出典:EPGの番組情報
英雄たちの選択「将軍か 執権か 鎌倉幕府・北条氏の戦略」[字]
鎌倉時代、北条氏中心の幕府政治を確立した5代執権・北条時頼。熾烈な権力闘争を乗り越え、武士のあり方を根底から変える政策を実行した。時頼、その知られざる実像とは。
詳細情報
番組内容
いま注目を集める北条氏。鎌倉時代、将軍の後見役「執権」として、事実上幕府トップに君臨した一族だ。その北条氏中心の執権政治を完成させたのが、義時の曾孫、5代執権の北条時頼だった。だが、その過程で北条一族の内紛と権力闘争が勃発。時頼は危機を乗り越え、武士のあり方を根底から変える政策を実行する。民を慈しむ「撫民」政策、そして禅宗への帰依。武士を統治者に転換させようとした時頼、その知られざる実像に迫る。
出演者
【ゲスト】真山仁,細川重男,山口真由,【キャスター】磯田道史,杉浦友紀,【語り】松重豊ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
テキストマイニング結果
ワードクラウド
キーワード出現数ベスト20
- 時頼
- 将軍
- 幕府
- 御家人
- 北条氏
- 執権
- 鎌倉幕府
- 自分
- 武士
- 頼朝
- 鎌倉
- 朝廷
- 三浦
- 親王
- 頼経
- 宮騒動
- 北条時頼
- 印象
- 義時
- 京都
解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)
坂東武者の世をつくる。
そして その てっぺんに北条が立つ。
今年の大河ドラマ
「鎌倉殿の13人」の主人公 北条義時。
将軍を補佐する執権として
頼朝が開いた鎌倉幕府を支えた。
義時は 朝廷との戦い
承久の乱を制し 幕府の優位を確立した。
その およそ25年後
北条氏中心の執権政治を
完成させたのが
義時のひ孫 北条時頼である。
だが その過程で
北条一族の内紛と権力闘争が勃発。
時頼率いる鎌倉幕府は
大きな岐路に立たされる。
時頼は いかにして
幕府の危機を乗り越えたのか。
…という印象を受けますね。
闘争をくぐり抜けた時頼は
武士の在り方を
根底から変える政策を実行する。
ここに「撫民の計」
というふうに出てきますね。
室町幕府 江戸幕府と続く…
…というふうに私は考えています。
後世 理想の統治者とうたわれた時頼は
日本各地を巡ったという伝説にもなり
長く語り継がれることになる。
スタジオでは 時頼の数奇な運命と
日本史に与えた影響を徹底討論。
鎌倉幕府成立から およそ50年。
5代執権 北条時頼の選択に
幕府の行方 武家政権の未来が
のしかかる。
♬~
皆さん こんばんは。
こんばんは。
歴史のターニングポイントで
英雄たちに迫られた選択。
今回は 鎌倉幕府5代執権
北条時頼が主人公です。
大河ドラマ
「鎌倉殿の13人」の主人公
北条義時の
ひ孫にあたる人物なんですけれど
磯田さん どういう人なんでしょうか。
うん。 やっぱり大河ドラマで
注目の北条氏なんですけど
時頼 見たいですね。
おお~。
後世 武家徳目のチャンピオンみたいに
言われたこともある人のように
感じていますね。
しかし この人物像 本当は宣伝のためで
加工されてないのかな
という気もしますね。
ただ 実体はどうなのかというのは
この番組で見ていきたいんですけれども
時頼が執権になったのは
鎌倉幕府が出来て もう50年たった頃。
執権政治の曲がり角と
いわれる時代ですね。
徳川幕府に例えるならですね
さあ 8代将軍 吉宗のような立場かな
なんて
江戸時代史をやっている私なんかは
想像しちゃうんですけど。
ただ この時頼の時代に
はっきりしたのは
幕府が誰のものかというか…
それでは
時頼の執権就任の経緯と
就任早々に襲いかかった事件を
ご覧いただきます。
(拍手と歓声)
武士の都 鎌倉。
源 頼朝によって 日本史上初の武家政権が
この地に誕生した。
ところが 頼朝の直系は
3代将軍 実朝の暗殺で
途絶えることになる。
この時 頼朝の妻 政子と
2代執権 北条義時姉弟は
次の将軍に皇族の皇子を望んだ。
だが 朝廷はこれを受け入れず
代わりに 天皇を補佐する
摂政や関白を担う摂関家
九条家の男児が鎌倉に入った。
後の九条頼経
鎌倉幕府初の摂家将軍である。
幼い頼経を将軍に戴き 政子と義時は
北条氏を中心とした政治を推進。
将軍に仕える御家人たちのリーダーの
地位を確立していく。
義時の後を継いだ 3代執権 泰時の時代
北条氏の力は皇位継承にまで及んだ。
幕府に敵意を持つ皇族を排除し
北条氏と縁戚関係にあった
後嵯峨天皇を擁立したのだ。
しかし 北条氏を思わぬ不幸が襲う。
泰時の嫡男 時氏
更に その嫡男で
4代執権の経時が
若くして亡くなったのである。
その結果
次男ながら執権に就任したのが
まだ二十歳の時頼だった。
鎌倉幕府5代執権 北条時頼。
この木像は
鎌倉時代に作られたものだという。
鎌倉時代の作品で
北条時頼が亡くなってから
あまり時を経ずに
作られたと考えられてます。
鎌倉時代の作品は 写実性を
追求するところに特徴があるので
このお像のお顔も 生前の時頼のお顔に
非常に近いと考えられます。
北条時頼を研究する高橋慎一朗さん。
高橋さんは 時頼の執権就任は
大きな問題をはらんでいたと見ている。
名越朝時という人だったんです。
どちらかというと
本来 本流としてなるべきなのは
名越氏であるというふうに
思う人たちも当然いたはずです。
そうしますと
時頼の方に流れが行くことについて
同じ北条氏の中でも
名越氏という一族などは
大変不満に思っていたという
ことが考えられますね。
名越氏ら反時頼勢力は
九条頼経をよりどころとした。
この時 頼経は既に将軍の座を
息子の頼嗣に譲っていた。
だが 前将軍として
北条氏に代わって
幕府の実権を握ろうと
野心を燃やしていた。
頼経のもとには 名越氏のほか
三浦氏などの有力御家人が結集。
彼らは 時頼政権を転覆するため
謀議を重ねた。
鎌倉幕府の歴史をつづった「吾妻鏡」。
そこには
当時の様子がこう記されている。
時頼の執権就任から
僅か2か月足らずで
鎌倉を不穏な空気が支配した。
甲冑を着けた武士が
街にあふれたのだ。
5月24日 ついに時頼は
敵対勢力を抑え込む行動に出た。
宮騒動と呼ばれる事件の勃発である。
時頼は 鎌倉中心部の構造を
巧みに利用し 迅速な対応を見せた。
中世史を研究する 大澤 泉さんに
現場を案内してもらった。
この若宮大路は鎌倉の 今も
メインストリートなんですけれども
やはり鎌倉時代も同じように
メインストリートだったと考えられます。
今いるのが
この二の鳥居の場所になります。
で ここをずっと北上していきますと
将軍の御所があって
横から入る道は
非常に少ないですので
この中の下馬橋の
この二の鳥居の場所を通って
御所に行くというのが
通常のルートになります。
北側は もう北条邸がありますので
やはり こう ここを抑えるためには
北はよしとして 南をどうするかとなると
この 今いる 二の鳥居の
中の下馬橋と呼ばれる場所が
ポイントになるということになります。
若宮大路を御所のあった方向に向かった。
今 若宮大路を
北に歩いていますけれども
この右手辺りですね
東にあたりますが
この辺りに
将軍の御所があったというふうに
考えられています。 で その北側に
北条氏の屋敷があったと
考えられています。
北と南を抑えることによって
まあ この御所と北条邸
この場所を守っていくといいますか
管理していく。
時頼は将軍御所への
経路を封鎖し
頼経を孤立させた。
…という印象を受けますね。
やはり あの 直接的な混乱を避ける…
将軍御所周辺を制圧した時頼は
次の一手を打った。
頼朝以来 幕府に仕え
強大な軍事力を持つ 三浦氏の当主
泰村を味方に付けたのだ。
時頼の周到で機敏な采配により
クーデターは大きな流血なく収束した。
首謀者の名越は
所領のほとんどを没収された上
流罪に処された。
更に時頼は 前将軍 九条頼経も
鎌倉から追放し 京都に送り返した。
幕府の中枢から
敵対勢力を駆逐した時頼は
執権就任直後の危機を乗り越えた。
しかし
試練はまだ終わったわけではなかった。
時頼が執権就任直後に
クーデターが起こりますが
時頼は無事に収めることができました。
今回も各界から
ゲストの皆さんをお迎えしています。
よろしくお願いいたします。
(一同)よろしくお願いします。
皆さんに 時頼の
印象を聞いていければと思うのですが
まずは 法律家の山口真由さん
よろしくお願いいたします。
お願いします。
どうでしょう 時頼とは。
私の時頼さんの印象って
よくも悪くも
気の小さい方っていう印象があります。
繊細だけど
一方で用意周到で
それから やっぱり
自らの正統性の
根拠に対する
ある種の かつえを
感じるというか
ある意味 鎌倉第二世代じゃないですか。
おじい様の泰時さんまでは
頼朝を直接知っていて そことの関係で
正統性の根拠があったけれども
時頼さんの代から急速に その…
えっ どうして 僕 執権なんだっけ?
ってう感じがして…
…っていうところが 私は時頼さんの
すごく印象に残ったところです。
そして 続いて
中世史がご専門の細川重男さんです。
よろしくお願いします。
時頼が執権に就任した時って
これはどういう状況だったのか
教えていただけますか。
まず 執権ってものなんですけど
すごい政治的な指導者であったとか
あと御家人の筆頭とかいって
政治力が
随分あったと思われがちなんですけど
役職としての…
泰時が作った 評定っていうのが
鎌倉幕府の このころの最高議決機関
最高会議で…
評定のメンバーは
評定衆っていうんですけど
その中の一人っていうふうに
考えればいいんです。
それで 泰時は 息子が死んじゃったから
孫が継いだけど 孫も死んじゃって
それで 弟の時頼がなったということで
執権という立場も どういう相続法がって
決まっていないところで
そういう立場の人になっちゃったから
立場弱いんですよ。
なるほど 立場が弱いんですね。
小説家の真山 仁さんは この時頼に
どういう印象をお持ちですか?
そうですね。
多分 今日はリーダーシップが
キーワードなんだろうなと
思うんですが。
この宮騒動を見ていると
とにかく隙はないし 精緻に
きれいに処理をするのを
見ていると
カミソリっぽい
タイプですよね。
カミソリって
トップになれないんですよ。
すぐ折れるんで。
ナタみたいな人が
トップになるのが
器としては
一番いいんですよね。
今の この段階で見ていると
彼は その いわば副官っぽい
隙のなさの
カミソリ的な切れ味の
リーダーとしての片鱗は
感じるなと思いました。
宮騒動ありましたけれど 磯田さんは
これを どのようにご覧になりましたか?
北条家っていうのは いっつも
何とか騒動 いつも勝つんですけど。
(笑い声)
上手な理由は何だろうと思うんですけど
まあ 僕はよく「地獄耳に千里眼の北条氏」
って言うけど
恐らく 反乱の兆候を捉える
耳とか目とかが早いっていうのが
忍びでも入れているんですかね。
早いですね。
あと 大事なものの
クーデター対処の順番が正しいですよ。
どういうことかっていうと 逆に言うと
北条を倒そうとする側が
どうして そうしないのだと
思うんですけど。
大抵 鎌倉時代に
負けている豪族たちっちゅうのは
仲間内をたくさん集めようとして
多数派工作から入る。
そうすると
軍勢集めるうちに嗅ぎつけられて
将軍を確保されて それで…。
何せ将軍の家の隣に住んでいますから
北条は。
だから どっかへ北条が出かけた時に
バッと襲っちゃうとか
そういうことで やっつけておいて
同時に将軍の御所に乱入して
今 北条討ち取りましたって言って
それで それからたくさん地元から
軍勢を呼び寄せるとかいうような
ことをやった豪族というのは
あまり見かけないんですよね。
そういう中で
特に正統性が 義時っていうのは
すごく偉いと思われてる
北条家の中で ひ孫ですよね。
まだ孫が残ってる中で 一世代
やっぱり下った自分が若くてね
やるというのは
なかなか つらかったところへ
うまいこと反乱が
騒動 起きてくれたので
返り討ちにしてやれと。
こうやって確立していくんだな
というふうに思いますね
権力をね 時頼はね。
だから 決断力があった。
つまり もしかしたら
戦いになっちゃうかもしれないと。
それでもいいから そっちがやる気なら
こっちもやるよっていうふうに言って
それで そしたらば
相手方が腰砕けになったと。
それは どうして
腰砕けになってしまうんですか?
頼経のもとに集まった連中で
名越は 執権になりたい。
三浦は 執権いらん。
北条氏 全部片す。
っていう だから もう
先の見通しが全然違うんですよ。
目的が違うんですね。
そう。 だから 烏合の衆で
足並みがそろわない。
そこに 時頼はつけ込んだ。
それで
「やるのか こら!?」となったわけです。
そこも読んでたっていうことですか?
時頼 読んでいたでしょうね。
その辺はね なかなか リーダーの器が
若いうちからあるんではないかと。
そうですよね。
結局 集団指導体制と
今 言われるような状況の中で
一応 肩書だけ 議長というか
事務局長やっているわけですよね。
若いっていうことは
なめられるわけで 当然。
となると
自分がなめられないようにするには
やっぱり これしかない。
だから よくそれを行動できた。
この鋭さと行動力は… もしかしたら
若さ故なのかもしれないですけど
そこは
やっぱり すごいなと思いますけどね。
私はどちらかというと
果敢な行動者っていうよりも
むしろ 薄氷を踏むような思いで
20歳で執権になってしまって
常に 常に もしかしたら自分の権力が
脅かされるかもしれないっていう
そういう気持ちがあって
彼は どちらかというと
私はロジスティックスと
心理戦の天才だなと思うんですけど
武力で正面衝突 ガンってするよりも
人と人とを分断していく。
武力を見せておいて
やる気をなくさせて 最後はもう
三浦の泰村さんとかまで
抱き込んできちゃって
もう知らないうちに 戦わないうちに
もう身ぐるみ剥がされて
名越さんとかが もう
どうしようもなくなっちゃう みたいな
戦いすら させてもらえないような
心理戦の天才だなというふうに
思いますね。
そうなった方が勝ちですもんね 本当に。
そんな時頼に 更なる試練が訪れます。
宮騒動の翌年 宝治元年3月。
鎌倉を天変地異が襲う。
由比ヶ浜が
血のような赤色に染まり
その翌日には
巨大な流星が音を立てて飛んだ。
更に 黄色い蝶の大群が市中に充満し
人々は 不吉のしるし
戦乱の予兆と
うわさした。
そんな中 時頼の母方の祖父
安達景盛の怒りが爆発した。
景盛は 宮騒動で時頼に付いた
三浦泰村が
幕府内で勢力を誇っていることに
わだかまっていたのだ。
家柄としては 三浦というのは北条と並ぶ
御家人の中でも
かなり高い家柄を持っていた
ということは確かで
これに対して 安達が
不満を持つのはなぜかといいますと…
…はずなんですが
なぜか家柄としては
やはり三浦の方が格上
という扱いを受けていて
この辺が 不満に思う
原因だったと
いうふうに思います。 実際に…
この点で
安達は早く三浦の勢力を抑えて…
時頼に いちばん近いのは
どの家なのかという
そういう一種のメンツといったものが
関わっていた
というふうに考えられます。
時頼は だから
非常に難しい立場にあったわけですね。
緊迫する情勢を
「吾妻鏡」をもとに見ていこう。
時頼は戦を回避したかった だが…。
三浦泰村の弟 光村たちは
安達氏との合戦に備え
兵や武具を泰村邸に集めていた。
各地から集まった
三浦 安達双方の軍勢は
まさに一触即発の状況だった。
宝治元年6月5日未明。
時頼は事態解決のため
使者に文を持たせ
三浦泰村に改めて本意を説いた。
「幕府は三浦氏を討伐する
つもりがないことを誓う」。
泰村もこれに安堵したという。
しかし…。
使者が
泰村邸から時頼のもとに帰り着く前に
安達勢が攻撃を仕掛けた。
世に言う 宝治合戦の始まりである。
事態を知った時頼は
三浦氏から攻撃を受けると感じ
安達に加勢せざるをえなかった。
戦闘は一進一退だったが
北条勢は泰村邸の風下から火をかけ
一気に優位に立った。
三浦勢は屋敷を捨て
頼朝を祀る法華堂を
最期の地に選んだ。
宝治合戦は 三浦泰村 光村兄弟を含む
500人余りの自害という
壮絶な幕切れを迎えた。
三浦氏が滅亡した場所は
現在 源 頼朝の墓となっている。
こちらが頼朝のお墓でして
江戸時代に整備されたものになります。
もともとは 鎌倉時代には ここに
法華堂という頼朝を祀るお堂があって
当時 時頼をはじめですね
有力者たちは
年末に 頼朝たちのお墓を回って
お参りするというのが
恒例化していましたので 恐らく…
彼としては 三浦と直接全面対決して
最後に一族滅亡してしまうという
シナリオは
避けたかったと考えられますので
やっぱり
そこでは非常に悔いの残る結果に
なってしまったんじゃないかと思います。
「吾妻鏡」は 和平を探った
時頼の意に反し
安達氏の攻撃で
戦闘が始まったように記している。
しかし高橋さんは 三浦氏の背後に
この時も九条頼経がいたと考えている。
…ということが記述されておりまして
九条家と結び付いて…
それは 北条時頼が考える幕府の形とは
違っていたということになるかと
思います。
前年の宮騒動に続き
またしても政権の危機を脱した時頼。
これ以降
時頼は幕府の安定に力を注いでいく。
時頼は 思いに反して
三浦勢と戦うことになってしまいました。
まさかこんなことが起こるとは
という感じですか?
ある程度は
予想できたと思うんですけど
宮騒動が終わったあとの
講話の会議 手打ち式。
その時に
頼経を京都に送還するんですよ 時頼は。
そういう強硬手段を
時頼 またとったから
三浦の武闘派の光村なんかは
泰村の弟ですけど
やってやるっていう
もう決めたはずなんですよ。
三浦にとっても。
三浦としても。
じゃあ 逆に安達氏は
時頼の考えを分かっていたはずなのに
どうして戦いを…?
安達は安達で 執権である北条氏の外戚。
全く一致しないわけですよね
目指すものが。
時頼からすると
ずっと 彼らは いわゆる…
鎌倉幕府も50年たっているんで。
なのに 仁義なき戦い
されてるんですよね ずっと。
これは 京都から見たら
やっぱり それは暴力集団じゃないかと。
…にもかかわらず そんなことは
誰も思っていないっていうのが
この若者にとっては非常に…。
彼の理想を 多分理解している人は
ほとんどいないんじゃないですかね。
という気はすごくして
気の毒な感じはしますけど。
私は 思ったんですけど
時頼さんっていう人は…
本当に 本当に
戦争はしたくなかったけど
もし仮にこうなったら
ここを ロジスティックス
こうやって 止めて止めて止めて
こうやって 囲い込んじゃえば
いけるよねっていうのを用意していた
二面作戦を引いた人だと思っていて
私は そこに
彼の ある種の二面性を見るというか
その周到さに ある意味 戦慄しました。
細川さん。 時頼は中立の立場に
とどまることは できなかったんですか?
本人が。
そう。
つまり さっき
真山さんがおっしゃったように
僕の言い方で言うと…
だから 人殺しのハードルが
低いっていうか ないんですよ。
要するに 私的っていうのは…
異性が欲しい 食べ物が欲しい
地位が欲しい 安心感が欲しい
全部暴力に訴えるっていうのが
もう 中世武士の…。
在り方です。
在り方で。
だから貴族は怖いんですよね 武士を。
武士を怖がる。
そうか。
暴力装置は使うものなんですよね。
もとは貴族が使っていたわけですよね
暴力装置を。
ところが
鎌倉になって それを使える貴族は
ほとんどいなくなったはずなんですよ。
ところが 将軍に行ったおかげで
パイプ いっぱい持ってるわけですよね
頼経さんは。
これはもう 経営者でもそうだし
政治家でもそうですけど…
そういう意味では
どんどんチャンスがあれば
もう一回トップに立ちたかった
いかにも人間臭い人だと
思いますけどね。
よく公家たちが
明治に至るまで使うんだけど
「寸鉄を帯びず」と言うんですよ。
要するに
朝廷というのは 鉄を帯びていない
要するに 丸腰だって言うんですよ。
刀一本持ってない。
事実そうですよ。
だから やっぱり
その鎌倉幕府の暴力は暴力で
やっぱり ばかにはしてるんだけど
自分たちにも必要なものなんですよね。
それで 一回 その味を知ったら
もう頼経なんかでも
離れられるわけないっていう
ところですよね。
さあ 鎌倉の対抗勢力を一掃した時頼は
政治面で大きな成果を上げます。
ご覧ください。
宝治合戦で対立勢力を一掃した時頼は
幕府の改革に着手。
御家人たちの保護を推進した。
その最たるものが
裁判制度の改革だった。
従来 幕府では 評定と呼ばれた
有力御家人を中心とした会議が
全ての訴訟を審議していた。
時頼はその下に 引付という
審理の場を新たに設けた。
迅速かつ公平に裁定を下す
制度を整えたのだ。
承久の乱で御家人が
西国の方に行くようになったりとか
いろいろと
移動があったりしたこともあって
さまざまな裁判 御家人関係の裁判が
急速に増えるんですね。
それだけ裁判に関わる人物が
増えたということは
評定衆という閣僚たちですね…
さまざまな人たちが
くじによって担当を決める
というようなことも
行われていますので…
更に時頼は 一般庶民の訴えも
幕府が裁決する道を開いた。
これにより 御家人たちだけでなく
広く民の信頼を獲得していく。
だが そんな時頼の
足元を揺るがす事件が起こる。
宮騒動で
反時頼勢力に加担した残党による
謀反計画が発覚したのだ。
またしても 前将軍
九条頼経の策略だった。
謀反は未然に阻止され
捕らえられた者は
死罪や流罪の
厳罰に処された。
しかし 依然として
頼経の息子 九条頼嗣は
将軍として鎌倉にいた。
頼嗣が鎌倉にいる限り
また騒動が起こりかねないことを
時頼は憂慮した。
この先
どのように幕府を運営していくべきか。
時頼の心の内に分け入ってみよう。
京都に追放した先の将軍 頼経様は
いまだに
鎌倉の幕府を我が物にしたいようだ。
後を継いだ頼経様のお子 頼嗣様が
この鎌倉にいらっしゃる限り
我ら北条氏が取りしきる幕府が
いずれ脅かされるのは必定。
いっそ 頼嗣様も京都へ送り返し
新たな将軍を立てねばなるまい。
しかし 誰が武家の棟りょうとして
御家人たちを率いていけばよいのか。
将軍とは 武士を束ねる者。
ならば公家ではなく
武士がその座に就くのが
ふさわしいのではないか。
ここは 私が朝廷から
征夷大将軍を拝命し
名実ともに幕府の長となるのはどうか。
後嵯峨上皇は 元はといえば
我ら北条氏が祭り上げたお方。
私が御家人たちの信頼を
集めている今なら
朝廷も決して断れまい。
私が思い描いてきた
武士と民を共に豊かにする政治に
一層 力を注ぐことができよう。
しかし 鎌倉幕府は
頼朝様にお仕えした御家人たちが
支えてきたもの。
それは我が北条氏も同じ。
その秩序を壊し
北条氏が将軍になろうものなら
かえって いさかいの種となりはしまいか。
しからば 私は執権にとどまり
将軍には 九条家以上のお方を
お迎えするしかない。
とはいえ 九条家は朝廷で帝を補佐する
摂政を務める家柄。
それ以上となれば 天皇家の親王の中から
将軍を出していただくほかはない。
だが それは源氏が3代で ついえた時
尼将軍と呼ばれた政子様と
曽祖父の義時様も
望まれたことだったが
結局 実現できなかった。
果たして そのような申し出が
かなうものだろうか。
鎌倉幕府を盤石にするため
時頼は 重大な選択を迫られた。
時頼は幕政改革を進めて
求心力を高めましたが
特に 裁判制度の改革が大きかった
ということですけれど。
私 鎌倉幕府が本質的に 国会なのか
内閣なのか 裁判所なのかっていったら
結構 裁判所なんじゃないかと
思うんですよね。
御家人同士の紛争の
調停機関としての性格が
非常に強くて
土地を巡る争いがあった時に
それを公平に裁いてくれるっていう
理由で信頼されていって
だから 裁判所としての機能って
どんどん拡充されていくというか。
でも これって 私は
二面性があると思って
御家人に頼られる幕府
でも 時頼さんの方は御家人を…
御家人に信頼されたい。
でも 御家人を信用してない。
ここにも 私 時頼さんの二面性が
出ているなというふうに思います。
多分 この時の時頼って…
つまり 何かというと…
結局コネを使わない フェアなことを
ある意味 見えるように見せると。
くじ引きやるとか。
だから 文句が出るんですけど
文句が出ないようにすることによって
私はフェアなんだと。
権力は持ってるけど
フェアなんだと見せることによって
我々は 暴力集団から政治家への集団に
変わっていくんだということの
チャンスだと
彼は やっぱり思ってるんですよね。
ああ そうか。
本来 フェアなんか
絶対ありえないんですけど
そこを言うというところが
彼自身は やっぱり
政治家としては成熟してきているな
という気がしますね。
その制度改革などで
求心力を高めた時頼でしたが
またしても謀反計画を知り
選択を迫られることになりました。
まず 選択1は
自分が将軍になるという考えです。
そして 選択2は 天皇家から
親王を将軍に迎えるというものです。
さあ 皆さんが時頼の立場なら
どちらを選ばれるでしょうか。
真山さんは どちらにしますか。
はい。
私は2番の
親王を将軍に迎えるにしました。
将軍になるチャンスは
この時だったような気もするんですが
私は やっぱり リーダーの器
という視点から見るとですね
恐らく もし自分が将軍になったら
また 落ち着いた御家人が また
「何で お前がなるんだ」ということに
なるだろうと。
これは だから…
絶対的なバランスをとる人を
京都から呼ぶ。
だから 親王を迎えるというのが
よいのかなと思いました。
はい。 山口さん どうでしょうか。
私も2の
親王を将軍に迎えるにしたいと思います。
この時頼さんにとって
自らの正統性の根拠みたいなものは
生涯をかけて探求したところだと
思うんですけれども
幕府が 公平な裁判をするということで
御家人から頼られるようになって…
ここで 朝廷から…
かつ 幕府と朝廷というのが 一つ
和をもって調和しているようにも見えて
2つの二重体制みたいなものも
解消していくようにも見える。
東国だけだった幕府というのが
全国に拡大していく その基盤にもなる。
これは 彼の生涯にとって
一つの完成形というか
まさに目指したところに
近いんじゃないかなと 私は思ってます。
ということで お二人とも 2の
親王を将軍に迎えるですが
最後に 細川さんはどちらを選びますか。
あえて1 自分が将軍になる。
だから もう
全部終わらせるっていうことですよ。
これまでのもめ事は 全部終わり。
何で 征夷大将軍を目指すかとすれば
執権というのは 私のものなんですよね。
一官職としては 相模守とか
武蔵守とかってありますけど
似たようなの もらってる人
いっぱい いるから
やっぱり 特別な執権だったら これ
みたいなのを選ぶとしたら
征夷大将軍でしょうと。
朝廷側は
それを すんなり受けるんですね。
朝廷 このころ
大体 幕府の言うこと聞きますから。
むしろ大変なのは 御家人が納得するか。
そうでしょうね。
まあ そうでしょうね。
ここから ちょっとずるいんですけど…
鎌倉殿と分けるんですか 将軍と。
そうそう そうそう。 分離。
はあはあ はあはあ。
だから もともと頼朝は鎌倉殿なんですよ。
それで征夷大将軍になったんです。
だからね もともとね
御家人たちのご主人というのは
鎌倉殿であって その鎌倉殿が
頼朝以来 征夷大将軍に任官したんです。
だから 御家人たちのご主人は
親王様を迎えて 地位を確立と。
それでも
大変な反発があると思いますけど。
確かに… 将軍って何だろうと思って
僕が 学生時代 読んだのは
「沙汰未練書」というのがあって
鎌倉幕府の法律家の
勉強テキストっていうのがあって
そこに… あれは確か 意訳すると
頼朝以来 関東で政治をしていた人が
将軍になるとか
別に… 北条の資格を
除外する項目はないんですよね。
源氏じゃなきゃいけないとか
摂関家じゃないといけないとか
一行も書いてない。
だから 関東で政務をずっと…
政務沙汰をやってるっつったら
こんな家は ないわけで
むしろ的確かもしれない。
だけど 気になるのが
やっぱり さっきの 御家人が
言うこと聞かないっていう問題と
それとね 政治の体制として 何か…
…と思われてた
そういう箱なんだと考えると。
あと もう一つ この時頼にとって
次代の人たちにとって
すごく尊敬されてるのは
やっぱり義時なんだろうと思うんですね。
泰時も含めた この
おじいちゃん ひいおじいちゃんの2人。
ああいうふうになりたいと。
まあ要するに 官位と先例というのが
これまで やってきたことというのが
正当性の根拠ですから…
なるほど。
これが実現するということになったら
もうすごい
本人にとっては自己実現ですよね。
建長4年2月。
時頼は 自ら筆を執った書状を
使者に持たせ
京都の朝廷に向かわせた。
「将軍 頼嗣を解任し
後嵯峨上皇の皇子を
新たな将軍として
下向させていただきたい」。
時頼は 親王を
将軍に迎えることを望んだのだ。
朝廷は 時頼の申し出を受け入れ
後嵯峨上皇の皇子 宗尊親王の
鎌倉下向を決めた。
親王を将軍に戴くことで
幕府の権威は高まり
執権である北条氏の権力も
揺るぎないものとなった。
時頼は 次々と法令を発し
政策の充実を図った。
中でも注目されるのは
撫民と呼ばれる政策だった。
…を撫民政策というふうにいいます。
それは 祖父 泰時が制定した
御成敗式目に追加される形で発令された。
例えば 窃盗犯について。
「窃盗犯の親類妻子らを
処罰してはならない。
これに背くのは
『撫民の法』を否定するものである。
あるいは
農民の田畠を取り上げて追い出したり
財産を奪ったりする者があるという。
ひたすら『撫民の計』に努め
農業を推進するように」。
武士は もともと職業戦士 戦争を
専門とする人たちだったんですが
この時頼の時代 時頼の政策によって
初めて…
…ということが言えると思います。
それによって このあと
室町幕府 江戸幕府と続く…
…というふうに私は考えています。
そこで改めて…
時を同じくして
日本初の本格的な禅宗寺院
建長寺の落慶法要が執り行われた。
鎌倉五山第一位の名刹 建長寺。
この巨大寺院は 禅宗に深く帰依した
時頼の発願で建立された。
本尊は
全ての命あるものを救済するという
地蔵菩薩が祀られた。
建立の2年後に鋳造された
重さ 2.7トンもの重厚な梵鐘。
そこには 時頼の名が残され
信仰心のあつさを 今に伝えている。
(鐘の音)
建長寺の長尾宏道さんは 時頼の
禅に寄せる思いを こう考えている。
禅というものは
自分というものを見て 見直し
その中で…
時頼公は 多分 その禅の中に
人を思いやる心というものを
重要視して 今まで 庶民の方に
目がいってなかったものを
なるべく やはり…
相手を思いやる心ですかね
そういうものを
根づかせているんだと思います。
私は だから北条時頼公というのは
戦いは一切したくなかったと。
ただ結果的には たくさんの戦死者を
出してしまった 戦いで。
そういう人を弔う気持ちっていうのも
強かったんだろうなというふうに
思います。
(鐘の音)
あじさい寺として名高い
北鎌倉の明月院。
晩年 この地に
最明寺を建立した時頼は
ここで 静かに
息を引き取ったという。
37歳の若さだった。
二十歳で思いがけず執権となり
北条氏のため 幕府のため
激務に忙殺された 短い生涯だった。
時頼は 自ら
将軍になるのではなく
天皇家から
親王を将軍に迎えることを選びました。
本来 鎌倉幕府というのは
義時 政子の段階から
親王将軍を求めてたと言えば言える。
かつ 頼朝というのは
やっぱり 特別な人間なんですね。
もう この辺になると。
もともと
生きてる時から そうなんですけど
どんどん どんどん偉くなって
もう神様みたいになっちゃうわけですよ。
もう この段階では
アイコンと化してるわけですよね。
頼朝の存在というのは。
だから そうしたら…
うれしかったと思いますよ。
その体制が 一番
鎌倉幕府にとっても
合ってたんじゃないかと。
多分ね もうちょっと戦争好きなら
チャレンジしたかもしれないと
思うんですよ。 将軍になる。
うん 将軍に。 でも あんまり
好きそうじゃないじゃないですか。
それ考えたら…
だから 何か すごい…
そのための 内閣維持するためには
収まりやすい人が やっぱりよかったと。
もう これなら文句ないでしょうと。
…というところなのかなというのが
若いのに賢いなと思いますけどね。
親王を将軍に迎えた時頼ですけれど
積極的に 撫民政策を推し進めました。
細川さん この撫民政策については
どうやって考えたらいいんでしょうか。
それを なぜ武士に求めるか
ということですよね。
でも それはもう
古代 中世 武士の在り方を見れば
もう めちゃくちゃなわけですよ。
年貢を取れなければ人質取って
人質の耳そぐぞ 鼻そぐぞって
言ってるし
実際 だから
もう農民が暮らせなくたって
構わないんですよ。
もう欲しいだけ取るから。
だから…
だんだん それが下へ通っていって
いろいろありますけれども
江戸時代までいくと。
持続可能な
所領経営みたいなことを言って
そんなに取っちゃったら
もう人いなくなって
年貢取れないよって言われたら
リアリストだから
鎌倉武士も分かるんだろうと思う。
私も…
この中世の時代を勉強して
びっくりしたのは
思ったよりも その時の民衆というのが
流動性があって
土地に縛られてない人たちがいたし
もっとダイナミックで
賭博とかも やってたし
人を売り買いしちゃってる
みたいな時代だったのが
どんどん この時頼の…
この撫民っていうのは もちろん
民を かわいがったって
いい側面 あるんでしょうけれども
ある意味 農民というのを
秩序の中に組み込んでいって
統治システムというのは…
…っていう側面も
あるのかなと思いました。
ステップとして すごい感じますね。
時頼が。
うん。
山口さん 今回は 時頼の人生を
振り返ってきましたけれど
どんなことを感じましたか。
私は 時頼さんは
よくも悪くも
普通の人だなというふうに思ったので
源 頼朝とか織田信長に 私一切
シンパシーとか抱かないんですけど
ちょっと違いすぎるじゃないですか。
でも 時頼さんは普通の人で
何が普通じゃないかというと…
20歳で もう薄氷を踏むような思いで
オオカミのおりの中に入ってるから。
どんどん どんどん
自分の地位が上がっていっても
一度も踏み間違えることがなく
自分は こういう器の人間だということを
最後まで通した。
…というのは
ある種の清々しさを感じますね。
若い人は アイデンティティーって
言葉 好きで
ずっと 多分…
大人も みんな探してるんですよね。
大体 一番不幸なのが
自分が思っている私と
世間が期待してる私が違うことです。
それが すごい多い。
頑張れば 自分がなりたいものに
なれるって教えるんですけど
頑張っても なれないものは
なれないんですけど
時頼はですね…
だから 是非 この番組
ご覧になってる人が思うのは
思い込みではなくて…
…ということの方が 最終的に
特に最近 若い子
幸せに生きたいっていう子が
すごい多いんですけど
幸せ 定義できないんですよね。
幸せって何かというと
なりたい自分と期待されている自分の
どこかの
マッチングのポイントなんですよね。
だから ベストになって
人を蹴落として トップになると
もう これ虚しさしかないはずです。
だから 何か そういう意味では…
我々は こういう人を目指して
生きるべきなんだろうなと。
無理ですけどね。 無理なんですね。
我欲があるんで…
我欲があるんで難しいですけど
でも 一つの理想的な生き方なのかな
という気はしますね。
磯田さん
北条時頼を見てきましたけれど
どんなことを感じましたか。
何かやっぱり この人の辺りから
少しずつ ちょっと前の…
まず 禅宗に近づくというとこ自体が
やっぱり この辺りから
すごく急速になってくるんですけど
だって 禅宗って
足るを知るとか無欲じゃないですか。
だけど もともと 私利私欲 暴力
欲しいものは 実力で取る
みたいな人たちでしょ。
それで それが
時頼の頃 ちょっと出て
それから あと
南北朝の動乱に入って
大体 そうですね… 生類憐みの令の
綱吉が出るぐらいまでの400年間ぐらい
恐らく もう日本が 一番すさまじい
暴力のちまたに陥るわけだけど
でも それから復活してくると 武士が
上に対する欲度をなくすどころか
滅私奉公みたいな話になって。
武士って 本当は
私を滅して公に奉ずることではなくて
私利私欲のために 暴力を
使用することであったものがですよ。
…なるわけで そういうふうに。
何か ちょっと
長~い武士の歴史を考えた上で
やっぱり その階段を
何か一つ変えた人であることは
間違いないんだなというふうに
今日も聞いてて 大変勉強になりました。
皆さん 今日はありがとうございました。
(一同)ありがとうございました。
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