幕府政治の大転換を図り

武力で統治する武断政治から

法律や制度による
文治政治を目指したとして

近年 その評価が見直されている。

就任早々 綱吉は こう宣言している。

そこにあるのは
民への慈悲にあふれる名君の姿だ。

一方で
綱吉といえば 犬公方と蔑まれた将軍。

ご存じ 生類憐みの令は

民を苦しめた
史上まれに見る悪法として名高い。

「犬を傷つけた旗本
そなたには 死罪を申しつける!」。

法を破れば 容赦なく取り締まられた。

厳しさを増していく規制に
江戸の庶民は大混乱。

人々の不満は募り
綱吉の評判も地に落ちていく。

誠実で民に優しい社会を
目指したはずの綱吉が

なぜ
生類憐みの令へと暴走していったのか?

スタジオでは
専門家たちが その背景を解き明かす。

そういった忖度政治を生み出していった。

…成功しないものですね。

徳川綱吉と生類憐みの令。

理想に燃えた将軍は
なぜ暴走していったのか?

その真相に迫る!

♬~

皆さん こんばんは。
こんばんは。

歴史のターニングポイントで
英雄たちに迫られた選択。

その時 彼らは何を考え 何に悩んで
一つの選択をしたんでしょうか。

今回の主人公は こちらです。

徳川綱吉です。 磯田さん
今回 この綱吉の どこに注目しますか?

犬公方と呼ばれるんですが
僕 この徳川綱吉っていうのは

時代の変わり目に現れた
先取り将軍みたいな面も

近年 評価もされてきてるので
そこを見た上で

もうちょっと掘り下げてみたいなと
今日 思っています。

当時の日本 戦国時代以来の

割とマッチョな乱世の政治を
やってたところから

それを変えていくっていう感じの
時代になりますよね。

転換期なんですね。
うん 転換期。

綱吉は どうやって変えたのか
っていったら 学問的に言うと…

一方 武士だけでなくてですね 庶民にも
新しい価値観が入っていったんですよね。

どういうことかというと 庶民の方も

そんな乱世の時代の
荒々しい農民ではなくなってきて。

まあ 今 我々 よく言われるのが

財布を落としても戻ってくる日本
すごいなとか言うわけですが。

ああ 確かに。
まあ おとなしい感じの日本っていうか

僕は綱吉がつくったということが
言えるかな。

とにかく 今 見ておくべき
重要な人物だろうと思いますね。

では その徳川綱吉は
どんな政治を目指したのか

早速 見ていきましょう。

徳川記念財団に
五代将軍 綱吉が

いつも
身近で大切にした品が保管されている。

金の縫い取りを施した青い布製の袋。

ところどころ擦り切れ

日常的に使い込まれていたことが
うかがえる。

中に収められていたのは 2冊の書物。

儒学で必須とされる

「論語」「大学」「中庸」「孟子」の
「四書」をまとめたものだ。

中に 書き込みがしてありまして

今で言う ホワイトっていうんですか…

…っていうふうに伝わっておりますので
勉強してたんだと思います。

儒学を重んじ
文治政治への大転換を目指した

将軍 綱吉。

一体 どんな人物だったのだろうか?

綱吉は…

母は側室で庶民の出だったといわれる。

将軍となることは
全く期待されていなかった綱吉。

若い頃からのめり込んだのが 儒学だった。

「徳川実紀」には こう記されている。

「綱吉公は
儒学の経典を学ぶことに打ち込み

病の時にも
書を手放すことはなかった」。

学芸に秀でた一門の大名として生きる道を
歩んでいた綱吉。

だが 35歳の時 その運命は一変した。

四代将軍である兄 家綱が急死。

家綱には子がなく 綱吉の2人の兄も
若くして亡くなっていた。

図らずも
綱吉は次期将軍の有力候補となった。

だが
政治の実権を握っていた老中の中には

綱吉の就任に異を唱える者もいた。

綱吉の治世を記した「御当代記」によれば

大老 酒井忠清は
次のように主張したとされる。

「綱吉公には
天下を治めるような器量はない」。

時の最高権力者の猛反対。

これに対し
綱吉を強硬に推した人物がいた。

老中 堀田正俊。

後に綱吉の政治を支えることになる
人物である。

正俊の子孫 堀田家には

この時の経緯を記した文書が
代々伝えられている。

扇の螺鈿細工を施した漆塗りの小箱。

正俊の遺言で封印され 開けられたのは
昭和に入ってからのことだ。

♬~

この書類自体は
将軍 家綱から正俊に対して下された

遺言書のようなものでございます。

堀田家の言い伝えによれば

死の床にあった家綱が 堀田に対し
今後のことを指示した文書だという。

「その方が提出した書付の内容は

いかにも最もである。

そのように計らうように」。

堀田家では これは…

…というふうに理解をいたしております。

書付というふうに思ってたと思います。

延宝8年8月
綱吉は 第五代将軍に就任した。

そのころ 幕府政治は
大きな曲がり角にさしかかっていた。

全国的な天候不順が何年も続き

凶作から飢饉が蔓延。

にもかかわらず 代官たちによる
過酷な年貢の取り立てが横行していた。

代官の中には 代々その土地を支配し

領民を
自分の持ち物のように考える者も多く

各地で百姓の騒乱を引き起こしていた。

こうした社会の在り方を見直すべく

綱吉と堀田は 一大政治改革に乗り出した。

将軍となって ひとつき

堀田の名で 7か条から成る命令が
代官たちに下された。

民政の基本的な心得を
代官たちに知らしめ

違反する者は ことごとく罷免
新たな代官と交代させた。

思想史家の小川和也さんは

この規定には 儒学の影響が色濃いと言う。

ひと言で言うと
仁政で接するということですよね。

…っていうふうに考えてますけども。

堀田正俊は
かねてから儒学への造詣が深く

領地でも仁政を志していた。

綱吉は そんな堀田を大老に任じ
新たな政治を目指した。

後に 天和の治と
呼ばれる改革である。

2人が模範とした儒学は
孔子に始まる政治道徳の学問。

為政者が徳を積み 民を慈しむことで
理想の政治が実現すると説く。

これは堀田が記した「言録」という書。

改革の具体例が記録されている。

父母への孝行に励み
近隣の飢えた民を救った百姓を表彰。

年貢90石を免除した。

儒学の徳目の一つ「孝」を
人々に奨励した。

父 家光が建造させた
幕府の軍艦 安宅丸。

綱吉は年に10万石もの
維持費がかかる
この船を破却した。

民の負担を
軽くするため

老中の反対を押して
決定したという。

堀田自身が登場する
興味深いエピソードがある。

「私が 桜田門の近くを
通りかかった時のことだ。

7~8歳と4~5歳
2人の飢えた子供を見かけた」。

堀田は
一旦は その子たちを救おうと考えたが

そのような ささいなことは
大老の仕事ではないと思い直し

その場を立ち去り 後で従者を通じて
子供たちに食事を与えるにとどめた。

その話を聞いた綱吉は
堀田を こう たしなめたという。

「それは お前の心の迷いというものだ」。

堀田は恥じ入って
主君の言葉を聞いたという。

新たな政治の実現へと邁進する将軍 綱吉。

その理想は
誰よりも誠実で まっすぐなものだった。

綱吉が将軍となり 堀田正俊と共に
新たな政治を目指す様子を

ご覧いただきました。 今回も
さまざまな分野のゲストの皆さんに

お越しいただいています。
皆さん よろしくお願いいたします。

まずは 綱吉を研究する福田千鶴さんです。
よろしくお願いいたします。

福田さんは 綱吉という将軍について

どのような点に
注目されていますか?

はい 私は 綱吉を
理解する上では

強烈な劣等感を
持った人だった

というふうに
理解しています。

ただ 綱吉の面白いところはですね…

…ということを宣言してるんですね。

これは普通の人だと 自分は
そういうことで将軍になったので

このまま大きなことを変えたら
いけないんじゃないかとかって

考えがちなんですけど そうじゃなくて
だからこそ自分は変えていいんだと

そういうふうに言い放ったところが

綱吉の興味深いところだと
思っておりまして。

なので そこがですね
日本歴史上 前例のない

生類憐みの政治というものを展開できた

大きな背景にあったのではないかと
考えています。

前に 何かの本で
読んだことあるんですけどね

要するに
徳川家の将軍で

みんなが覚えている人は
誰でしょうっていう。

そうすると 最初の
家康 秀忠 家光か 除くと

3人しかいないって
いうんですね。

この3人って共通してるとこがあって

息子じゃないんで
なり手がなくて 急きょ なっちゃった人。

傍系の。
傍系の人なんですよね。

つまり 自分がやるとしたら
新しいことでしょ。

65年って 大体70年ぐらいって…

とすると 要するに 徳川政権って
戦争で出来た政権だから

つまり そうじゃないものを
つくろうと思ったら…

つまり 戦争じゃないものを価値観にする
っていう政治家っていうのの

ここで出てきたのが綱吉。
そこが やっぱり 面白いです。

今 高橋さんが おっしゃったことと
私も これ 関係してると思うのは…

そうですね。
あ~ はいはい。

生まれつきね 文化系だったと思うんです。

いわゆる?
いわゆる。 私も そうなんですが

運動神経が
鈍かったんじゃないかと
思います。

そうすると
武家の棟梁としては

これは それまでの
伝統的な考え方では
規格外れですよね。

そうすると
彼が自分のアイデンティティーとして

私はできることというと…

まだ このころ 一般の武士の間では
そうした学問をばかにする

体育会系の方が偉いんだという気風が
満ち満ちていた中で

綱吉は自ら それを変えていこうとした
面があるだろうと思っています。

だから より みんなが考えもしないような
アイデアが出たりとか

政策が出たりするかもしれないんですよね
それは。

そんな綱吉を将軍に押し立て
サポートしたのが 老中の堀田正俊。

磯田さん そもそも この2人が進めた
天和の治というのは

実際 どういう政治なんですか?

まずね この天和の治が行われる時に

あんまり こう
認識されてないかもしれないけど

ものすごい日本社会の
社会構造の大きな変化がある。

…っていうのが まあ

いわゆる 僕ら近世史がやってる
世界の見方で 何が違うって

1650年ぐらいまでは 地方地方に…

それで 納税も その人たちに

武士なんかも
ちょっとお任せなとこもあるし

治安もお任せなところがある。

だから もし年貢を納めなかったら
そういう土豪たちが

お前 どうして納めねえんだ?
って怒って

竹簀巻きにして
川の中に放り込むとか

そういうこと平気で行われてるのが
1650年以前。

割とバイオレンスですね。
うん バイオレンス。

ところが ここから
「百姓取続」っていう4文字で

よく資料なんかに現れますけど
そういう…

すごい言ってくる。

農民を ちゃんと…

これに転換していく時代なんですよね。

綱吉が将軍になると
まず一番にするのが…

驚くべきことかもしれませんけれども
それまで老中の職務の中に

民政とか財政とかっていうことが
入っていなかったんですね。

そのような中で 地域でですね

代々続いている
大きなお百姓さんであるとか

代々続いてる代官とかがいて
そういう人たちが やはり代々続くと

癒着の構造というものが
出来てくるんですね。

その中に
やはり さまざまな不正が起きる。

だから これはですね
綱紀粛正と よくいわれますけれども

政治を大きく刷新していくという意味では
この天和の治というのは

ある意味 成功しているのではないか
というふうに思います。

幕府の中で
そういうことをやるっていうことが

私は大きく変わるんだと思うんですね。

幕府ですから 軍事集団なんですよ。

その老中が
財政や民政を担当するっていうのは

これ どうなんでしょう?
老中たちにとっても

本当は そんなこと我々の仕事じゃない。
もっと下っ端がやることだと。

そうだと思います。
私たちの仕事は武家を統合して

軍事力を維持して
国家を安泰化させることにあるわけで

そういった
民政とか財政なんていうのは

本当に下々のすることだと
思っているわけですから

そういった民政とか財政なんていうものは
埒外であったわけなんですね。

そこの発想を転換して 政治家として

やはり携わっていきましょうよっていう
ところの発想が出たっていうのは

かなり大きなことだと思います。
本当に これ大きい変化ですね。

さっき言った 軍事的なマインドから
平和の時代のマインドに

まず上から変わった。
はい。

この堀田さんっていうのは
非常に面白い人で

僕も ちょっと
「言録」読んだんですけど

まあ 要するに
儒学への深い理解があって

はっきり言って
綱吉より 全然 上ですよね。

だから 最初は多分そうですけど
触書も堀田正俊の名前で出てますよね。

やっぱり 基本的には
彼が仁政の骨格を作って

それを綱吉に
これで どうでしょうかって言って

OKが出て 出すっていう。

この時代は 割とスムーズに

仁政らしきものが出来ていたと
思うんですよね。

あと 僕はね 綱吉より 結構
理論的な儒教主義だと思うんですよ。

だけど 一方…

そういう感じがあるから
2人は 儒教では一致してるんだけど

ちょっと
違いもあるような気がしてますね。

考え方を見てたら 飢えてる子に

ごはんをあげるかどうかっていう
問題で現れたのが…

かわいそうと思ったら
そのまま行きゃいいんだという

慈悲 情の綱吉の違いというのは

あのエピソード
よく出てるなと思いますね。

さて 堀田正俊と共に
政治改革に邁進した綱吉ですが

予期せぬ大事件が起きました。

江戸城内で衝撃的な事件が起こる。

大老 堀田正俊が 老中の詰所近くで
幕府の重役に襲われ

殺害されたのである。

堀田への個人的な恨みによる
犯行だったとされる。

この突然の事件が その後の綱吉の政治に
大きな変化をもたらすこととなった。

綱吉は まず
事件現場の近くにあった

老中詰所を
将軍の居室から遠ざけ

離れた場所へと移した。

将軍と老中のやり取りは

新たに設けられた側用人によって
中継されるようになった。

この結果 将軍と老中が

直接 政策について相談する機会は
減少する。

将軍 綱吉の意思が より強く
政治に反映するようになっていった。

そして 悪法として名高いあの法令も
堀田の死後 綱吉の主導で発せられた。

江戸の町に一枚の高札が立てられた。

これまで 将軍がお出ましの際には

犬や猫は おとなしく つないでおく
という義務があったのを廃止。

たとえ
それらが将軍の行列のそばに来ても

お咎めなしとした。

更に綱吉は
江戸の町人に

飼っている
犬や猫 馬などの

毛色や特徴を
提出させた。

飼い主を明確にし

それぞれに
飼育の責任を持たせるためだった。

これ以後 綱吉は生き物にまつわる
100を超える法令を相次いで出していく。

これらを総称して 生類憐みの令という。

なぜ綱吉は このような法の制定に
向かったのだろうか?

歴史学者の根崎光男さんは

犬のことばかりが注目される
この法令だが

綱吉の
もっと大きな理想が見て取れるという。

もちろん…

とりわけ 人間の中でも…

…ということも
生類憐みの令の中では触れています。

根崎さんが注目するのは

生類憐みの令の中の次のような法令だ。

江戸市中で…

餓え死にする者を減らすべし。

牢屋に格子戸を設けて風通しをよくし

囚人には 毎月5回 行水をさせるべし。

衛生状態をよくして
牢で死ぬ囚人を減らすこと。

結果的にはですね…

そういう意味では
法の精神としてはですね

かなり優しさのある
政治なのではないかと。

時代が移り変わっているんですね。

…っていうものを動かそうというのが
綱吉の意図だったように思います。

一方で 法の内容について

綱吉と周囲の間で
ズレが生じることもあった。

例えば 貞享4年2月11日
老中から ある触れが出されている。

ところが その10日後

綱吉は すぐに
撤回の触れを出させている。

なお一層…

そして 先の法令を出した老中に
綱吉は 謹慎処分を下している。

弱者をいたわり
生命を慈しむ理想のもとに始められた

生類憐みの令。

しかし その前途には
早くも不安な兆しが見え始めていた。

堀田の暗殺事件以降
綱吉は 自ら イニシアチブを取って

政治のかじを取ることになります。

福田さん あの
堀田暗殺の影響というのは

どのようにあったんでしょう?
綱吉にとって。

なので それまでは
老中が将軍の近くにいますので

直接 話ができてたんですけど
それができなくなる。

それによって
何が生じたかといいますと…

また…

忖度が また
忖度を生むというような形でですね

そういった忖度政治を
生み出していったというところが

この生類憐み政治というものを
何か こう 変な方向に導いた

原因の一つになったのではないかと
考えています。

いや~ このね 生類憐みの令は
超ヤバいですよ。 超ヤバい!

あのね ある時に 何か調べるために

生類憐みの令 見たら
いっぱいあるじゃないですか。

でね 考えたら
バラバラ 体系性がない。

まあ 馬か犬から始めて

あっちいったり こっちいったりしながら
昆虫までいくし…。

昆虫まで いくんですか?
魚もいくし 貝もいくし…。

貝? 本当に 生類は 全部…
そこに 人間も入ってる。

出方が とにかく 取りとめがなくて
次々 出てくるし

で それで 罰則込みでね。

かといって
これが ひどいことかっていうと

さっきの牢屋の囚人に
今より ましっていうぐらい

すごく人権感覚にあふれているようなのも
出てくるし。

だからね もう
部下たちも 混乱してると思うんだよね。

綱吉が何を考えてやってんのか
よく分からないんで。 確かに。

そうだと思います。 民衆のレベルでは
「じゃあ これはどうなのか」

「あれはどうなのか」ってことを
奉行所に尋ねると

今度は 老中たちや 実際の代官たちは
混乱して

対症療法的に 「これはこうじゃないの?」
「あれはこうじゃないの?」ってやったら

「いやいや それは心得違いである」とか

「いや あれは間違ってました」
ということで

大混乱が起きていくということが
実際だったんだろうと思うんですね。

こんな でもね 文治政治だとかいっても
江戸幕府の構造自体は

非常にマッチョ性の高い軍事集団の
縦型社会なんですよ。

だから 主君に気に入られたい
主君の意思を体現するっていうので

忠誠競争も 中で行われている。

だから 最初は
捨て子をどうするなとかの話なのに

しまいの方は 「うちの家では
蚊の幼虫を殺さないために

水まく時 ボウフラにも
気を付けてます」とか言いだすと

それで 競争が始まる。
本心では 違うかもしれませんよ。

本心じゃないのに 人間が動き始めると
これは恐ろしいですよ。

だから よくない化学反応が
起こっちゃうんですね。 起こる。

あと
この生類憐み政策も…

ですから
先ほど来 議論になっているように

周りの者が 右往左往するわけです。

儒学の場合に 法は 全て
礼の原則に基づいて出されますから

意図 明確なんですね。

なぜ 具体的に
こういう法令が出されているのか。

ところが この生類憐みの令と
されるものに関しては それが見えない。

逆に言えばですね
私たちとか 今の研究者が

生類憐み政策として一括しているものは

彼の頭の中で ひとくくりのものとして
存在したのかどうか。

福田さん どう感じますか?
この生類憐みの令について。

あの~ 生類憐みを考える上では

綱吉が 血の穢れであるとか 死の穢れ

こういったものに
ものすごく敏感だったということが

一つ 指摘しなければならないことだと
思います。

例えば 綱吉には 子供がいたんですが
それが5歳で死んでしまうんですね。

そうしますと
息子の死に際まで立ち会わない。

これも…

そうすると…

そういう強迫観念に駆られているために…

それぐらい 彼は
死の穢れとか 血の穢れというものに

徹底的に避けようとしている。

なので 穢れを とにかく
将軍から避けてほしいということが

この生類憐みの根本にあったというふうに
考えなければならない。

だから ちょっと この辺から 綱吉の
一種の天子化 自分が天子になる。

…というふうになってくると
だんだん 自分が天子的存在になっていく。

だから 堀田正俊が生きてれば
そういうことも止めただろうし

あとは 暴走するしかなくなったっていう
感じだと思います。

やはり…

(笑い声)

ズバッと。
ズバッと来た。

血を見るのが嫌い
人の死に目にあいたくない。

こんな武家の棟梁がいますか?
(笑い声)

生類憐みの令が暴走していく画期は
元禄6年にあった。

きっかけは 鷹狩の廃止である。

飼い慣らした鷹を放って
鳥や獣を捕らえる鷹狩。

軍事訓練としての側面や

獲物の贈答を通じて
朝廷や大名との関係を深める役割を持ち

武家にとって
重要な意味を持つ行事である。

だが 獲物の命を奪う狩りは
生類憐みの精神に反する。

綱吉は この年
その全面廃止に踏み切った。

ところが この決断が 江戸の町に
大きな混乱を引き起こすこととなった。

諸藩の大名屋敷から

鷹狩用の猟犬や 鷹の餌として
飼育されていた大量の犬が

行き場を失って野良犬となり
江戸の町に あふれたのである。

増え続ける野犬と 町人の間で
トラブルが続出した。

それに対して
取締りが厳しいものですから

八つ当たり化していくということで

犬を殺すことによって
憂さを晴らすというような人たちも

たくさんいてですね
事件も いっぱいあるんですね。

江戸の町では 武士が腹いせに
犬を斬り捨てるといった事件が続出。

町人たちは
犬と関わって 罪に問われることを恐れ

野良犬がいても餌を与えず

腹をすかせた犬が 捨て子を襲うといった
事態にまで発展した。

生類憐みの令が引き起こした
江戸の大混乱に

将軍として どう対処すべきか…。

綱吉の心の内に 分け入ってみよう。

江戸では 犬を巡る騒ぎが増すばかり…。

生類憐みの令を 皆
本心では どう思っているのだろうか?

あまりにも行き過ぎだ
緩めてほしいという声も

あるのではなかろうか。

そもそも 余が目指したのは

国の本である 民の生活を守ること。

民のためとあらば 法を緩め

増え過ぎた犬は
処分するしかないのではないか。

しかし… 待て。

余が 生類憐みの令を出したのは

生き物全てに 慈悲の心を持つ大切さを
民に諭すため。

今 法を緩めれば
その理想を自ら捨てることになるまいか。

民の不満はあろうが ここは
あえて強い姿勢で臨むことが肝要。

生類憐みの令は 従来どおりとすべきだ。

そうだ。 人と犬の間に
いさかいが起きぬよう

幕府が率先して 野犬を保護し
対策に乗り出せばよいではないか。

だが
江戸中にあふれた犬を全て保護すれば

ばく大な出費となろう。

幕府財政は 火の車。

果たして
そこまでのことができるのだろうか…。

生類憐みの令を 今後 いかにすべきか…。

綱吉は 選択を迫られた。

綱吉は 選択を迫られます。

生類憐みの令を緩和し
人と犬のトラブルを解消するか。

それとも 生類憐みの令は
あくまで継続して

幕府主導で 犬問題の解決を図るか。

皆さんが綱吉の立場だったら
どちらを選択しますか?

高橋さん どうでしょうか?

僕は 1の生類憐みの令の緩和を
選びます。

僕 よく この番組に
出させていただくとですね

この主人公 小説に書くとしたら
どう書くかなとか

思いながら 考えるんですけど

これ 結構ね 気持ち…
綱吉の気持ちになりやすい。

でね 多分 どういう気持ちだったかと
思うとですよ。 僕の推測ですよ。

…いう感じじゃないかと。
間違ったこと言ってないだろうと。

どうして まあ 役人もそうだし

庶民も 犬公方とか言ってるみたいだけど
違うんだよと。

その運用がうまくいってないけど
俺は いいこと言ってんのにと。

でも ここで 一応 君主なので

つまり…

…っていうふうにしたら
よかったのになと。

これは 願望も込めてですね。

私も 1の生類憐みの令の緩和です。

もう あの これは
儒学において 名君といわれる人は

自分が よかれと思って
やった政策であっても

それに うまくいかないところがあれば
すぐに それを 撤回 修正する。

これこそが名君である
ということになっています。

「論語」の中にも…

これは…

自分で それをモットーにしていながら
それを直さないということは

本来ありえないことでありまして
やはり ここは 緩和だと思います。

福田さんは どちらを選択しますか?

私は 2を選択します。

まあ これは 綱吉の気持ちに
寄り添えばということですけれども

綱吉は この政策が悪い政策だとは
全く思っていなかったと思います。

理想とはいえ その理想を実現できるのが
天下人の役割ですので

それをすることに意味があると
考えていた。

ただ 繰り返すように

周りの 周囲の人たちが
忖度政治を行ってますので

その理念を実施したことによって
民の方に弊害が出ているという実態が

どれぐらい
綱吉の耳に入っていたのかというのは

ちょっと疑問ではないかなと思います。

なので 綱吉が
実態を知らなかったとすれば やはり

自分の時代だけでも いい政治を
やっていきたいというふうな気持ちで

2を選択したと思います。 継続ですね。
はい。

さあ 意見が分かれましたけど
磯田さんは いかがでしょうか?

私は 2の生類憐みの令の継続で。

ただしね 犬を傷つけて死刑とか
ちょっと行き過ぎは駄目ですね。

だって 人間も あれですからね
生類ですからね。

だから
マイルドに続けてもらおうかなと。

やっぱ
当時の日本の様子を文字で見てると

やっぱ 本当 残酷です。
まだ戦国です 本当。

もう 人を人とも思わない
刀の試し斬りなんて

最近までやってるみたいな
そんな社会ですから…

もうちょっと 人を殺さない形で
生き物を大事にする政策を

しばらくやってみたら
どうなるかなというのも

ちょっと見てみようかなと思いますね。

綱吉の選択は
どちらだったのか見てみましょう。

区役所の一角に
7匹の犬のモニュメントがある。

元禄8年 綱吉は この場所に

犬を収容する一大施設 御囲を建設した。

綱吉の選択は
生類憐みの令を そのまま継続。

増え過ぎた野犬の対策として

それらを収容する施設を
作らせたのだった。

これは 並大抵の事業ではなかった。

最初の御囲が完成したのは その年の秋。

その後 収容する犬の増加に伴い

増築に増築を重ね

最終的には
5区画 29万坪にまで拡大した。

東京ドーム およそ20個分もの広さである。

犬の数は 最盛期で10万匹を記録する。

餌代は 年間9万8千両。

現代の貨幣価値で 120億円以上もの
ばく大な経費が必要となった。

だが 当時の幕府に
これを支払う余裕はない。

財源を どこに求めたのか?

なんと 民に背負わせたのである。

元禄9年 綱吉は
江戸の町に

犬小屋の維持費用を
納めることを
命じている。

新たな税負担に
町人の不満が高まるのをよそに

生類憐みの令は
更に厳しさを増していく。

「幕臣の橋本権之助は
犬を傷つけた罪によって

将軍より
死罪を仰せつけられた」。

「いよいよ 人々が 仁愛の心を持つよう

厳しく申しつけるものなり」。

町人の生活への介入も進んだ。

これに違反し…

生活の隅々まで厳しく規制する
綱吉に対し

人々は声を上げることもできず
不満は募っていく。

その後
生類憐みの令は 改められることなく

20年以上にわたって
人々の生活を縛ることとなった。

(犬のほえる声)

幕府の方針が改められるには
宝永6年まで待たねばならなかった。

この年の1月10日
将軍 綱吉が 64歳で亡くなる。

その10日後
幕閣は 生類憐みの令に関して

今後の方針を発表する。

中野の御囲は 廃止。

町々に命じられた
費用負担も撤回が決まった。

慌ただしく法改正を行った後

綱吉のなきがらは
徳川家の菩提寺 寛永寺に葬られた。

その死後 犬公方とやゆされ
批判の的とされた綱吉。

だが 彼が始めた 捨て子や
病人の保護に関する法令は形を変え

その後も継続されていく。

綱吉という
強烈な個性によって発せられた

生類憐みの令。

後世に 何をもたらしたのだろうか?

いや もう
最後は ちょっとかわいそうですね。

というのは 一応 生類憐みの令の継続を
遺言みたいにして

言ってるのに 死んだ瞬間に
ほぼ廃止されちゃうっていうことは

もう既に 根回し 済んでるわけですから。

もう 綱吉が亡くなったら
もう やめようねと。

で それを知らないわけでしょ?
僕は 綱吉って人は

主観的には すごくいいことをしようと
思ったんだけれども

やっぱり…

つまり 彼らの儒学は
座学ですからね 完全に。

それは やっぱり 堀田のように

実際に 現実の政治をやってきた人間に
比べて…。

だから 綱吉の悲劇は…

だから 周りの人からも
そういう意味では

まあ 何だろう
あいつ しょうがないなと。

見てても もう
早く死んでくれないかなみたいな

思われたと思うと
ちょっと かわいそうですよね。

確かに。
それは かわいそうだし

まあね 犬の御囲とかは
かなり行き過ぎた

ルールだと思いますけれど
法律だと思いますけど

綱吉自身は 悪気がないんだな
っていうことだけは伝わってくる。

悪気がないのが 一番危ないんだよ。
そうなんですよね。

よくあるんですよね
これ 現実世界にも。

人に迷惑をかける人は 大体 悪気はない。
そうなんですよね。 難しいですよね。

もし 堀田が 暗殺されずに生きていたら
どうだったんでしょうかね?

そうですね。 堀田は やはり

現実的なことを考えられる政治家だった
というふうに思いますので

止めることも可能だったかなと思います。

あるいは
徳川将軍家の草創に立ち会ったような

酒井家であるとか
そういった由緒のある人たちが

綱吉を押しとどめることも
できたと思うんですが

天和の治で展開した中で

そういった世襲の家が
どんどん どんどん

老中とか そういった役割から
外されていっている。

そして
側用人政治が始まったというんですが

すぐに 1か月ぐらいでクビになってる
っていう人物が多いんですね。

そういう事実を見ましても やはり…

…が確実にあったことが見て取れます。

儒学の中で…

人事権なんですね。

君主自身は 政策を いちいち
あれこれ決めなくていいんです。

決めてはいけないんです。

それは 自分がこれと見込んだ人 ないしは
その集団に任せるということで

まあ その眼力がなかった。

自分に反対意見を言う人が 煙たかった。

ですから これは
いい人が そして 家柄のいい人ほど

上に立って 周りが見えなくなり
聞くことができなくなると

何をやらかし
国民に どれだけ迷惑をかけるかという

我々の身近にもありそうな
そういう話だと思います。

今日は 徳川綱吉と
生類憐みの令について

見てきましたけれど
皆さん 最後に どんなことを感じたか

教えていただきたいんですが
福田さんは どうでしょうか?

はい。 あの やはり 綱吉

何か 悪いところに落ちていきそうな
感じなんですけれど…

それで 政治が始まった時に すぐに

綱吉は 忠孝札という高札を立てて

忠と孝を大切にしないといけない。

で 不忠 不孝な者がいたら
処罰するという高札を

全国に立てさせるんですね。
これを 明治新政府も引き継いで

忠孝というものを
日本人の行動様式の基礎に据えていく。

それは全く悪いことではないと
私は思いますので。

なので 日本人的な行動様式の基本形を

ここで作ることができたのではないかな
というふうに思っています。

あの これ 有名な ケンペルっていうね
医者でしたっけ あの人はね

…が 彼のことを すごく褒めててね

つまり…

もちろん
ヨーロッパは 戦乱が続いてたけど

やっぱし
ものすごく 人命は疎かにされてた。

つまり 生類憐みの令っていうことで

ネガティブなイメージがあると
思ってしまいますけども

まあ 生命を大事にしようと。

それは…

実際の政策がうまくいったかは
ともかくね。

生命 大事っていう方向へ
かじを切ったっていうことは

すごく評価すべきで。 ただ やっぱり
理念と政策は なかなか一致しない。

これは どの時代でも。
根本理念は いいんだけどね

作ってみた政策は駄目じゃん
っていうことの典型的な例で。

やっぱり それは すごく
本当に惜しかったなと。

そういう意味では
名君ではなかったけども 暴君でもなく

悲劇の君主だったのかなという気は
しますね。

いや~ 磯田さん
綱吉 そして この生類憐みの令は

多角的に見ることができる…。
本当に 多角的に見えるし

今の我々にとっても
すごい反省点にもなる気がしますよ。

…ということは やっぱり 見ますよね。

で 残念でしょうがないのは
弱者保護とかいうような

この時代にしては
画期的なものに着手しながら

例えば 子供の保護 女性の保護

あと 動物の適正な愛護
っていうようなことに着手しながら

むしろ そういうものに対して
悪い印象 泥を塗るっていうか

その信用度を失わせちゃったんですよ
ここで。

これ うまくやってれば

こういった弱者保護っていうのは
非常に大事なもので

天下人がやるべき仕事なんだって
定着していったはずなんですよ。

それに失敗しちゃって もう
弱者保護に飽きちゃったっていうか

もう これは駄目だと。

リアリストが行わなければ
こういう弱者保護だとか…

僕らだって 私自身だって

そういうこと
間違いかねないなと思ってね

反省点の多い…。

この失敗は
見れば見るほど 非常に役に立つ

綱吉の歴史じゃないかなと
思うんですよね。

皆さん 今日は ありがとうございました。
ありがとうございました。

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