知恵泉「明治維新 大山捨松 敗者の再出発 日本初の女子留学生の格闘」[解][字] …の番組内容解析まとめ

出典:EPGの番組情報

知恵泉「明治維新 大山捨松 敗者の再出発 日本初の女子留学生の格闘」[解][字]

大山(山川)捨松。明治4年日本初の女子留学生の一人で戊会津藩の家老の娘だ。賊軍と見なされる中、家族の期待も背負い海外留学で人生の再出発を賭けた捨松から学ぶ知恵

詳細情報
番組内容
明治維新といえば文明開化…でも女性にとって文明“退化”だった!?良妻賢母という言葉が生まれ女性の活躍は著しく制限された時代のはじまりでもあった。そんな時代に生きた大山(山川)捨松。明治4年日本初の女子留学生の一人で、戊辰戦争で敗れた会津藩の家老の娘だ。賊軍とされる中、家族の期待も背負っての海外留学で人生の再出発を賭けた。見知らぬ国での体験や10年の留学後に待ち受けていた困難を克服する知恵とは
出演者
【出演】長谷川京子,IT企業役員…石田裕子,鈴木由紀子,【司会】高井正智

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
趣味/教育 – 音楽・美術・工芸

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  14. 活躍
  15. 環境
  16. 帰国
  17. 経験
  18. 結婚
  19. 大山捨松
  20. 知恵

解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)

今から およそ150年前。

日本の近代化を志し
アメリカに向け出発した岩倉使節団。

岩倉具視 大久保利通 伊藤博文など
100名を超える一行の中に

12歳の少女がいました。

日本最初の女子留学生 山川捨松。
後の大山捨松です。

捨松は英語 フランス語
ドイツ語を習得し

日本人女性として初めて大学を卒業。

国際舞台で活躍できる才媛でした。

ところが 帰国した捨松を
待ち構えていたのは

旧態依然とした当時の社会の壁でした。

留学先で発見された

捨松がアメリカの親友に送った手紙です。

戸惑い 絶望 苦悩。

一体 捨松に何が?

実は
文明開化といわれる明治時代ですが

女性にとっては文明退化?

女性の活動が
著しく制限された時代でした。

そんな時代に捨松がとった行動は
なんと社交界で活躍すること。

鹿鳴館の華と うたわれた
華々しい活躍には

彼女の ある願いがありました。

日本初の看護婦養成学校の設立。

女子教育への支援。

女性の能力が
発揮できる社会を

目指した捨松。

さまざまな挫折からの再出発で

見いだした知恵とは?

今回 知恵を読み解くのは2人の女性。

「ハセキョー」の愛称で
モデルとして活躍後

俳優として再出発。

挑戦し続ける姿が
同世代の女性たちを中心に

支持を集めています。

そして…

女性活躍のカギは
チャレンジできる環境を作ることと

新たな女性の働き方を提案しています。

明治と令和 150年の時を越え

新しい生き方を切り開く女性たちの
極意を探ります。

ねえ 来てしまいましたよね。
また来ちゃいました。

もう感動ですね。

店主冥利に尽きますね。
こんにちは お邪魔します。

いらっしゃいませ 長谷川京子さん。

よろしくお願いします。
お待ちしておりました。

そちらの席へ おかけ下さい。
はい 失礼します。

ありがとうございます 今日は
呼んで頂いて。

もう皆さん いらっしゃってたんですか。

初めてですよね?
そうなんです。 はじめまして。

よろしくお願いします。
よろしくお願いします。

さあ 今日のテーマは
「日本最初の女子留学生 大山捨松」と。

大山捨松 知ってました?
ごめんなさい。

私は ちょっと恥ずかしながら
存じ上げなかったんですが。

初めて?
はい そうなんです。

私も女子留学生といえば
津田梅子って習った気がします。

今 名前が出てきたんで ちょっと写真
こちら見て頂きましょうか。

こちらが日本最初の
女子留学生たちですね。

一番右が大山捨松。
そして 津田梅子も写っているんです。

その津田さんと大山さんが

非常に ちょっと
ほかの方に比べて若い印象。

この時のお二人って
おいくつぐらいなんですかね?

大山捨松さんが12歳。

津田梅子さんが…。
数えで ですから8歳。

まだ本当に小さい。

1年とか2年とか
大体どれぐらいのスパンで?

10年。
10年!?

10年 行かせるというのを
親は分かってて手放した?

いや だから大変でしたよ。

女子は1人も
応募者がいなかった 最初ね。

でも それでも 何て言うんでしょう…
これからの人生

グローバルな社会のためにか
分からないですけども

ご家庭のご両親っていうのは
どういう気持ちで?

だからね これ みんな負け組なんですよ。

明治維新で負けた。

山川捨松は
会津藩の 朝敵となった

一番最大の悲劇になったところの
家老の娘。

あとは みんな幕臣の娘。
だから みんな敗者なんです。

だから もう親は
なんとか アメリカにやって

新しい道で生きるすべを
授けたいっていう思いが

あったんじゃないでしょうかね。
背水の陣みたいな感じで。

一見 勝者が選ばれて行くような…。

行くような印象ですよね。
実は負け組と。

そんな少女たちがアメリカで
どう再出発をするのか

話をする前にですね
メニューからまいります。

こちらね 名物なんですよ。

(拍手と笑い声)

ステーキを
焼いて下さるということですか?

ビーフステーキをね

後に夫になる大山 巌

すごい大好物だったみたい。

そこも考えて。
いや そうなんですか!

…かどうかは分かりませんが。

今 助け船みたいな顔されて…。
ありがとうございます。

ということで捨松の前半生から
味わって頂きます。

黒船が来航して7年後。

徳川幕藩体制が大きく揺らぎ始めた
万延元年。

会津藩の家老 山川家の末娘として
捨松は生まれました。

幼名は咲子。

厳しくも温かい家庭で育ちます。

ところが9歳の時
彼女の運命は大きく変わります。

慶応4年8月の
会津戦争です。

攻め入る新政府軍に
女性や子どもたちは籠城。

捨松も 子どもながらに弾丸を運び

姉が爆死するという壮絶な経験をします。

この戦いで大敗した会津藩は
賊軍とされ

咲子たちは ふるさとを追われ

貧困と不遇の日々を送ります。

転機は明治政府による女子留学生の募集。

山川家は
学問で新しい時代を生き抜こうと

12歳の咲子をアメリカ留学に応募します。

留学期間は10年。

遠い異国に娘を旅立たせる母親は

「捨てたつもりで帰りを待つ」
という思いを込め

咲子から「捨松」に改名しました。

捨松たちは皇后に拝謁。

アメリカで学問に励み
帰国後は

婦女の模範になるようにとの
言葉がかけられました。

国家の使命を背負っての
留学だったのです。

明治4年11月12日。

捨松は人生のリスタートを切るべく
アメリカへ出発します。

まず到着したのは サンフランシスコ。

かわいらしい少女たちは
大歓迎を受けます。

しかし 言葉も通じず習慣も違う
慣れない異国での暮らしに

年長の2人の少女は体調を崩し
半年で帰国。

捨松と津田梅子 永井繁子の

3人が残りました。

3人の少女は
別々のホストファミリーの家庭で

新生活を始めることになり

捨松は東部コネチカット州
ニューヘイブンに向かいます。

独りぼっちになって
新たな試練の始まり… かと思いきや

これが人生を切り開くことになるのです。

捨松のホストファミリーは

レオナルド・ベーコン牧師の
家族でした。

しかし どのような生活を
送っていたのかは

知られていませんでした。

そうした中 一人の女性が
留学時代の捨松に光を当てます。

久野明子さん。

捨松のひ孫にあたります。

久野さんは 捨松の足跡をたどるため

40年前に渡米。

ベーコン牧師が残した日記や手紙など

多くの資料を発掘しました。

1872年10月20日の日記にですね
ただ1行

「日本から女の子が我が家に来る」
っていうところを見つけた時

もう私は感動しました。

それまでの努力が報われた感じがして

思わず 捨松本人が
「よく こんな遠いアメリカまで

私を探しに来てくれたね」っていうような
声を聞いたような気がして

大変 感銘を受けたのを覚えています。

ベーコン牧師の日記や手紙には
捨松が多く登場します。

本当の娘のように愛され
生き生きと暮らす姿がありました。

毎日の英語とピアノのレッスン。

近所の友達との
楽しいピクニックやゲーム。

未知の暮らしは 人生の喜びを
教えてくれるものだったのです。

やがて 地元の高校に進学。

ここでも新たな未知の世界と出会います。

女性の社会活動でした。

(久野)アワー・ソサエティといって

町に住んでいる
貧困家庭の女性とか

困った子どもたちのために
いろいろな支援活動をしていて

町の人たちからも
非常に高い評価を受けていた。

つまり人のためにですね

そういった支援活動をしている姿を
初めて見て

びっくりしたんだと思います。

チャリティ? 女性だけの会。

一体どういう活動なんだろう。

捨松もアワー・ソサエティに参加。

おむつを縫ったり 子ども服を作ったり
寄付金集めをする中で

全く知らない人のために無償で奉仕する

ボランティア精神を学んでいきます。

更に ベーコン家の末娘で
2歳年上のアリスが

人種差別問題に取り組む姿に
衝撃を受けます。

ニューヨーク在住の作家
ジャニス・ニムラさんは

日本初の女子留学生に関する
出版物があります。

取材を通し 社会貢献には
さまざまな形があることに

捨松は気付いていったと指摘します。

彼女は戊辰戦争で
女性でも戦えることを知っていました。

ですから 女性も
社会に貢献できるという考えは

既にあったと思います。

…ということは
思いも寄らないことでした。

女性たちだけで
全く知らない人のために奉仕する姿は

新しい発見だったと思います。

1878年9月

捨松は家族同然に育ててくれた
ベーコン家を離れ

ニューヨークの名門女子大学
ヴァッサー大学に入学します。

物理学や生物学など
自然科学を多く専攻し

成績は常にトップクラス。

2年生でクラス委員長に選ばれ
リーダーシップを発揮し始めます。

更に 短期間 看護学校に通い
看護婦教育も受けています。

ジャニスさんは
学生時代に使っていたペンネームが

ストレンジャー
よそ者ということに注目しました。

…という捨松の意識が感じられます。

「よそ者」というのは 自分が阻害され
孤立しているという解釈もできますが

私は そう思いません。

彼女はアメリカ人に溶け込んだりせずに…

こんなエピソードが残っています。

卒業式で総代の一人に選ばれた捨松は

「イギリスの日本に対する外交政策」と
題するスピーチで

不平等条約に苦しむ日本の立場を訴え
多くの共感を得たといいます。

その様子は
海を越え

日本にまで
伝えられました。

そして 11年に及ぶ捨松の留学は
終わりを告げる日が来ます。

帰国に際し 捨松は
ベーコン家の末娘で親友のアリスに

こんな手紙を送っています。

捨松は教育で 日本社会に
貢献したいと考えたのです。

新たな世界の扉を開いていきます。

こちらが
捨松がアリスに送った手紙の複製です。

女子教育への夢を抱いた
23歳の頃のものです。

皆さんのお手元にも用意しました。

勢い そういったものから
何か感じることありますか?

そういう意味では何かすごく…

思いが強いというか
パッションのある方なんだなって。

軸があるというか ぶれない信念が
ある方なのかなっていうのは

すごく感じられます。
信念を感じる。

もう だって国家の使命を背負って
行かれてるわけですもんね 12歳で。

…で 11年ですよね トータル。

もう なみなみならぬ覚悟があって

戻ってきてるんじゃないかなって
思いました。

これって でも 例えば
10年行きますっていう約束のもと行って

途中で ちょっと
帰ってこれたりとかするんでしょうか?

いや それはない。

国費留学ですからね。 10年間っていう。

捨てた覚悟で でしたっけ?
帰りを待つ。

…で それで捨松と改名したって。

私 ちょっと母親目線で見ちゃいましたね。

11年 自分の子どもをって
なかなか耐えられない。

今 小学校5年生と1年生なんですけど。

梅子ぐらいの感じですよね。
そうです そうです。

今 じゃあ10年
ポッて出せるかっていったら

相当な覚悟が
必要なんじゃないかなって 親も。

しかも名前もね。
捨松。

親の気持ちとは裏腹に

捨松の向こうでの生活というのは
何か生き生きして。

生き生きして。
もう本当に。

何かもう まさに自分のステージが

ここにあるかのような印象は
受けましたけど。

大学に進学されるのも
そのホストファミリーの方から離れて

やっぱり ご自身の勉強したいことを
学んでるところとか

何だろう… すごく
やっぱ自立してるというか

自分の進むべき道を進んでいる感じは

すごく頼もしい感じはしましたけど。

鈴木さん 捨松もね

ライフチェンジをするのに
日本から外に出た。

これ もし出てなかったら
こうはならなかったんですか?

もう ひどい状態じゃないですか。

負け組で しかも世の中に出ても
もう何にもないですよね。

男の人だって
生きるの大変な時代なんですから。

だから やっぱり教育で新しい道を
ひらくっていうふうに考えた人は

男性も多かったんですよね。

だから 捨松のお兄さんも
同じ時期に留学してるんです。

この国費留学で。

それでイェール大学で理学博士になり
それで帰ってきてから

後には東京帝国大学の総長にまで
なった人ですから

そういう…

…っていうぐらいの気概で
行ってるんですよね。

ここでの知恵はですね…

捨松は 環境を変えてですね

人生の壁を
突破していったわけですけど

石田さんご自身
そうした経験というのはありますか?

実は 高校2年生の時に1年間

同じように
アメリカに留学をしてるんですけど

その時は本当に自分の意思だけで

国家から
国から何か命を受けたわけではなく

ただただ 自分が行きたくて留学しました。

私自身が やっぱり
それこそ未知の世界じゃないですけど

もう全てが新しかったんですよね。

当然 言葉 言語の壁もですし
文化の壁もですし

日本人の学生ですということしか
なかったんですね。

ただ アメリカに行くと

日本だと中学レベルの算数が
高校で習う感じなんですよね。

なので 全然 文系なんですけど
ものすごい天才だ! って言われて。

私は 中学校のレベルの問題を
解いてるんですけど

例えば じゃあ数学得意だねとか
そういう得意なことを

自分の日本人である
学生であるということに

プラス・オンしていくことで

何か こう
自分が出せるようになったというか

どんどんどんどん個性を見つけていけた
っていうのは経験上あります。

何か私 自分の人生を考えた時に

やっぱり ちょっと行き詰まったり
ちょっと飽きたりした時に

やっぱり変えてるんですよね
いろんな環境を。

それでいうと 20代後半の時に

やっぱり ちょっと
キャパオーバーになったのと

外から向けられてる自分と
思ってる自分のギャップに

すごくストレスを感じてしまっていて

なかなか整合性がつかなくなって。

ちょっと半年ぐらいお休み頂いて

ニューヨークに
ちょうど行ってたんですけど。

割と有名な いわゆる
名だたるハリウッド女優さんに

撮影の時に一緒についていって

メンタル的なサポートもするっていう
先生がいらっしゃって

とにかく その時は やっぱり

ここまで育ってきた環境の
トラウマの除去みたいなこと

3日間でコーチングして頂いて。

トラウマを取り去る?
やはり 表現していくには

とにかく自分の表現の
邪魔になっているようなものを

取っていかないと
あなたの本当の表現ができないよね。

どちらかというと
自分に目を向けるっていう作業が

私のやり方というか。

でも 自分を
知ろうとするっていうことには

これはどういう意味があると思いますか?

そうですね… 自分自身を知ることの
理由って何なんでしょうね。

それは でも結果的には

きっと社会に つながるんだとは
思ってるんですけども

今も そうなんですけど
どちらかというと

自分自身を知っていくことで

自分が幸せになって

周りが… それが広がればいいなという。

環境変えて よかったですか?

よかったですね。

純粋に経験値も増えますし

外から見た自分っていうものが
やっぱり客観的に…。

何者かと思ったけど

何者でもないなみたいなところも
ありますし。

そういう気付きがあるんですか。

一方で捨松は 自分のためというよりかは
何か強い使命感みたいなものを

石田さん 感じませんでした?
感じましたね。

でも今 本当に現代と重ね合わせてみると
自分の自己実現のために

どう生きるかっていうふうに選択する人も
もちろんいますし

一方で 何か
自分のやりたいことだけじゃなくって

社会に どう貢献していけば
いいのかっていう

その社会貢献意欲が
特に本当にZ世代とかα世代とか

若い世代って
とても多いなとも感じますし。

今の若い人に
そういう感じが出てきてるんですか。

すごく感じます。

明治の人っていうのは 新しい近代国家を
作るんだっていう感じで

どうにかして 自分は
国のために役立ちたいとか

何かやれることはないかっていうふうに

考えた人が多かった時代だと
思うんですよ。

でも 今また
そういう感じになってるっていうのは

すごい うれしいですね。
そうですね …と思います。

じゃあ 帰国したあとに
今度 捨松たちがどうなっていったのか

ご覧頂くことにしましょう。

明治15年 捨松は帰国。

11年ぶりの家族との再会も果たしますが

すぐに 大きな壁に直面しました。

帰国後の捨松の悩みをうかがい知る資料は
ひ孫の久野明子さんが発見しました。

度々 アメリカの親友
アリスに送っていた手紙です。

その発見した
40通の手紙の内容が

また私が思っていた
捨松のイメージを一変させました。

日本に帰国して10日後の手紙です。

捨松は帰国後 文部省に出向いていました。

どうして お仕事を頂けないのですか。

男子留学生が帰国後 大学や官庁に
ポストが与えられる一方で

同じ国費留学生の女性には
何の仕事も用意されていなかったのです。

実は捨松が留学した直後の明治5年
政府は学制を発布。

女子は 良妻賢母を目指す教育が
主流となり

旧態依然の社会に逆戻り。

焦りとか心の悩みっていうのを
満足に日本語で書けないし

もちろん 捨松は日本語も

あまり 帰国当時は
しゃべれなかったようで

アリスには 英語で
自分の気持ちを打ち明けられる

たった一人の
心の友だったんだと思います。

更に もう一つ 悩みの種が…。

捨松さん ちょっといいかしら?
はい。

先日お話しした殿方たち どう?
ちょっとまだ…。

結婚です。

24歳だった捨松は
当時の日本では 売れ残り。

結婚していないというだけで
一人前に扱ってもらえません。

自分の意思で人生を選べない もどかしさ。

そこで 捨松が見いだした知恵とは…。

そんな折 捨松に
熱心に求婚する人物が現れます。

陸軍卿 大山 巌。

先妻を亡くし 3人の娘がいました。

ちょっと 「ガマ坊」っていう
あだ名があるぐらい

あんまりハンサム イケメンではなくて

しかも 18歳も年が離れてますよね。

ですから
それが私の長い間の疑問だったんです。

それで
アリスに書いた捨松の手紙を読んで

納得っていう感じがしたんですね。

考え抜いた末 結婚を決意します。

その現状に ぐじゅぐじゅ言って
不平を言っているだけではなくて

じゃあ今 自分の置かれた立場で

どうしたら留学生としてのね

いろんな責任と義務を果たすことが
できるかっていうことを

即現実的な考え方で解決したんだと思う。

それが結婚だったんだと思います。

捨松は アメリカでの経験を
日本の社会で生かそうと自ら動きます。

最初の舞台は 鹿鳴館。

明治政府が欧化政策のために建てた
外国人接待所です。

洗練された立ち居振る舞いと
流ちょうな英語を話す捨松は

瞬く間に鹿鳴館の華と
称されるようになります。

捨松は決して人々の注目を
集めたかっただけではありません。

女性の地位を向上させるためには

まず 政府高官の夫人同士の
コミュニケーションが必要だと

考えていたのです。

ある時 夫人たちと病院を訪れ

病人の世話をするのは男性ばかりで
女性がいないことに気付きます。

「看護婦の養成所が必要」と
院長に詰め寄りますが

「資金がない」と断られます。

すると捨松は 資金集めのために
上流階級の夫人たちに声をかけ

チャリティを企画します。

あのニューヘイブンの
アワー・ソサエティの経験を生かし

ボランティア活動を始めたのです。

お友達に声をかけてみるわ。
(一同)そうね。

鹿鳴館で日本初のチャリティバザーが
開かれました。

3日間で およそ1万2, 000人の
入場があり

当時のお金で
8, 000円もの収益を上げます。

このお金をもとに 日本初の看護学校

有志共立東京病院看護婦教育所が
設立されます。

この時 看護婦の制服に採用されたのが
欧米の看護服。

実は 洋装の制服にも
捨松の影響があったといいます。

医療用ユニフォームを
研究している 庄山茂子さん。

職業服を洋装にすることは

女性の自立のシンボルの
意味合いもあったといいます。

…大山女史らの思いが
強く反映されていたと思います。

いわゆる
今でいいます 男女共同参画ですね。

そういうものを強く支援してきた

最初の女性ではなかったかと。

明治37年 日露戦争が始まると

捨松たちは 戦争未亡人や
孤児への慰問や寄付

無料の託児所を作るなど

さまざまな
社会奉仕活動を行います。

若き日の夢だった

女子教育の向上に挑戦することも
諦めませんでした。

伊藤博文の依頼で
華族女学校の設立に尽力。

更に 留学仲間 津田梅子が創立した
女子英学塾の資金集めに奔走。

学校の顧問に就任します。

親友 アリス・ベーコンを

教師として日本に招くことも
実現しました。

捨松は 人生の最後まで

自分の置かれた立場で できることを
実行していったのです。

仲間や理解者を増やしながら

人をつなぎ

困難を乗り越えていったのです。

旧態依然より更に後退してる
女性のって…

ちょっと本当 その言葉だけでも
何かこう ちょっと恐ろしい状態ですよね。

外で アメリカで
いろんな経験をされてきた彼女が

日本に帰った時の
そのギャップっていうのは

本当に がく然とする状態だったのかなと。

100年ぐらい違いますよね
多分 アメリカと。

そうでしょうね。

最初に女子留学生を募って
行かせるっていう発想も

すごいと思うんですけども

北海道開拓使っていうのがあって

その開拓次官だった黒田清隆が

アメリカの西部開拓を

模範にしようと思って行ったら

もう向こうは女の人も
すごい活躍してるわけですよ 西部。

男と一緒に。

それに ものすごく
いたく感動したらしいんです。

これは女も入れなくちゃっていうんで
男女の留学生を募集したんですよね。

だけど 北海道開拓は
国家事業でやったら

もう放漫財政で
ものすごい お金がかかっちゃって

結局は黒田は失脚する。
それで開拓使も廃止になって

民間がやるっていう感じの形に
なったもんですから

開拓使そのものは
なくなっちゃったわけですよ。

だから それが残っていれば

捨松たちの生かしようも
あったんじゃないかなと思うんですけど。

何のために行ったんだって
なるでしょうね。

そうですよね。

女性が活躍できる受け皿というのは

もう そこにはなかった?
全然ないですよ。

だから 女学校が
本当に出来るっていうのは

華族女学校がやっと出来て

それから全国に9校ぐらい
出来ていくっていうか。

でも みんな良妻賢母の女学校ですから

ちょっと梅子も捨松も
この教育じゃ自立できないって 女性が。

それが すごくあったんですよね。

それで やっぱり
富国強兵が叫ばれる中で

優秀な人材を産み育てるっていうのが

女性の役割だっていうような感じに
方向転換していくんですよね。

何の風向きなんでしょうかね それは。

だから本当に逆行しちゃった。

今の話を聞く限りで言うと
もちろん時代は変わってはいますけども

ちょっと今も何かあるように…。

あるじゃないですか!
女性の政治家が こんなに少ないとか。

いろんな感じで。
だから延々と続いてますよ。

そこで この知恵を
見ていきたいんですけれども…

やっぱり自分の武器っていうんですかね

その武器を分かった戦い方だなと。

その留学での経験を生かすっていうのも
もちろん ありますけども

女性ならではの視点とか

自分だからこそ できるポイントを
ちゃんと武器として生かしながら

社会に何か変化を起こしたいっていう

気持ちでいたんじゃないかなっていうのは
すごく感じましたけどね。

無意識かもしれないけど 結果的に見ると
すごい戦略家だと思うんですよ。

でも 戦略を練るっていうのは

合理的な生き方かもしれないですよね。

むやみやたらに
女だから どうのこうのとか

権利があるんだって言ったって
通用しない人には通用しない 正直。

意味が分からない人には分からない。
じゃあ どこで戦略を練って

どうやってプランを立てて
やっていくかっていうのって

正直 ちょっと体力が
もう そこまでないんで…。

(笑い声)

やれることをやっていこうと
思いますよね。

やっぱり 結婚してないってことが

社会的に認められないってことが
大きいですよね。

だから 大山 巌を選んだのは

やっぱり社会的な地位もあり
そして 本人とデートをしてね

その本人の人間性を確かめて
結婚してるんですよ。

だから そういう部分でもね
本当に ちょっと違う。

戦略家ですね。
それも戦略ですよね。

そうなの。 自分を生かせるものは
何かっていう感じをね

考えてたんだろうなと思います。

そして 取り組んでいったのが
日本初の看護婦の養成所ですとか

ボランティア 無料の託児所も
作ったということですけどね。

日本赤十字社の設立にも
貢献したみたいですしね。

捨松って あれですよね
自分の幸せのため

自分がやりたいことが

それが社会のためにもなるって信じて
動いてたと思うんですけど

それって本当に現代にも
通ずる部分だとは思うんですよね。

会社もパーパス経営とかって
よくいいますけど

その存在意義を 個人も会社も求めてる。

何でかっていうと

やっぱり企業経営って
自社の自分のことだけ考えて

自社の利益を追求していくだけだと

もう 企業って発展しないと
思ってるからなんですよ。

多分 その自社の利益の追求と
プラスアルファで社会貢献

社会課題を解決するっていう動きを
共存させて

その中で事業機会を創出していくことが

それが ひいては企業の持続的な成長に
つながるって思ってるんで。

私自身はですね
やはり自分の発信することとか

作り出すものっていうものに対しての
影響力っていうのは すごい考えますね。

女性が 女性がって言うと
ちょっと この時代

もう女性とか男性って区別つけるのも

もう ちょっと違うのかなとは
正直思うんですが

やはり 女性であるってことの
閉塞感って否めない

まだ現実があると思うんで…

…というのは すごく強く思っていて

自分のできるところでいうと
やっぱり そういうことは

すごく表現していきたいなっていうのは
思ってますね。

今 下着とかも
出させてもらってるんですけど

そういうメッセージを込めて
作ったりとかもしてるんで。

その下着でメッセージを込めるというのは
どういうことですか?

プロダクツを作る時に

そういうメッセージも
一緒に発信させてもらってるっていう。

思いのほか やはり買って下さる方が

拾って下される時代が
やっぱり このSNSの時代で

言葉も一緒に受け取ってくれてるな
っていう実感は正直あるので

そういうのは続けていきたいと思う反面

じゃあ それを続けるために
自分がもっともっと

やっぱり勉強しなきゃ
いけないことってあるなって

結構 実はプレッシャーもあります。

プレッシャーもある。

先ほど長谷川さんも
おっしゃってたんですけど

女性 女性っていうことでも
ないんですけど

ただ その女性の活躍を
推進していくということに関して言うと

何か 今までで言うと

女性が ライフステージの変化があっても
就業を継続できるような

働きやすい環境を
提供するっていうことが

多くの企業が取り組んでいることだと
思うんです。

福利厚生 充実させたりとか。

…なんですけど
私たちは 働きがいっていうんですかね

もっと その個人の意欲とか能力を

生かせるような機会を提供して

働きがいを感じてもらうということに

かなり注力をしてやっていたりしますね。

働きがいが大事ということですね。
そうですね。

働きやすさも大事なんですけど
働きがいが

とにかく重要かなと思ってます。

何か だから次のフェーズに来てるなと
思います やはり。

出産して産後復帰した時に

いわゆる 時間の調整がつくとか
そういうことじゃなくて

楽しんで仕事 意欲的にっていうのは

やはり 女性が すごい活動的に
とりあえず働けるとか

家事と育児 両方こなすとか

そういうレベルじゃないとこに
来てるんだなっていうのは

すごく うれしい。
本当ですね。

やはり自分に置き換えても
挫折というか 失敗とか

苦難があって
そこで学ぶことが すごく大きいんで。

捨松が本当に根を張って

くじけず 前を向いて生きていく様も
あると思うんですけど

多分 すごい風当たりも
あったんじゃないかなと思うんです。

だから 挫折なく
スッとポストを与えられてたら

違った捨松になってたでしょうね。
きっと日本に帰ってきて。

…にしても
相当メンタルが強い方ですよね。

強い人ですね。
メンタルが強い。

メンタルは強いですね。 本当に。

それも しなやかに
メンタルが強いって感じですよね。

女性の いわゆるお手本ですよね。

針金のように
曲がるけど折れないみたいな。

何か本当に すてきな女性の在り方だと
思いますけど。

36年にわたる
アリスへの手紙は

これが最後となりました。

翌1919年 捨松は

病気で女子英学塾塾長を辞任した

津田梅子の後任探しに奔走します。

後任を決定した直後 病に倒れます。

当時 大流行していた
スペイン風邪に

感染したのです。

60歳で急逝。

日本でも外国でも環境を恨まず

挑戦を続けた大山捨松。

社会の風当たりに心折れず

逆に新たな風を呼び起こす
捨松の知恵です。

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