ファミリーヒストリー「野村萬斎~次世代に信念をつないで~」[解][字]…の番組内容解析まとめ

出典:EPGの番組情報

ファミリーヒストリー「野村萬斎~次世代に信念をつないで~」[解][字]

意外な事実が発覚!母方先祖も芸事が出世のきっかけになっていた。家康に仕え、一城の主に。狂言師としてのルーツは江戸時代の金沢城下にあり。かつての家業は酒造り!?

番組内容
父方のルーツは金沢市にあり。酒造りを営む家に生まれた江戸時代の先祖が、芸事が好きということもあって狂言師となる。その子孫たちは幕藩体制の崩壊や世界恐慌、戦争といった危機の中で狂言を守り、次世代へ伝えていく。母方の先祖をたどると徳川家に仕えた武将に行きあたる。曽祖父は県知事や名古屋市長を歴任。祖父は詩人で文学者の阪本越郎。教科書にも詩が掲載された。戦後は童話アンデルセンを翻訳し、子どもたちに届けた。
出演者
【ゲスト】野村萬斎,【司会】今田耕司,池田伸子,【語り】余貴美子

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化

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  20. 八十郎

解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)

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♬~

お参りなさりませぬか。

今日のゲストは この人
狂言師 野村萬斎さんです。

これじゃ ハハハ…。

何者じゃ。

狂言とは 日本最古の喜劇と言われ
室町時代から 受け継がれています。

萬斎さんは 幼い頃から
祖父や父と厳しい稽古を積んできました。

いいねぇ うん 行こう 行こう。

狂言という土台を大事にしながら

映画やドラマ 舞台など
幅広いジャンルで活躍。

失礼します。

自身のルーツには
強い興味を抱いてきたといいます。

いろんな人の いろんなDNAが重なって
今の自分があるっていうねことでいうと

どんな業種の人たちの
血が流れてるのかな。

やっぱり まあ 自分がどこから
来たのかっていうことは気になりますね。

今日のゲストは 野村萬斎さんです。
どうぞ。

よろしくお願いします。
お願いします。

(拍手)

どうぞ。
失礼します。

いや~ 萬斎さん
姿勢がいいですね やっぱ。

そうですか?
二度見しましたもん。

全然違うわね 歩いてる姿がやっぱり。
もう やっぱり 狂言ですね。

揺れないように動くね
習性がありますよね。

習性! いや~
萬斎さんご自身のルーツですけど。

今の心境は いかがですか?
結構 ドキドキするもんですね。

♬~

これは いかなことを。

狂言の一番の特徴は 「笑い」。

中世の庶民の日常が
題材となっています。

さあさあ 飲め飲め。

セリフが中心の劇ですが
表情や動きも駆使して

人間の普遍的なおかしさを
描き出します。

なんと あった?

ただ ひんやりとしたばかりで
何も覚えません。

この日 萬斎さんが演じていたのは
酒好きの太郎冠者という使用人。

味が覚えられないと とぼけて
何度も 酒をおかわりします。

ふ~。

今 覚えました。

萬斎さんの本名は 野村武司。

その先祖は
どのようにして 狂言と出会ったのか?

まずは 父方のルーツを探ります。

この書籍の中に 武司の曽祖父が

「自分は 金沢の生まれ」だと明かす
一文があります。

手がかりを求めて 石川県金沢市へ。

史料館に保管されていた
江戸時代の史料に

先祖の足跡が見つかりました。

名簿が
こちらの方にあるんですけれども。

文化8年 1811年の
金沢城下の町人の名簿です。

こちらですね 野村万蔵ということで

「狂言方役者」というふうに
書かれています。

万蔵は 代々 野村家で
引き継がれてきた名跡。

文化8年の先祖は
既に 狂言師になっていました。

もっと 昔の先祖は
どのようにして 狂言と出会ったのか?

そう話すと
新たな史料を紹介してくれました。

こちらは
「空翠雑話」という史料になります。

野村円平という国学者が書いた
史料になりますが

野村家の親戚筋にあたる家柄と
思われます。

遡れば 円平と万蔵の先祖は
同じ人物になるため

円平の方から 万蔵のルーツを
探ることができます。

これは 江戸時代の史料を
大正になって活字にしたもの。

冒頭で 著者の円平について
説明されていました。

「円平の一家は代々 次左衛門という
名前を受け継いできた」。

「酒造を 家業にしていた」。

「次左衛門」と 「酒造」
万蔵の先祖の姿が見えてきました。

史料には 更にルーツをたどる
手がかりもありました。

「八田屋」という屋号です。

向かったのは 金沢市八田町。

市内中心部から
およそ 10キロの場所にあります。

八田町にある 河北潟。

明治以前は ほとんどの人が
漁をして 生計を立てていました。

ここで代々 漁師をしていた
中村 明さんです。

これが 船。 こんな船なんです。

この カイというんですけど
このカイも 八田独自です ええ。

狂言の歴史を研究した人の文章に

野村家の先祖
次左衛門に関する記述がありました。

「次左衛門は 八田浦に過ごした」。

「横山家の五代は 漁が好きで

しばしば 領地付近の海で
魚漁をさせて楽しんでゐたが

折目正しい次左衛門の態度は
おのづから

他の漁夫たちとは
比較にならぬものがあった。

後の殿様御出漁の一行には
必ず 次左衛門が加へられた」。

すごい。 ご指名が。
ねえ。

加賀藩の重臣だった 横山家の主が
次左衛門を気に入ったというのです。

その縁もあり
金沢城下に移り住んだ 次左衛門。

「八田屋」という屋号で
造り酒屋を始めます。

同時に手がけたのが 「日傭頭」。

働き手に 仕事を紹介する
人材派遣のような役目で

参勤交代に帯同する人も
集めていました。

そんな八田屋に
享保7年 1722年に生まれたのが

次左衛門の次男 八十郎。

11歳の時 転機が訪れます。

「親類 相談の末 藝事の好きな八十郎を
狂言師にしようと

三代目 三宅藤九郎に預けた」。

三宅藤九郎とは
加賀藩お抱えの狂言役者。

実は この時 八十郎を役者へと導く
追い風が吹いていました。

代々 能や狂言を好んできた徳川家。

特に 5代将軍 綱吉は
大変な熱の入れようで

他藩にも 強く推奨します。

加賀藩は 外様大名ながら
百万石という大きな藩。

徳川家の目を気にし
普及に 力を入れました。

時の藩主 前田綱紀は
町人を役者に登用して

「町役者」と呼び 税を免除するという
優遇策を始めます。

当時 能と狂言は
セットで演じられるもの。

武士は 能の主要な役を演じ
それ以外に 町役者をあてたのです。

金沢の能楽の歴史に詳しい
西村 聡さんです。

町役者になった八十郎は
どんな人生を歩んだのか?

金沢市の史料館で
足跡が見つかりました。

元文4年 1739年 神社の祭礼に
奉納された 神事能の記録です。

17歳の八十郎が 「伯母ヶ酒」という
狂言を演じたとあります。

この神事能が行われた 大野湊神社。

江戸時代も
同じ場所に 能舞台があったといいます。

年に いっぺんの
一大イベントっていうふうな形で

町の人が こぞって
見物に来るものだったと思います。

すごい人気があったんじゃないかなとは
思われますね。

その後の
八十郎の記録も見つかりました。

こちらは 加賀藩士が
日々の政務ですとか 仕事ですとか

そういったもの
書き連ねたものになりますけど。

こちらですね。
八田屋万蔵の名前が出てまいります。

八十郎は ある時期から
実家の屋号をとって

八田屋万蔵と名乗っていました。

こちらの方に
「八田屋万蔵へ 白銀二十枚

中将様より 拝領仰せつけらる」
というふうに書かれております。

中将とは 前田家当主のこと。

万蔵は 町役者でありながら
極めて高い評価を受けていました。

こうして八田屋万蔵は
苗字帯刀を許され

「野村万蔵」を名乗ることになります。

これは 幕末の狂言役者たちの名簿。

八十郎の孫が 名跡を受け継いで
3代目 野村万蔵となり

狂言師をまとめる
「頭取役」を務めていました。

更に 加賀藩から扶持

つまり 給料をもらっていたという
記録もありました。

かつて 漁師として暮らしていた一族は

加賀の芸能のトップスターへと
飛躍したのです。

う~ん いかがでしょうか?

あの~ そうですね
よく調べられたなと思って。

調べましたよ~。
八田屋万蔵とかね

そういうところは
もちろん知ってたんですけれども

漁師をしてたというところあたりは
知らなかったですし

祖父 万蔵っていうのはね
釣りが好きだったんです。

へえ~。
へえ~。

うちの息子も割合
釣り好きだったりとかね。

みんな好きなんですね。
そういう系譜かとか 今…。

ルーツが。 釣り好きのルーツが。
ねえ ありましたね つながりが。

ありましたね。 でも江戸時代
このご先祖が 金沢の

お酒を造ってたところから
一挙に スターダムというか。

まあ やっぱり そういうね
我々 役者業というのは

そういう寵愛というと変ですけれど

チャンスがないと なかなか頭角を
現しにくいというのがありますよね。

でも 役者さん以前から

祖先の方 やっぱり大名に気に入られてる
みたいなの ありませんでした?

呼ばれてみたいな。
そうですね。

気に入られるということは
とてもね 才能かもしれませんね。

サービス精神がね きっと旺盛だと
それは 狂言にとっては重要な気がします。

加賀藩で町役者として活躍した 野村家。

しかし 明治に入ると 状況が一変します。

幕藩体制が崩壊すると
狂言の舞台もなくなり

藩からの収入も 途絶えたのです。

4代目の万蔵は 失意のうちに
30代の若さで亡くなります。

跡を継いだのは
武司の曽祖父にあたる 良吉。

五世万造を名乗り
父の無念を胸に刻みました。

そして7年後 21歳の時に

狂言役者を続けるため
東京に移り住みます。

当時 東京では 新政府の要人や富裕層が
能や狂言を楽しむようになり

全国から役者が集まっていました。

能や狂言を研究している
藤岡道子さんです。

良吉は 浅草の親戚の家に間借りし
舞台に出演する機会を探ります。

しかし 東京ではコネもない
ただの若手役者。

早くに父を亡くし 十分な稽古を
積めなかったこともあり

大した役は もらえませんでした。

良吉は 金沢で
つながりがあった役者や

他流派の役者にまで
頭を下げ 教えを請いました。

明治22年 良吉は 苦しい生活の中で
同郷の女性と結婚します。

明治31年には 長男 万作が誕生。

後に 六世 野村万蔵を襲名する
武司の祖父です。

苦労を重ねた良吉は
我が子に厳しい稽古を課しました。

当時 度々 口にしていた言葉が
史料に記録されていました。

この言葉に込められた思いを

良吉の孫 二世万作 野村二朗さんに
聞いてみました。

元気だな~。
90歳になられてるんですね。

松の木のように ねじれた

自分は そういう
苦労した苦労した芸であるから

せがれたちには
もっと スッとしたですね

要するに 基本の正しい 子どもの時から
今 我々の言葉で言うと…

良吉は 息子に稽古をつけながら
自らの芸も磨きます。

年齢を重ねたことで 味わいも増し

次第に評価を受けるようになったと
いいます。

すると 明治43年
良吉は 大きな舞台に誘われます。

明治天皇を迎えた 行幸能。

場所は 加賀藩ゆかりの前田邸でした。

晴れ舞台で 見事な芸を披露し
高い評価を得た良吉。

長年の苦労が報われた瞬間でした。

昭和4年
良吉の跡を 長男 万作が継ぎ

野村家は 狂言界の中核の一つに
なっていました。

既に 六世万蔵を名乗っていた万作は
31歳で 商家の長女と結婚します。

相手は 西村梅子。

後に 野村家のために
大きな働きをする女性でした。

よろしく どうぞ。

梅子のおいにあたる
西村眞彌さんです。

ここに残ってるのが 戦前の…。

西村家は 江戸中期から続く
由緒ある漆器店でした。

これが 梅子さん。

明治39年に生まれた梅子は

商家の娘らしく
ハキハキした才女だったといいます。

野村家に嫁いだ梅子には

家事や衣装の管理の他にも
大事な仕事がありました。

舞台の営業をしたり 収支を管理したり

いわゆる
プロデューサー役を担ったのです。

梅子と交流があった藤岡道子さんは
当時の話を伝え聞いています。

今みたいに
事務局があって切符を売るとかね

それから プロデュースっていうか
こういうの ありますから

是非 見に来て下さいなんてことを
やる人は 誰もいませんから

結局 奥さんが やるしかないんですよ。

それを 彼女は
梅子さんは やったわけですね。

結婚の翌年 長男 太良が誕生。

続いて 次男の二朗が生まれます。

後の武司の父です。

当時は 世界恐慌の影響もあって
狂言の人気がかげり

舞台にも 人が集まらない状態でした。

万作は 狂言の復興を目指し
子供たちに厳しい稽古をつけます。

めんこをやったり ベーゴマやったり
竹馬やったりして

ただし おやじに見つからんところで
やってるつもりが

どっかから 探しに来てね
耳 引っ張って こう

家まで連れていかれるんですよ
稽古だ!って。

ところが
昭和16年に 太平洋戦争が勃発。

戦況が悪化すると
狂言の舞台は 完全に途絶えます。

そして 昭和20年
野村家は 大きな危機に見舞われます。

東京に 大量の爆弾が落とされたのです。

一家は 必死で 防空壕に避難します。

空襲が収まり 自宅に戻ると
一面の焼け野原が広がっていました。

当時のことを 二朗さんは
鮮明に覚えているといいます。

もう家は 全然焼けて
父は 呆然としていたというイメージで

大事な衣装とか 書物とか

残ったものはありますけれども
面装束とかですね そういうのの一部は

本当に焼いてしまったわけです。

かつて幕藩体制の崩壊で 存亡の危機に
立たされた 野村家の狂言は

再び 大きな岐路を迎えたのです。

う~ん いかがでしたでしょうか?

はい まあ ここら辺になってくると
話は聞いていましたけどもね。

もう直接 話も聞かれてる。
ええ。

父も 幼いながら まあ とにかく
空襲の時には 本当に大変で

何か 穴に逃げ込んだとか…

翌日だか収まって
家の方に見に行ったらば

もう 全て焼け野原となっていて

自分の父親である 六世万蔵が
立ち尽くしてたのは

もう本当に 鮮明に覚えてましたね。

戦争の前にも 幕藩体制というのが
1回ね なくなってしまって

やっぱ そこから
お金が出てたわけですから

めちゃくちゃピンチですよね もう。

そのころはね 本当に まあ
ちょっと想像を絶しますよね。

たくましいというかね
それは 狂言の精神にも似ていて

たくましい人間像を描くのが
狂言でもあり

そのために 乗り越えてきたんだな
ということをね 今 改めて思いますね。

終戦後も なかなか
舞台の再会のめどは立ちませんでした。

当主の万作 六世万蔵は

狂言を続けていけるのか
不安そうだったといいます。

そんな時 妻の梅子が ある提案をします。

戦前までは
富裕層が楽しんでいた狂言を

学校で披露しては どうかというのです。

楽しみのない戦後ね
疎開から帰ってきた子どもたちに

面白いものを
見せてあげて下さいということを

学校の現場に言ったんですね。

梅子の実家は 江戸時代から続く漆器店。

しかし 時代が大きく変わる中

商売が
うまくいかない時期もありました。

人形と漆器を セットで売るなど

工夫をしながら 乗り切った様子を
梅子も見て育ったのです。

今回の取材で
生前の梅子の音声が見つかりました。

懐かしいテープだな。

梅子は自ら
都内の小中学校や大学を回り

学校で 狂言を披露できないかと
持ちかけます。

公演を見て
狂言を習いたいという学生も現れ

狂言教室も開始。

その月謝や 学校からの謝礼は
貴重な収入源となりました。

昭和20年代後半
野村家に 思わぬ誘いが舞い込みます。

声をかけてきたのは
新進気鋭の演出家 武智鉄二。

こちらが 「能・狂言の様式による
創作劇の夕」という

催し物のパンフレットになります。

劇作家 木下順二作の戯曲「夕鶴」を
能狂言の様式で描く

創作劇に出演しないかというのです。

とんでもないことだったんですよ。

能楽協会から 破門されちゃうみたいな
危機もあるようなことだったんですよ。

そんな演劇の方に出るとかね
あるいは 歌舞伎と一緒にやるとかね。

しかし 梅子は
長男と次男の背中を押します。

期待の若手役者2人が出演すれば

能楽協会も さすがに
破門できないだろうと考えたのです。

結局 「夕鶴」は
演劇界から大きな評価を受け

狂言にも 注目が集まりました。

20代の野村兄弟
この兄弟の 非常に的確な技術

しかも どうやら それに更に

お父さん世代もいるらしいぞ
ということになって…

「夕鶴」が上演された 翌年。

勢いに乗った野村家は
新たな挑戦を始めます。

当主の万作 六世万蔵が先頭に立ち
デパートで公演することにしたのです。

東京・日本橋にあった 白木屋。

百貨店の先駆けとして
話題となっていました。

梅子は 会場の準備や
チケットの販売に奔走します。

およそ 月1回の公演が始まると
家族連れや 若者などが集まりました。

この公演は 8年続き

狂言は
新たな客層に広がっていったのです。

学校から デパートまで さまざまな場所で
経験を積み重ねていった

当主の万作と息子たち。

失礼いたします。

大蔵流狂言師の 茂山七五三さんは

一家の狂言が
円熟していくのを感じたといいます。

よろしくお願いします。

一番に立ち姿 足の運び
声の出し方というのは

ものすごく美しく感じました。

それと同時に やはり 僕らは
「技が効く」っていうんですけども

ちょっとした所作ですよね。

少し細かいんですけれど
何を表現しているかとか

そういったところが ありありと見える
というような芸だと 僕は思います。

狂言師の妻 そして
プロデューサーとしても奮闘した梅子。

実は 母としても
大仕事を成し遂げていました。

長男の太良は
江戸時代から続く万蔵を継いで

七世 野村万蔵となり
人間国宝に。

次男の二朗は 二世 野村万作を襲名し
やはり人間国宝に。

更に 四男 四郎は 能の役者として精進し
人間国宝になりました。

人間国宝の息子を 3人も育てた梅子。

まさに 野村家のゴッドマザーです。

ちょっと人間国宝って
こんな なれるもんでしたっけ?

まあね 巡り合わせもあるし
長生きの得かもしれませんけれども。

梅子さん すごいですね。
ねえ。

パワフルな
やっぱり おばあちゃんだったんですか?

それは そうですね。

稽古場の手前に 茶の間があると
そこに鎮座ましましてね いましたよ。

非常に 頭のいい方だったというふうに
聞いてますね。

その方と伝統を守ってきた
狂言の家に お嫁に行ったことで

何か新しい化学反応が生まれたっていう
ことは あるんじゃないんですかね。

やっぱり お商売の家に
生まれているっていう

やっぱり 何かがね
そうさせるんでしょうし

待ってるんではなくて
ある種の攻めというかね

仕掛けていくっていう部分が
あったのかもしれませんね。

武司の父 二朗が生涯の伴侶と
出会ったのは 28歳の時でした。

文学者の父を持つ 坂本若葉子。

中学の頃から いくつもの詩を
創作してきた女性です。

療養中の若葉子さんに
出会った時の印象を聞きました。

ここからは もう一つの大切なルーツ
母方 坂本家をたどります。

戸籍からたどれる
一番古い先祖は 坂本政均。

天保2年 1831年生まれで

明治初期から裁判所の所長を歴任し

元老院の議官も務めました。

その父 坂本敬水は

幕臣で 江戸城大奥の医師だった
という記録も残っています。

医者?

そんな坂本家にあって

特に功績のあった
人物がいるといいます。

失礼いたします。

若葉子のいとこにあたる
坂本紘一さんを訪ねました。

こちらこそ
よろしくお願いいたします。

こちらが 私の祖父である
坂本之助の胸像です。

之助は 武司の曽祖父。

明治から大正にかけて

福井県知事 鹿児島県知事
名古屋市長を歴任しました。

明治15年に
坂本家に養子に迎えられた 之助。

その礎となったのが 実家の
永井家で育った日々だといいます。

永井家とは どんな一族だったのか?

之助の戸籍の住所には
愛知県愛知郡鳴尾村とあります。

現在の名古屋市南区元鳴尾町です。

今も 永井家の子孫が暮らしていました。

こんにちは。

永井 有さん 98歳です。

武司の8代前の先祖とつながります。

私も
永井の一族の消息などを知るために

いろんなことを
調べておりましたけれども

そのお子さんが まさか
萬斎さんと つながりがあるとは

ちょっと気がつきませんでしたね。

永井家の家系図を見せてもらいました。

家系図から たどれる
最も古い先祖は 大江直勝という人物。

直勝は ある才能によって
徳川家に 気に入られたといいます。

古い記録が残されていました。

こちらが 「参陽実録」になります。

この史料の中に 天正4年に
「風流踊りが盛んになって…」。

傳八郎は 直勝の幼名です。

家康の長男 信康が直勝の風流踊りを
見て 気に入ったという記述です。

風流踊りとは 笛 太鼓などに合わせて
歌い踊り 町を練り歩くもの。

武司の母方の先祖も
芸事で 大きく人生が変わっていました。

徳川家に取り立てられ
永井を名乗るようになった 直勝。

天正12年 羽柴秀吉と戦った
小牧長久手の戦いに出陣します。

直勝は 敵の大将 池田恒興を討ち取り

大きな手柄をあげました。

直勝は 数え22歳の時でして

家康は その褒美として…

更に…。

風流踊りで
チャンスをつかんだ直勝は

ついに
一城の主にまで上り詰めたのです。

天正13年 1585年
直勝の子供として生まれたのが 正直。

成長すると 意外な選択をしました。

武士ではない生き方を選んだのです。

その記録が残されていました。

こちらが
鳴尾村史という史料になります。

正直は 尾張藩より
特に塩の集荷販売を許され

国内の外 隣国に輸送した。

正直は 鳴尾地区に塩田を開発。

住民たちと 塩作りを始めます。

名古屋市内の街道の研究をしている
池田誠一さんです。

江戸時代の 尾張の名所案内には
「星崎の塩田」が描かれています。

はははっ でかっ!

前浜塩は
遠く信州まで運ばれていました。

塩田で働いていたのは 地元の人たち。
その収入は 生活の糧になりました。

更に 正直は 農家の生活も考え
次々と農地開発を行ったといいます。

当時の記録を調べている 池田さんは…。

こうした正直の志を 永井家は
代々 大切にしていきます。

江戸中期の子孫は 私塾を開き
儒学などを教えたといいます。

そして安政4年 1857年に之助
後の武司の曽祖父が誕生します。

之助は 漢文や和歌をたしなむなど
地元では 名の知れた秀才。

明治10年 二十歳の時に上京し

内務省衛生局
後の厚生労働省で働き始めます。

当時 伝染病のコレラが流行。

之助は
対策の最前線に立ちました。

永井家の歴史を知る
学芸員の香山里絵さんです。

伝染病予防規則を まず こしらえる
文章を作るようなことや

はたまた そういった会議の時の
書記であるとか

そういった下働きのところから

スタートしていらっしゃる部分というのが
分かってきています。

そういったようなことが
分かってきています。

永井家の志を受け継ぐ之助は
献身的に働きます。

その様子が 後に元老院の議官となる
坂本政均の目に留まり

養子に来てほしいと請われたのです。

坂本姓となった之助は

県知事や 名古屋市長などを歴任。

その一方で
漢詩人としても知られていました。

明治39年 之助の二男として
生まれたのが 越郎。

後の武司の祖父です。

幼少から文学に親しみ
現在の東京大学に入ると

歌人 斎藤茂吉から
指導を受けました。

その後 文部省に勤めながら
作家活動も続けます。

「花ふぶき」は
教科書にも載った代表作です。

越郎の親戚には
こんな人物も。

「東綺譚」などで知られる作家
永井荷風は いとこにあたります。

戦後 越郎は 絵や写真 映像を使った
「視聴覚教育」の普及と

アンデルセンの童話の翻訳に
打ち込みます。

童話のあとがきに
思いが記されていました。

越郎は 戦争で傷ついた子供たちに

夢あふれる
自由な心を届けようとしたのです。

先生 よろしくお願いいたします。
よろしくお願いします。

文学者 教育者としての越郎を
研究している 川原健太郎さんです。

面白いのは 先生が欠点を
指摘しないっていう教え方をしていて…

昭和15年 越郎の長女として
生まれたのが若葉子。

後の武司の母です。

筋金入りの 文学少女として育ち

学生時代に
狂言師 野村二朗に出会いました。

2人がデートを重ねたのは 映画館。

思い出の作品は「シャンソン・ド・パリ」だと
若葉子さんは振り返ります。

昭和35年に 2人は結婚。

6年後 2人の娘に続いて

長男 武司が誕生したのです。

踊ってましたよ 祖先。 母方の。
そうでしたね。 僕 あれは初めて。

風流のね 踊り手だったと。 それがまた
きっかけでね 召し抱えられたりしてね。

ですよね だから どっちのルーツも。
「芸は身を助く」みたいなね。

いや ほんと芸で。
文字どおりですね。

芸をもって出世してきた家系ですよね。

僕も そっちの母方まで そうだとは
思わなかった。 びっくりしました。

お母様 すごいっすね。

そうですね 非常に
文学少女だったというのがあって

僕に シェークスピアを教えてくれる。
この本 読みなさいとかって言ってね。

狂言の家だからといって
その狂言だけじゃなくて

いろいろなものに
許容範囲があるというかね

好奇心を持つ家ではあるような
気がします。

これは 武司が
3歳で初舞台を踏んだ時の写真です。

「靭猿」という演目で
小猿役を演じました。

幼い頃から 祖父や父との
厳しい稽古が 日課だったといいます。

こがれ~。
そうだ。

い~ず~ら~。

うたいだ うたい。
そのうたいのあとを 仰せられ。

こんにちは お願いします。

武司の妹 葉子さんです。

野村家では 常に狂言のことを意識した
生活だったと振り返ります。

小さい頃に
食事中でも やっぱり姿勢をよくして

じゅうたんの上に 座卓を置きまして

その座卓で 正座をして食事をする
というような生活をしてまして

それも 兄 萬斎のために そういう生活を
家族全員で強いられるというか…。

強いられる…。
全員 巻き込んで。

そんな環境の中で
武司は どのような少年に育ったのか?

わあ 懐かしい。

中学時代の同級生と担任の先生に
当時の印象を伺いました。

やっぱり すごい華やかな
印象のある人だったので

何だか すごく目立つし

あと すり足なんかも
お願いすると やってくれてたので。

周りを笑わせようとか
楽しませようとか

そういう 今のエンターテイナー的な要素
みたいなものを

持っていたのかなとは思うんですけど。

とにかく 人を楽しませるのが好きで
目立ちたいという欲求があった 武司。

一方で 人の心を慮る感受性も
持ち合わせていました。

ある先生が 教室で自身の離婚を
生徒たちに打ち明けた時のことです。

先生の話が終わったら 武司君が
立ち上がって 拍手 始めたんですよね。

で 先生 頑張れみたいなことを
言ったんです。

それにつられて
何か何人かが 立ち上がって拍手して

みんなで その先生頑張れ みたいな
雰囲気が できたんですよね。

ちょっと かっこいいなと思いました。
その時。

そんな明るさの陰で 中学生時代の武司は
大きな悩みを抱えるようになります。

狂言から離れた将来を
想像するようになったのです。

自我が出てきて 何で狂言やんなきゃ
いけないんだろうかとか

狂言やりたくないなぁとかって

どっちかというと そういうふうに
ネガティブに苦しんで

反発も もちろんありましたし やっぱり
不安もあったという気がしますよね。

武司は バスケットボールや
バンド活動など 狂言以外のことに熱中。

マイケル・ジャクソンのダンスも
コピーしました。

中学時代の担任 村田芳子先生には
当時の迷いを打ち明けていました。

何が一番あれかというと
やっぱり決められていると 自分は。

彼らと一緒に 同じように遊べないし

同じように
自由に いろんなことができないと。

それに対する不満が
とても大きかったですね。

かなり それを憎むようなことまで
言いましたので。

悶々としながら
思春期を過ごした武司。

転機が訪れたのは 17歳の時でした。

古典狂言の重要な演目の一つである
「三番叟」を 初めて演じたのです。

五穀豊穣への祈りを
体全体で表現しました。

リズムに乗せて
非常にシャープに舞うというところ

唯一 狂言の中で かっこいいと
思ってたっていうこともありますけど

非常に ダンシングな曲を
やらされるとかっていうことで

その気になっちゃうとかね。

同じ頃
武司に 思わぬチャンスが訪れます。

それは 黒澤映画への出演。

監督は 能狂言ができる若者を
探していました。

忘れましょうや。

武司が出演したのは 黒澤映画の中でも
代表作の一つと言われる「乱」。

狂言のたたずまいが にじみ出た演技は
高い評価を受けます。

姉上。

すぐじゃ。 すぐ戻ります。
姉上。

狂言の技術が 狂言のためではなくて

いろんな表現にも通じるのだ
ということがあったりする。

結局 ダンスにしたって 音楽にしたって
結局 表現するということになった時に

さて 自分にとって 一番
胸を張れる表現は何だろうと思ったら

やっぱり小さい頃からやっている
狂言というものが

一番自分にとって
まあ 武器になるというか

他の人に負けないで やれるかなっていう。

狂言が 自分の軸だと気付いた武司は

東京藝術大学に進学し
能楽を専攻します。

平成6年 28歳の時には 萬斎を襲名。

古典狂言を演じながら
新作狂言に取り組むなど

精力的に活動していきました。

更に イギリスに留学し
会話劇や ダンスを学ぶなど

新しいジャンルにも 挑戦。

その後 さまざまな経験を生かし

狂言をベースにした
創作舞台なども企画していきます。

やっぱり
伝統芸能に携わっていくということは

常に アップデートをしなきゃ
いけないっていう宿命があるわけですね。

やっぱり これからの時代を
どう狂言を用いて

切り結んでいくかということに

初めて 存在証明というか
生きててよかったと思うというかね

ちょっと大げさかもしれませんけど。

武司が一躍 お茶の間で
知られるようになったドラマがあります。

闇夜のカラス?
そう。

平成9年に放送された
朝の連続テレビ小説「あぐり」。

お調子者の夫 エイスケを演じました。

あぐり役を演じた 田中美里さんです。

よろしくお願いします。

共演をきっかけに
狂言の舞台にも足を運びました。

そして 武司の一番の魅力を
こう感じたといいます。

萬斎さんも 狂言とかで いろんな

小さい頃から すごく やっぱり
いろんな大変な思いをして

築き上げてきたものっていうのは
たくさんあると思うんですけど

それは崩さないままで
土台として きっちりあって

そこから いろんなことに 何ていうか
挑戦していくっていう変化をしていく。

インターネットの普及で エンターテインメントが
更に多様化する時代。

萬斎こと 野村武司は
狂言という土台を大切に

新たな挑戦を続けています。

そうですね まあ あの いろいろ
中学時代も 変なことをやったり…。

運動会で ふだんと違う格好をすると

どういうふうに
みんな反応するのかなって。

どうせやるなら きれいにしようと。

そこは もう プロ意識ですね。
ちっちゃい頃からの。

そういう感じですかね。

その中で いろいろ やっぱり

狂言に あんなに距離とりたいと
思った時期も やっぱ あったんですね。

何かね やっぱり 型に はめられる稽古を
ずっとするわけですね。

中 高というのは。
面白くも何ともないんですよ。

できるようになるまで 終わらないし。

違う もう いっぺん!
違う もう いっぺん! ばかりだしね。

つらい稽古が 今の自分の表現力を
支えているという思いで

感謝 父に感謝になりますよね。
あの時のね。

ご自身の「ファミリーヒストリー」
本日 ご覧になっていががでしょうか?

こんなに先祖たちもね
この時代に向き合って大変だったなと

今更ながら 感じましたけれども。

僕だけ ちょっと特殊かなと思ったら
意外と みんな特殊だった。

じっとしてねえやつらが
多かったなって感じがしましたね。

平成8年に結婚した 萬斎さんは

まもなく
新たな重責を背負うことになります。

よい猿じゃなあ。

3年後に 長男の裕基さんが誕生。

師匠として
我が子に向き合うことになったのです。

初舞台を踏ませたのは
裕基さんが 3歳の時。

演目は 「靭猿」。

かつて自身も演じた小猿役です。

「父親」と「師匠」との間で
葛藤する日々でした。

一生懸命やりましたか?
やりませんでした。

ダメじゃない。
今日のことを忘れないで。

はい。
でんぐり返ししないと パパ怒るよ。

はい。 忘れないで。
はい 忘れません。

息子に 幼少の自分が重なります。

自分が苦しんだ分
息子に対する罪悪感も含めて

何か ちょっと
かわいそうなことをしているな。

稽古の時はね 一生懸命 仕込むんで。

裕基さんは 思春期が近づくにつれ
ある感情を抱くようになりました。

狂言を続けることへの疑問が
膨らんだのです。

そんな裕基さんの迷いを取り除く
力になったのが 父 萬斎さんの背中。

話は これまで。

時代の大きなうねりの中で
狂言の認知度をあげ

更なる可能性を示そうと
挑戦する姿です。

去年10月の金沢市。

かつて 先祖が 狂言師として
歩み始めた この町で

親子3世代による公演が行われました。

これは…

数十人が出演する大がかりな演目の
要の役は…

長男 裕基さんに任されました。

♬~

家族のバトンが 受け継がれていきます。

野村萬斎さんの「ファミリーヒストリー」。

いつの時代でも
信念を持って生きた人たちの

尊い歳月がありました。

自分自身も 大変だったという
思いがありますけど

やっぱり それを 自分のね
子どもにね やっぱり強いるというか…。

それだけ やりがいのある
仕事であるということを

僕は 全身をもって
表現してきたつもりですし

それに 少しずつ 気がついてくれた
というのは まあ よかったなと。

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