出典:EPGの番組情報
徹子の部屋 世良公則[解][字]
~デビュー45年…“陶芸”を愛すロックスター!~世良公則さんが今日のゲストです。
◇ゲスト
朝ドラ『カムカムエヴリバディ』での熱唱が話題に♪日本のロックスター世良公則さんが19年ぶりの登場!
◇番組内容
今年デビュー45年を迎えるが、黒柳さんとはデビュー以来の仲。ロックバンドがテレビに出演するのが珍しかった当時に起きた衝撃のエピソードを明かす。その頃に苦楽を共にした戦友が桑田佳祐さん。その交友秘話も語る。意外にも「和の文化」が大好きという世良さん。なかでも陶芸の腕前はプロ並みで、実際の作品や制作風景を披露する。また、地元・広島県福山市の市制100周年で福山城でのライブを行い、故郷に錦を飾った話も。
◇おしらせ
☆『徹子の部屋』番組HP
http://www.tv-asahi.co.jp/tetsuko/ジャンル :
バラエティ – トークバラエティ
ドキュメンタリー/教養 – インタビュー・討論
福祉 – 文字(字幕)
テキストマイニング結果
ワードクラウド
キーワード出現数ベスト20
- 本当
- 自分
- フフフフ
- Tonight
- お城
- ロック
- 周年
- お前
- ライブ
- 音楽
- 大体
- フリーカップ
- 桑田
- 陶芸
- カモン
- コンサート
- デビュー
- テレビ
- ミュージシャン
- 可愛
解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)
今年 デビュー45周年を
お迎えになりました
世良公則さんでいらっしゃいます。
どうも。
ご無沙汰をしております。
19年ぶりのご出演。
あっ そんなになりますか?
そんなになりますね。
ご無沙汰をして…。
どうも どうも。
今や プロ並みという趣味の陶芸。
はい。
これまで
あまりお話しになっていない
色んなご家族のお話なども
伺わせて頂きます。
どうも 世良公則さんです。
はい。 よろしくお願いします。
朝ドラの
『カムカムエヴリバディ』の
熱唱が話題になって。 ねえ。
おかげさまで。
今まで 俳優として
お仕事させて頂く時には
歌にまつわる役柄とか
歌唱シーンとかがあるような
お仕事っていうのは
ずっと お断りを…。
どうしても
ロックボーカリストの自分と
役柄の人物の歌っていうところで
どうしても そこに
線を引くのが難しくて。
なるほど。
ずっとお断りしていたんですけど
今回 ちょっと 思い切って…。
フフフフ…。
もうね 60も超えましたし。
もう超えたの?
66に…。 今度67になりますから。
あなたが66。
はい。
すごい。
ええ。
ちょうど まあ そういう部分では
こだわりとかもね
あまり持たずに
自由に演技をしてみよう
っていう事で
今回 ジャズを
歌わせて頂いたんですけど。
ミュージシャン仲間からも
反響があったり
しているんですって?
ミュージシャンって
大体 夜型だと
僕は思っていたんですけども
色んなミュージシャンが
「見ているよ」っていう…。
特に 渡辺美里さんは
朝から番組をご覧になっていて。
すごいね。
で 次の展開が気になると
僕に LINEで
「あれは
どうなるんですか?」とか
「あれは
どうするんですか?」とか…。
その後 どうなるの…。
その後 どうなるんですか? って
情報を仕入れようとして
何度もLINEが来るし。
面白い。
一緒にライブをやったりも
するんですけど その度に
「世良さん 世良さん
あれは どうなるんですか?」って
言われると 「内緒です」。
フフフフ…。
答えるの わかっているんですよ。
僕が 「内緒です」って言うのを
わかっているのに
ずーっと最終回まで
聞いてきました。
聞くの? フフフフ…。
意外と
『カムカムエヴリバディ』で
朝型になったミュージシャンって
多いと思います。
なるほどね。 思いがけずにね。
そう。
でも ロックバンド ツイストで
デビューして
今年で45年ですって?
はい。 45年になりました。
おめでとうございます。
ありがとうございます。
もう 本当にスタートの時から
黒柳さんには お世話になって
可愛がって頂いて。
それが なんと 今年…
だから 67になりますから
45周年です。
すごーい。 ねえ。
まあ 本当に思い出すと
久米さんが
あなたが今日 お休みです。
「あんたの」ってさ…。 ハハハハ…。
そのマネをね こういうふうにして
足 こういうふうにやって。
あなたが蹴るみたいなのを
やったのか。
そのマネをしたのが
今でもね 頭の中に浮かびます。
でも あの頃は 本当に
どちらかというと
ロックバンドが
テレビに出て歌うとか
そういう事っていうのは
すごく珍しかったので
割と ロックの先輩からは
テレビなんかに出ちゃって
みたいに言われたり。
テレビの方の方からは
なんか 現場にね
Tシャツ ジーパンで
サンダル履いて
タオルを首にかけたようなね
若造が出入りしているって…。
よく 守衛さんにも
「どこに行くんだ」って止められて
「出演者です」って言って
入れて頂いたり
していたんですけど。
その頃から
本当に 久米さんと黒柳さんには
優しくして頂いて。
ですから 毎週
そこのスタジオに行くのが
僕も楽しみで。
あっ 本当。
あそこだと
伸び伸びできたんですね。
なるほどね。
ブーブー言う人がいないから。
フフフフ…。 そうですか。
ツイストのヒット曲を
ちょっと VTRで
ご紹介したいと思います。
いいですか?
ちょっとご覧ください。
♬~「あんたにあげた」
「あんたに」か。
♬~「愛の日々を」
これ
アコースティックライブですね。
♬~(ギター)
♬~「今さら返せとは」
♬~「言わないわ」
♬~「Tonight Tonight
Tonight Tonight」
♬~「今夜こそ
オマエをおとしてみせる」
すごい。
♬~「Tonight Tonight
Tonight Tonight」
♬~「今夜こそ
オマエをおとしてみせる」
「イエイ」
♬~「燃えろいい女」
♬~「燃えろ夏子」
♬~「はずむ夕陽 お前との出逢い」
「カモン カモン カモン カモン」
フフフフ…。
フフフフ…。
まだまだ なんか 元気ですね。
元気よ。 ねえ。
あの頃 街でエレキギター
持って歩くだけでも
なんか お巡りさんに
「おいおい」って言われた時代…。
そうですね。
ちょうど アマチュアをやって
高校生でバンドを組んで
こういう道を目指し始めた頃
エレキギターのケースを
担いでいると
交番のお巡りさんに
呼び止められて
結構 学校とか
担任の先生の名前とか
聞かれるっていうような状態で。
あっ そう。
僕 大人になって
初めて聞いて大笑いしたのが
ちょうど 僕たちがデビューして
番組に出させて頂いている頃に…。
「あんたの」。 うん。
はい。 あの頃に 生徒手帳に…
中学とか高校の生徒手帳に
世良公則&ツイストの
コンサートに行ってはいけない
っていう校則があった
っていう話を聞いて。
本当に?
で これ 僕 都市伝説だと
思っていたんですけど
先日 ちょうど そういう校則の
女学校に通っていた
ガールフレンドと付き合っていた
っていうスタッフがいまして。
その方が 「僕は実際に
その生徒手帳を見た」って。
すごい。
だから 都市伝説じゃ
なかったんですよね。
本当に そうだったのね。
でも そんな事を
生徒手帳に書くっていうのもね…。
でも そんな中 ああいう番組で
可愛がって頂いたので
だんだん お茶の間に浸透して
今やね ロックバンドが
普通にコンサートをして
テレビで演奏させて頂くって
なりましたから。
ああ 45年 経ったんだなと
今 思います。
本当に『ベストテン』の頃は
そうだったのね。
そうみたいでしたね。
でも 当時の同志というか
サザンの桑田さんと
あなたは
仲良かったんですって?
そうですね。 当時から…。
この間も実は…
桑田君とは
年に何回か
お互いに誕生日だったり
クリスマスとか
年明けだったり
新年 明けましておめでとうとか
メールのやり取りを
ずっと していまして。
そんな中で 「あの頃ね 世良はね
あっちこっちで
よくぶつかっていた」と。
「スタッフの方とね
ああでもない こうでもない
モニターをくれとか 音が聞こえ…
色んな事をやっていて
俺は一生懸命 後ろで
まあまあ まあまあって…」。
「俺が あの時にね
お前を まあまあって
なだめてやったから
今も やれているんだよ」って
この間 言われました。
桑田さんが?
へえー。
そんな事って あったのかしらね。
だから やっぱり 桑田氏とかは
戦友っていうか
幼なじみっていうか
一つの時代を一緒に苦労した仲間
戦友っていう意識が
すごい強いですね。
そうよね。 私も そう思います。
なんか あなたは桑田さんに
お作りになった陶芸のものを
プレゼントなすったんですって?
たまたま 先日
僕の仕事場に彼が来まして
で お抹茶をたてたりとかして
もてなしたんですけど。
すごいわね あなた。
いちいち もてなしているの?
大体 僕の仕事場に
ミュージシャンとか
スタッフが来ると
最初は お抹茶と和菓子で
セレモニーがありまして。
で それが終わったあとに
じゃあ そろそろ
打ち合わせでもしますか
っていうような話に
なるんですけど。
ちょうど 桑田さんが来た時には
フリーカップで…
僕の作った
フリーカップを使っていたら
「それ いいね。 かっこいいね」
って言ったので
「じゃあ お持ち帰りになりますか」
って言って…。
フフフ。 うん。
包んで
持って帰ってもらったんですけど。
あっ そうなの。
でも 彼はね 何に使うか
わかっていないみたいで
「これ どうやって使うの?」って。
「いや なんでも…
コーヒーをいれてもいいし
焼酎割りを… 使ってもいいし」
「フリーカップだ」って言ったら
「フリーカップっていうのは
お前が命名したのか?」って
言うから
「いや 普通に
フリーカップという言葉は
あると思います」って
答えたんですけど。
フフフフ…。
何に使っているかしらね。
もう…
何に使っているんでしょうね。
今日 見ていたら
きっと笑っているわよ。
焼酎でも いいんですよ。
焼酎割りでも なんでも。
フフフフ…。 うわー。
でも 本当に そういう
音楽 好きな人なんかが…
桑田さんにしても
仲良くしているのは いいわよね。
そうですね。
特に若い頃… 30代とかは
お互いに自分の道を目指す
っていうのがあって
少し疎遠になったりも
していたんですけど。
40 50 60と年を加える事によって
お互いの中で
認め合う気持ちの方が強くなって。
ライバルではあるんだけども
彼の存在があったから
自分は
自分の道を信じる事ができたし
恐らく 僕がいたから
彼も自分の道を
迷わなかったんだと思うし
っていう
なんか そういうのが
桑田氏に限らず…。
さて 陶芸ですけど
いつ頃からお始めになったの?
そうですね。
始めて 今 11年になりますね。
12年目に入ったところです。
これはマキを ちょうど くべて
焼きを やっているところですね。
すごい。
松の木をくべて そこで
1200度から上ぐらいの熱い温度で
焼いていくんですけども。
そうですね。 ちょうど…
この炎も そうなんですけど
自分の中にある ロックの
エネルギーみたいなものと
土を一心に こう こねて
そして
焼いていくっていう作業が
自分の性に合っているんですね。
ちょうど この窯を
ある仕事で訪れた時に
七代 加藤幸兵衛先生
っていう先生に
「手を見せてごらんなさい」
って言われて
手を見て頂いたんです。
そうすると 「陶芸に向いている」
って おっしゃったんです。
で なぜか それが
なんか 催眠術にかかったように
信じ込んで。
そこから 土に 一生懸命
触るようになったんですけど。
確かに あなたの手
思いがけなく大きいし 太いね。
そうなんですよね。
びっくりした。
で 土を練っていると
一心不乱に土を練っている事に
気が付いて
自我とかが
スッと なくなっていく瞬間を
体現できたんですね。
これは 自分が無になる事って…
大体 雑念の多い人間なので。
無になる瞬間っていうのを
味わった時に
このまま ずっと
土と付き合っていこう
っていう気持ちになりましたね。
あっ そう。
これ ちょうど練ったあとの…
菊練りを終えた時の
土の状態です。
菊練りっていうの? これ。
菊の花びらのような状態に
練っていくんですけども。
仕事場に
ろくろを持ち込んでですね
ブルーシートを敷いて
で ろくろで
作品をひいているんですけども。
お抹茶茶わんなんですけども。
あらー。
そういうものをですね
日夜 焼いております。
こんなものが焼けるんですかね。
はい。
これは ちょうど
引き出し黒っていいまして
1200度を超える窯の熱の中から
真っ赤になっている この器を
火箸のようなもので掴んで
出すんですね。
そうすると 1200度から
冬場だと 大体7度とか8度の
外気に触れるので
ピキピキ ピキピキと
音を立てながら
真っ赤なお茶わんが
こういうふうに黒く…。
黒い釉薬をかけてあるんですけど。
独特の引き出し…
窯から引き出した黒っていう
深みのある黒に変化するっていう。
すごいわね。
他にも こういう
志野焼とか 焼締めとか
あと 釉薬のかかったものとか
あと こういう
ぐい飲みのようなものとか
こういうものを
日夜 作り続けています。
これは ちょうど 僕が
お抹茶をたてているところですね。
よく行くお店の一つ
間借りをしまして
ちょうど お抹茶を
たてさせて頂いているとこですね。
こういうふうにして
もてなすんです。
ああー おいしそう。 フフフ。
あら おいしそうね。
ちょうど 和菓子とかも…。
これは たまたま手元にあった
普通のチョコレートを
カラフルだったので…。
そうそう。 可愛いね。
可愛いかなと思って
これで
お出しする事もあるし。
大体 少し甘いものがあると
こうやって…。
これは お煎茶なんですけど。
急須以外は全部 僕が作った…。
あっ そうなの。
はい。 お皿も全部 そうですね。
ええー。
元々 ちっちゃな頃から
そういう日本文化とか
あと そういう戦国時代の
武将の物語だったりとか
そういうものが大好きだったので。
おばあ様が…。
はい。
あっ 母の母なんですけど
母方がお寺なので。
そうなんですってね。
僕の祖母が
早くに おじいちゃんを亡くして
そのお寺を ずっと
子供たちが大きくなるまで
女の身でありながら 僧侶として
そのお寺を支えてきたんですね。
僧侶? お寺を持っていらして。
お寺を住職として
継いでいっていて。
ご出身は どっちの方?
僕は広島…。
あっ 広島ね。
で ちょうど おばあちゃんが…
ですから お経を唱えたり
色んな法事があったりしても
おばあちゃんが真ん中に座って
主として読経をするんですけど。
その声が 本堂で
障子がビリビリ ビリビリと
震えるぐらい いい声なんですよ。
「あー」って言い始めると もう
腹の底から響くような声で。
ですから ちょうど 僕が
こういう世界に入った時に…。
「あんたに」?
そう。 「お前… 公則の あの声は
おばあちゃんの声をDNAとして
引き継いでるんだ」って
ずっと 親戚中 言われていました。
そう。
僕も そう思いますね。
あのおばあちゃんのいい声を…
迫力のある声を
僕は頂いているんだなと
思いながら
今でも やっています。
ご両親は
しつけが厳しかったとかって?
2人とも
公務員だったもんですから。
お母様?
はい。
特に 母の方は
今でいう保育士さんっていう…。
保育園の園長先生を
やっていたもんですから。
日頃から 僕に
「私は ちょうど 親元からね
ちょっと 乳離れをして そして
これから 社会に出て行く前の
大事な保育園児… 3歳 4歳の
大事な年齢の子たちを
預かっているんだから」
っていう事を
常々 言っていたんですね。
だから 僕にも とても厳しくて。
例えば 子供の頃
いくらすいていても
電車やバスの中で
座らせて頂けなかったですね。
大変。 本当?
立っていなきゃいけないの?
はい。 ずっと バスで…
例えば お墓参りに行く途中の
バスの中でも
「子供は立っていなさい」っていう
タイプの母親でしたから
すごく厳しく しつけられた。
その僕が ロックミュージックを
始めたというのもあるんですけど。
ただ 母も父も
すごいなと思ったのは
僕がロックミュージックを
始めた時に…
高校生の頃から始めたんですけど。
ひと言も反対をしなかったんです。
それ すごいわね。
はい。 ですから
普通は ロックミュージックを
始めたりすると…
先ほども お話ありましたけど。
ギターのケースを担いで
駅前を歩いていると
交番で
呼び止められるような時代に
僕が…
ロックをやっている仲間とかが
家に遊びに来ても ひと言も
ロックを どうこうっていう事は
なかったですね。
あなたの歌を お父様は
お聴きになった事ある?
あります。 ですから ちょうど
アマチュアで始めた頃に
テープに録ったりしたのを
聴いているじゃないですか。
そうすると ひと言
「お前の音楽は やかましゅうて
ようわからんのう」って
広島弁で よく言っていました。
ですから ずっと 僕は
デビューしてからも
父親と そんな 僕の音楽について
話をした事もないし
父からも 僕の音楽について
触れる事はなかったんですけど。
父が ちょうど亡くなってから
父のご友人の方とかと
お話しした時に
「お父さんはね 酔っ払うと…
一回だけ “あんたに”を
歌ってくれたんだよ みんなに」
って。
本当に?
うん。
僕は それまで うちの父が
僕の歌を人前で歌っている
なんて話は聞いた事がない。
「あんたに」っていうやつを?
はい。
本当に?
はい。 で それを聞いて…。
うれしかったでしょ?
ちょっとグッときましたね。
生前は僕にひと言も
そんな事を毛ほども感じさせずに
過ごしていましたから。
最後まで…
まあ 『紅白』に出して頂いた時は
さすがに 「一人前になったよね」
みたいな事は
言ってくれたんですけど。
それ以降 何十年も
僕の音楽について
語る事はなかったんですね。
でも それを
お父様が お歌いになったりした
っていう事は
やっぱり あなたにとっては
本当に びっくりした事でしょ?
びっくりでしたね。
しかも ちょうど
僕が50になる頃ですかね
父が ずっと 僕の音楽については
黙っていたんですけど
その時に 一つだけ
「お前も もう
いい大人になったんだから
自分のふるさとに
貢献できるような事を
したらどうか」って
言われたんですね。
それまで 僕は
ふるさとでのコンサートとかを
かたくなに断っていたんです。
あっ そうなの? 嫌だったの?
やっぱり 地元でやるっていうのが
照れくさくて
ずっと
断り続けていたんですけども
父の… 「そろそろ
お前も大人なんだから
自分を育ててくれた ふるさとに
何か貢献できる事をしたらどうだ」
って言ってくれて。
それで ずっと 前々から
お誘い頂いていた
地元でのコンサートっていうのを
やらせて頂いたんですけど。
ちょうど 広島県福山市で
市制100周年っていう事で。
ええー。
お城で じゃあ
ライブをやったらどうか
っていう話になりまして。
すごいじゃない。
福山城?
ええ。 だから ちょうど…。
この福山城の中にですね
特設会場を造らせて頂いて
で そこでライブを
やらせて頂いたんですけど。
ええー。
まあ でも 父が亡くなったあとの
ライブだったので…。
あっ
お父様 亡くなったあとだったの。
実現したのは 亡くなったあと
だったんですけども
でも やっと なんか
約束を果たせたような…。
そうね。
地元のために なんかしたらどうだ
っていう事ではね
お父様 お喜びになって
見ていらしたでしょうね
どこかでね。
ですから ちょうど この頃に
父が そうやって 酔っ払うとね
皆さんの前で 一曲だけ
『あんたのバラード』を
披露していたっていう
エピソードも聞いていたりして。
だから 格別な思いで
このライブは
やらせて頂きました。
本当よね。
そんな事って
考えられない事だもんね。
そうですね。 はい。
でも 市制100年ライブ
その時に
お城でおやりになったって。
そしたら その時 お城とロックは
よく合うっていう…。
いや さっきも
少しお話ししましたけど
僕は日本の文化が好きで
そして 戦国武将が大好きで
そして 陶芸にひかれて
土と戯れて。
その中で 今回 お城で
ロックをやらせて頂いた時に…
なんていうんですかね。
独特のエネルギーが
お城にはあるんですよね。
なるほど。
だから こう言ったら
手前みそなんですけども
立つべくして立ったみたいね。
フフフフ…。 わかる。
なんか こう すごく
侍の時代の そういう
日本人の精神みたいなものと
自分が音楽で ロックとはいえ
貫いていくっていう
道っていうものを目指すのに
なんて こう
お城っていうエネルギーがね…。
だから 本当は
もう一度やりたいんですよね。
ぜひ。
ぜひ 福山城…
まあ 福山城に限らないですけど。
どこのお城でも呼んで頂ければ…。
お城とロックって なんか
すごく合うんじゃないかなと
僕は思っているんですけどね。
皆さん お聞きになったでしょ?
お城でやりたいって。 フフ。
お誘いください。
ぜひ お城をお持ちの方は
お誘いください。
でも あれでしょ?
9月には45周年記念ライブを…。
まだ企画段階なんですけど
豪華なゲストの方に来て頂いて…。
僕 大体
25周年 30周年 35周年って
周年っていうのはね
あんまり頓着がないんですけど。
でも 45周年に向けて
ちょっと 今 色んな仕掛けを
考えさせて頂いています。
でも おばあ様の説法というものは
ずっと あなたの胸の中にある。
はい。 うちの祖母が
お経を読んでいる中の
意味とかも
僕 聞いた事あるんです。
ちっちゃい時
「これ なんていう意味?」とか。
そうすると
「宇宙は一つだよ」とか
欲を… 「無欲になる事で
自分をさらけ出す
っていう意味なんだよ」とか
色んな事を教わっていた事を
今になって…
先ほどの話じゃないですけど。
自分が 今 あるように
そこに いればいい。
そこで 表現者として
自然に振る舞うっていう事を
心がけています。
なんか 死ぬまで
ずっと道半ばとかって
おっしゃったってね。
はい。 そうですね。
一本の線を ずっと引き続けて
いっぱいになったなと思っても
また次のキャンバスが見えてきて
引き続けている途中のどこかで
僕は いなくなるんだろうなと
思いながら。
それまでは 一本の道を
ずっと 線を引き続けていく。
その心がけだけは
持っていたいなと思います。
すごい。
でも 90歳までライブを…
一応 90歳までライブを続けたい。
そうですね。 ちょうど10個上に
宇崎竜童さんが
いらっしゃるんですけど。
100までやるって
おっしゃっているんで
僕も ちょっと 目標を変えて
100までやろうと思っています。
そう。 100までがいいじゃない。
フフフ。
はい。 仲間とか家だと
やっぱり 広島弁になります。
じゃあ これで失礼します
っていうのは なんて言うの?
ほいじゃあ またのうって…。
ハハ。 じゃあ またのう。
『徹子の部屋』は
Source: https://dnptxt.com/feed/
powered by Auto Youtube Summarize