こころの時代~宗教・人生~ それでも生きる~旧約聖書・コヘレトの言葉(6)[字] …の番組内容解析まとめ

出典:EPGの番組情報

こころの時代~宗教・人生~ それでも生きる~旧約聖書・コヘレトの言葉(6)[字]

コヘレトはわずか12章しかない小編で何が訴えたかったのか。その結論が集約された「朝に種を蒔(ま)け」という言葉の意味を未来の見通せない現代にどう読むか探ってゆく

詳細情報
番組内容
「コヘレトの言葉」の終盤に登場する「朝に種を蒔(ま)け」というメッセージ。この言葉の意味を「空」「時」というキーワードを手掛かりに読み解く。小友さんは、これを「どんなに苦しくとも、与えられた命がある限り、今この時を生きよ」という建設的な励ましと考える。種が芽を出すかわからずとも、耕す手を休めるなと説くコヘレト。身近な病や死が世界を覆う現代、コヘレトの死生観から私たちは何を得ることが出来るのか考える
出演者
【出演】牧師・東京神学大学教授…小友聡,批評家・随筆家…若松英輔

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
趣味/教育 – 生涯教育・資格
福祉 – 社会福祉

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解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)

NHK
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コロナ禍の今 改めて読み直され
光を放つ書があります。

紀元前のエルサレムで書かれた
「旧約聖書」の一部です。

その中には 一見
人生を悲観するような言葉が並び

長らく 「異端の書」とも されてきました。

作者の正体は 謎に包まれています。

「コヘレト」とは
ヘブライ語で 「集める人」という意味。

民衆を集め 生きる知恵を語る
人物だったと考えられています。

危機と苦難の時代を経て 生まれた
「コヘレトの言葉」。

それは 今 どのように響くのでしょうか。

♬~

♬~

♬~

♬~

先行きの見えない
危機の時代が訪れると

これまでも 何度か
絶望的な未来を描いた書が

人々の不安をあおって 広がりました。

しかし コヘレトは
「人は 未来を知ることなどできない」と

繰り返し 語ります。

長年にわたり 「コヘレトの言葉」の
研究を続けてきた小友さんは

コヘレトが この世の終わりを説く
安易な終末論を否定し

「今 この時を生きる」ことの大切さを
伝えていると考えています。

シリーズ 「それでも生きる」
「コヘレトの言葉」。

最終回は コヘレトが
その書を閉じるにあたって 書き残した

次のようなメッセージの意味を
探ってゆきます。

私たちは確かに
あした どうなるか分からない。

でも 私たちは
今日を生きなけりゃならないっていう

もう 厳粛な事実があるわけですよね。

で その中で私たちは やはり どう
生きていくべきなのかっていうのは

コヘレトの中でも
とても重要な問いとして

幾度も繰り返されてくる。

「朝に種を蒔き 夕べに手を休めるな」
という ひと言がありましたけど

ここは何か とても大事な
何か 今まで読んできた

コヘレトを凝縮されてるような
そんな言葉だと思うんですけど。

そうですね。 この 我々が
この私が どう生きるかっていうですね

将来に向かって どう生きるかという
そのことを また示唆してる

そういう表現だというふうにも言えると
思うんですよね。

生きることは これは種蒔きだっていう

そんなふうにも言えるかなと
思うんですけれどもね。

どの種が芽を出すか 実を結ぶか
分からないんだと。

だけども いや だからこそ 「種を蒔け」。

しかもですね この 「朝に種を蒔き
夕べに手を休めるな」ということを

コヘレトは言うわけですよね。

私たち 今まで番組の回数を重ねてきて
あの 「空」という言葉ですね

これ とても大事な言葉として
出てきました。

あと もう一つ 「コヘレトの言葉」を
読み解いていく時に とても大事なのは

やはり 「時」っていう言葉だと
思うんですけども。

この 「空」と「時」。

まずは その中で「空」というのがですね
どういう意味なのか

これから 少し一緒に読み解いていけたら
というふうに思います。 はい。

「コヘレトの言葉」の冒頭に出てくる
「空」という言葉。

それは 全編を通して 繰り返され

「種を蒔け」と語る コヘレトの
メッセージを読み解くうえで

重要なキーワードの一つとなっています。

今 朗読にあったところで
「日はまた昇る」っていう

ヘミングウェイの小説のタイトルは
ここから来てるんだ。

これ 実は 私は存じ上げなくて
小友さんから教えて頂いて

「ああ そうか!」と思って。

「空」という言葉っていうのは
あの 仏教なんかでも

その 「一切皆空」という
言い方をしたりしますね。

まず コヘレトは
全ては「空」であると言うわけですよね。

このですね この翻訳では
「空」と訳すわけですけども

もともと ヘブライ語では
これは 「ヘベル」っていうですね。

「へベル」 これをですね 「空」と訳すか
それとも 「空しい」と訳すかですね。

私は この「ヘベル」というヘブライ語は
これは むしろ 「束の間」と。

「束の間」ですね つまり 一瞬にして
過ぎ去るものとして この 束の間だと。

「人生は束の間だ」というふうに
こういうふうに私は読み取るんですよね。

「ヘベル」という この言葉

実は 「コヘレト」の中ではですね
38回も繰り返されるわけですけども。

束の間である人生を
「ヘベル」である人生を どう生きるかと

このことを
コヘレトは 徹底して考えてる。

「束の間」って言葉は
何かですね 普通の生活をしてると

意味がないというように 人々に聞こえる
場合があるんだと思うんですよね。

でも この「コヘレトの言葉」は
そうではなくて

束の間なんだからこそ
真剣に生きろっていうことを

強く言うんだと思うんですけど。

この コヘレトにとっての終末は
これは 人間の死なんですよ。

すぐそこに来ている 死があるわけです。

そして 残された束の間の時間

この束の間 はかない
あ 意味がないんだっていうふうに

そう思われるかもしれません。
しかし これ そうじゃない 逆ですよ。

この束の間の
今日 この一日は意味がないか。

そうじゃありません。

明日がないから
今日 今日しかないから

この 今日をどう生きるかということが
大事なんだと。

コヘレトは そう呼びかけてるんだと
思うんですよね。

あの もう一つ
先ほどの朗読の中でですね…

これも何か とても印象的な言葉ですね。

これは何か 私なんかも
少し 自分の人生を振り返ってみると

痛みを理解できない時間っていうのが
長くあった気がするんですね。

あるいは 自分の人生から
痛みを遠ざけるために

学ぶというような感じがしてた
時期があるんですけども

だんだん 年を重ねてくると
もっと痛みを理解できるために

それは 自分の痛みだけではなくて
人の痛みも含めてなんですけど

何か そんなことが 実は 人生の とても
大事なことなんだっていうことを

何か 教えてくれてるような

そんなふうに 私には
何か 聞こえたような気がいたします。

まあ 確かにそうですね。
人生 ままならないですよね。

曲がったものは まっすぐにならない。

これは ほんとに
現実だと思うんですよ 人生の。

この神によって与えられた人生ですけども
やはり 限られてるんですよ。 ねえ。

その 束の間である人生を生きると。
「ヘベル」である人生を生きるんだと。

そして この延長線上で また最後に
「種を蒔け」っていうふうに

コヘレトは考えていくんですね。

その深みっていうものをですね

次は あの 「時」っていう言葉を
もう一つの鏡にしながら

少し理解を深めさせて頂ければなと
思います。 はい。

♬~

今 朗読があったところは

「コヘレトの言葉」の中でも
最も有名だと言っていい

あるいは 最もよく用いられる言葉だと
言ってもいいと思うんですよね。

ブラームスが この「時の詩」をめぐって
曲を作っていたり

あとは せんだってですね
アメリカ大統領に就任した バイデンが

「コヘレトの言葉」を引用して
演説をしました。

「コヘレトの言葉」の中で
「時」っていう言葉は

最重要の言葉だと言っていいと
思うんですけど。

ギリシャ語では 「時」を表現する言葉
2つありましてね

一つは「クロノス」 もう一つは
「カイロス」なんですよね。

「クロノス」というと
これは クロックというようにですね

「クロノス」は
これは 時計で計れる時間ですね。

量的な時間ですよね。

しかし それに対して「カイロス」は
これは 時計では計れない

つまり 質的時間と
言いましょうかですね。 はい。

つまり この
「神の時」と言っていいでしょうね。

例えば 人との出会いっていうのは

これはですね
人間 決めること できませんよね。

偶然ですね ある人に出会う。

その時 その出会いによってですね
人生が変えられるという経験を

私たち しますよね。

愛する家族と 最後の別れをする はい。
その一瞬の経験が

この 残された家族にとってはですね
永遠にね なるんですよね。

一瞬が 永遠になる。
一瞬にして 永遠になる。

この時 こういう時ってありますよね。

私たちの この 時計で計る時間とは違う
もう一つの「時」。

「カイロス」を どこかに考えながら…

この言葉と重ね合わせたりすると

「神の時」って 今 おっしゃって頂いた
「カイロス」ですね。

で 私たちが どうやったら

「カイロス」の扉を
開けることができるのかって

ここが やはり
問題だと思うんですけども。

「時」というのは これはですね
この つかもうと思っても

この 人間には つかめないですね。

過ぎ去って初めて 「ああ
あの時だったんだ」ということが分かる。

それは 不思議な その経験ですよね。

ですから…

これも やっぱり 生まれることだって
死ぬことだって

人間は 直接は関与できない。
神が お決めになった時なんですよね。

この 神から与えられてる
この「時」を生きようっていう

まあ やはり最後は ここに コヘレトの
ポイントが ここにあると思いますね。

今のお話をお伺いしながら

私 一つ ちょっと
思い浮かんだ言葉があって。

それは 白川 静さんっていう
漢字学者の方がいらっしゃるんですけど

白川さんがですね
「存在」ということをめぐって

とても興味深いことを
言ってるんですよね。

白川さんの文章を 少し
読ませて頂きたいなと思うんですけど。

「ものはみな
時空と空間とにおいてある。

その時間においてあるものを存といい

空間においてあるものを在という」。

ですので 「存在」という言葉は 「時空」

「時」と「空間」 両方にまたがって

物事は存在しているということを
示しているんだっていうんです。

で その「時空」の中で
私たちは生きているのに

私たちは どうしても 空間的にだけ
生きてるんだと思うんですよね。

ですので 私たちは何か
死ぬということは

空間的に消滅してしまうことだ
っていうふうに

私たちは思いがちなんですけど

その「時」の世界っていうのが
もう一つ 開かれているとすると

私たちの世界っていうのは
もう まるで違ったものになる。

私たちの生と死っていうのは まさに
そういうことだと思うんですよね。

これは やはり コヘレトが
私たちに教えてくれてることとも

とても深く重なると思うんですよね。

私 この「時の詩」 これを読む時
小説をね 思い出すんですけど。

姜尚中さんの 「心」という小説なんですね。

これ 3.11 東日本大震災が
テーマになってるんですけども

この被災地でですね このですね
海から 死体を引き上げる

これを ボランティアとして始めた青年

西山直広というんですけどね

この青年が あまりの むごさにですね
心を病んでしまうんですよね。

罪のない幼子がね また 若いお母さんが
肉が引きちぎれてですね

そういう遺体を運ぶわけですよね。

こういう
この ボランティアをしてる中でですね

何で こんな
突然 命を奪われる

そして
死とは何なのかと。

この苦しみを 先生に
訴えるんですよね。

で その時ですね 先生が
西山青年に書き送った言葉

これが 「時の詩」なんですよね。

生まれるに 時があり
死ぬに時があるんだと。

人生は 苦しい時
つらい時が必ずある。

けれどもですね
逆の時もあるんだ。

時があるんだと。

で その時ですね この西山青年がですね

まあ こういうふうにですね
言葉を先生に書き送るんですよね。

「うまく言えないんですけど
『死』って結局

『生』を輝かせてくれるものじゃ
ないでしょうか。

先生は 『死』の中に
その人の人生の『記憶』があり

その人の『過去』があるって
おっしゃいました。

だから 死によって
その人は永遠になるって。

僕は それと同じことを
言っているのかどうか

確信がないのですが…」。

まあ 西山青年がですね
こういうことを書き送るんですよね。

この 死からですね この 生きることをね
教わるんだ 教わってるんだと。

死という むごい その現実から反転して
生きるということをですね 考える。

この小説を書いた姜さん自身が
実はですね

大切な息子さんを亡くしてるっていう経験
これがあるんですよね。

ですから この西山直広という この青年
心を病んだ青年

これは この息子さんの姿と重なってる
私 そう読むんですよね。

この小説を書いた姜さんのですね
この人生が 体験が重なってる。

私 ですから ここを読む時
ほんとに感動するんですよね。

そして この小説はですね
この今の時代 この時代 コロナの中で

やはり もう一度ですね
読んでもらいたい。

この 若い人に読んでもらいたい。
そんなふうな思いが 私 今 いたします。

何か あの 私たちが時代の節目や
危機に瀕した時に

この「コヘレトの言葉」っていうのは

よみがえってくるんじゃないかと
思うんですけども。

先ほどの朗読の中にですね…

今 私たちは
何か 現代で大きな危機に直面していて

で 私たちも
未来をつくっていかなきゃいけない。

ですけど どうしても私たちは
過去を見るのが難しいですよね。

何か 前ばっかり見ている。

ですんで やはり もう一度
迷ってしまうというようなことを

繰り返しているような
気がするんですよね。

これ 非常に
その 哲学的だと言いましょうか

この 深い言葉ですよね。

「旧約」の民は 律法の民ですよね。

聖書で生きるですね。

これは 考えてみたら
もう2, 000年も前に書かれた書物ですね。

過去に書かれた聖書の言葉の中に
将来を見いだす。

そして今を生きる。
いわば ボート漕ぎですよね。

ボート漕ぎっていうのは
これは ボートを漕ぐ ボート漕ぎは

視線は過去ですよ。
過ぎ去った方向に向くわけですよ。

しかしですね このボートは
未来に向かって進んでいくわけですよね。

過去から 未来を見つけ
そして 今を生きる。

こういうことを コヘレトは
ここで言ってるのではないか。

これも つまり 「時」をどう生きるか
ということについての

コヘレトのですね この態度をね
表現してると思いますね。

今まで 「空」と「時」をめぐって

「種を蒔く」というお話を
私たちは深めてきたわけなんですけど

今の朗読も…

…って とても印象的で

私たちを ちょっとドキッとさせる
言葉でもあると思うんです。

コヘレトは とにかく 私たちが未来を
知りえないんだっていうことを強調し

私たちに 「種を蒔け」っていうことを
言うわけですね。

一見すると
ちょっと矛盾しているような

しかし でも 何か大事なヒントが
隠されているような

そんな感じがする言葉なんですけど
いかがでございましょうか。

「朝に種を蒔き 夕べに手を休めるな」。

つまり 朝から晩まで 種を蒔き続けよ
ということを

コヘレトは命じる
すすめるわけですよね。

その理由がですね
理由が その次に書いてありますね。

種を蒔いたって どの種が実を結ぶか。

ひょっとしたらですね
どの種も 実を結ばないかもしれない。

全部 無駄になるかもしれない。

懐疑主義者だったらね ここで

「ああ だったら もう種蒔きなんて
意味がないんだ」っていうふうに

考えるでしょう。

しかし コヘレトは
そうじゃないですよね。

どの種が実を結ぶか 分からない。

だから いや だからこそ だからこそ

「朝に種を蒔き 夕べに手を休めるな」って
言ってるわけですよ。

ここにですね…

…というふうに書いてあります。

種を蒔くには
風が強い日は 種 蒔けないですよね。

雨が降ってればですね
刈り入れできないわけですね。

種を蒔くチャンスを待つ
刈り入れの時を待つ

一番いい時をですね 待とう。

しかしですね 結局
その日は来ないかもしれないですね。

要するにですね 今しかないんだという
そういうふうに説明できるんですよね。

この 人生は束の間。
明日はですね この ない。

今日 今日なんですよ。

今 この時なんだという このことを

コヘレトは
教えてるような気がしますねぇ。

こんな言葉を読んでいると

風を読める人っていうのは
世の中にいるわけですね。

どういうふうに あしたが やって来るか
ということを ちゃんと捉えられるって

一見すると いいことだと
思うわけですけど

そういう人も また
自分のことばっかり考えていて

その人は 種を蒔けないってわけですよね。

こうなってくると
種を蒔くということは

誰かと 何かを分かち合うことだ
っていうふうにも やはり読めてくる。

そんなことも もしかしたら
あるんじゃないかなと思って

今 お話 お伺いしてました。
まあ コヘレトの この言葉は

マルティン・ルターの言ってる言葉と
つながりますね。

それは こういう言葉ですね。

この ルターに由来すると言われる
この言葉は

この「コヘレトの言葉」と重なりますよね。

明日 世の終わりが来るんだったら

今日ですね リンゴの木を植えたって
意味ないですよね。

でも 「明日 世の終わりが来ようとも
今日 私は リンゴの木を植えよう」。

リンゴの苗を植えたら 春に植えたら
秋に 実を結ぶでしょうか。 フフッ。

実を結ばないですよね。 先ですよ。
何年先か分かりませんね。

つまり このリンゴの木を植えたって
植えた人自身は その実を食べられない。

次の世代ですよ。

たとえ明日 私にとって 明日はなくても
今日ですね 今日 未来に向かって

次の世代に向かって
リンゴの木を植えようと。

明日 世の終わりが来るっていうと

これは ネガティブですよ。
悲観主義ですよ。

しかしですね それによって
この 導かれる生き方は

これは リンゴの木を植えようという
積極性なんですよね。

まあ コヘレトも そうですね。
どの種を結ぶか分からない。

だから だからこそ 今日ですね この日
朝から晩まで 種を蒔け。

コヘレトはですね 「ヘベル」
空しいと言うから

これは 悲観主義だと言っても
いいかもしれないけども

しかしですね 「種を蒔く」
これは建設的ですよね。

「ヘベル」だからこそ 種を蒔けと。

時が 限られている 僅かである
束の間である。

だからこそ
今日 この日を無駄にするな。

ここに 「コヘレトの言葉」の 最終的な
メッセージがあるのではないかなと

私は そう理解いたします。

あの 今の 小友さんのお話を
お伺いしてて

私なんかは やはり 言葉というものに
深く交わる仕事をしているので

その「言葉の種」
「言葉の種子」っていうことを

やはり どうしても
考えが浮かんでくるんですよね。

で その「言葉の種子」っていうことを
もし考えるとしたらと思って

私 つらつら考えたら
道元って人がいますですね

あの 曹洞宗を開いた。

道元がですね 「正法眼蔵」の中で
とても面白いことを言っていて

彼は その「愛語」
「愛する」に 言葉ですね

「愛語」って言葉を とても重んじる。
こんなことを言ってるんです。

「愛語」っていうのは
どういうことかというと

人々を見て
自分の中で 慈悲の心をおこすんだって。

慈悲の心をおこさないと
「愛語」はおこらないっていうわけですね。

私たちは 誰かを見ると怒ったり
あるいは いらだったりすると。

その逆なわけですよね。

…っていうんですよ。

私たちが この 愛の言葉を発する
っていうことですよね。

これが ものすごく大事なんだって。

せめて その 愛のこもった言葉を
発することができないのであれば

乱暴な言葉をつかうなって
いうわけなんです。

それだけじゃなくてですね…

「愛語」っていうのは
誰か いいことをしたとか

秀でたところがあるのを褒めるって
そういうことだけじゃないんだと。

「廻天のちから」っていうわけですから
世の中を 本当に ひっくり返していく

そういう力すら
「愛語」にはあるんだっていうんですね。

これは やはり私たちの 今の この現代に
やはり 置き換えて考えることができて

私たちは
何か 時代を変えていこうとする時に

「愛語」じゃない言葉をつかうような傾向が
とても強いと思うんですよね。

怒りの言葉 あるいは恨みの言葉。

そういう言葉ではなくて 「愛語」こそが

本当に世の中を変えていくっていうふうに
道元は語ってる。

これは何か とても コヘレトとも
深く つながるんじゃないかなと思って

考えておりました。

まあ あの 若松さんからですね
「言葉」ですよね。

この 「言葉」がですね
コヘレトが 「種を蒔け」っていう

その「種」っていうのは

これは 「言葉」っていうふうに
置き換えてもね これは いいのかなと

今 お話聞いてて
思ったんですけども。

若松さんが書いた本の中に

池田晶子さんのですね はい。
この紹介 ありますけども

池田晶子さんがですね…

…っていうことをね はい。
書いておられて。

ここで言う 「言葉」ですよね。
はい。

これ 今 おっしゃったことと
同じだと思うんですよね。

池田晶子さんは あの 2007年に
お亡くなりになっているんですね。

本当に まだ若くして これからという時に
お亡くなりになった。

本当に 現代を代表する哲学者だったと
言っていい。

池田晶子さんから見ますとね 私たちが
本当の幸せというのをつかむのは

言葉の扉の向こうなんだ
っていうことなんだと思うんです。

彼女にとって やはり言葉というのは
何か ものを知る道具ではなくて

本当の人生に出会うための扉であり
本当の自分に出会うための扉

そして もしかしたら 人間をこえたものに
会うための扉だったのかもしれない。

小友さんが触れて下さった
あの 言葉はですね

「あたりまえなことばかり」という
本の中にある一節なんですけども

それは 池田晶子さんが書いた
幸福論なんですよね。

そうですね。 この 明日ない人にとって

今日しか生きられない人にとって
大事なのはですね

この 治すための医療じゃない
宗教的な教理じゃないんですよ。

「言葉」ですよね。

しかし その言葉っていうのは
決して その 哲学的に考え抜かれた

洗練された言葉でなくたって
いいんですよね。 そうですね。

その「言葉」は これはですね
その患者さんの手を握る

一緒にいるよということを伝える
この沈黙の言葉。 はい。

これも「言葉」だと
私は思うんですよね。

そういう「言葉」がですね
これが求められている。

そして コヘレトはですね
この「ヘベル」である この人生において

この明日はない 今日しか生きられない
この自分が なすことは

これは 種を蒔くことなんだと。

そして それは こういう言葉を語ること
こういう言葉に生きること

こういう言葉を 他者に指し示すことだと
こんなふうに私は読むんですけれどもね。

「コヘレトの言葉」。

その最終章である 12章は

コヘレトのラストメッセージとも
言うべき

次のような文章で 締めくくられています。

これ 「コヘレトの言葉」の最後の
「あとがき」なのですけどね。

これは まあ一般的には これは
コヘレトが書いたものじゃなくて

編集者が書き加えたんだと
区別されることが多いんですけども

しかし 私は
そういう読み方はしないんですよね。

これはもう 基本的に
コヘレトが言ってることをですね

それを踏まえて 書かれてる。

コヘレトが書いたというふうに
これを理解しても 問題はないと

私は そう見ています。

先ほどですね 「種を蒔け」っていう。

その実りをですね 得るのは
これは 次の世代かもしれないですね。

その 次の世代に託してる。

ここでもですね コヘレトはですね
この 呼びかけるんですよね。

「わが子よ」と。 「わが子よ」と。

コヘレトは
この 次の世代の人たちに向かって

語りかけてるんですよね。

独り言でですね 独白で
終わってるんじゃないんですよね。

ここにおいて コヘレトは とにかく
心が 他者に開かれている。

未来に生きる人たちにですね 開かれてる。

おしまいの方に来て 他者に心が開かれて
そして それを託してる。 委ねてる。

子らにですね こんなふうに
私は読みたいと思っております。

…っていう この一節も 何か
私なんかが読ませて頂くと

何かこう 打ち込まれた釘っていうのは
まあ 目に見えないわけですね。

何かと何かをつなぐものっていうのは
目に見えないで 存在している。

しかし それがなかったら
建造物は崩れ落ちてしまうって。

まあ 知恵ある者の言葉っていうのは
私たちの世界で 何か そんなふうに

この世界を深いところで
支えてくれているものだというふうにも

読めるんじゃないかなというふうに
思うんですね。

こういうふうに言って 終わります。

で 「裁かれる」という言葉が
何か 少し怖いような

何か 私たちを宗教から遠ざけてる
言葉のうちの一つかもしれないんです。

もしかしたら
キリスト教や ユダヤ教というものが

日本人にとって
少し とっつきにくいと思うのは

この 「裁く」という言葉の
理解にもよるんだと思うんですけど

小友さん どうお考えになられますですか。

隠されたことを神が暴いて その 裁く
まあ つまり「最後の審判」だと。

確かに そういうふうに読むことも
可能ですけども

しかし この「裁く」って

これは
ヘブライ語で 「シャーパト」ですね。

これは確かに 「裁く」 「裁き」
というふうにも訳せるんですけども

まあ しかし このヘブライ語は
「支配する」 「神が支配する」という

そのことを表現する そのように
読んだ方が 私はいいと思うんですね。

ですからですね 全ての業を
神は支配してるんだと。

神がなさることは 人間にはですね
この 始めから終わりまで

それは分からないんだと。

だけども いや だからこそですね

与えた自分の人生を 最後まで
責任を持って 生きよということ。

だから 「神を畏れ その戒めを守れ」
というふうに言われてるですね。

宗教を考えていく時に とても 何か一度は
考えてみなければならない問題として

「生きる」という問題と 「生かされる」
という問題があると思うんですね。

人間は どうしても
自分で生きていると

この人生を回してるのは自分なんだ
というふうに思いがちなわけですけど

宗教そのものは しばしば
その考え方を 逆転を迫りますよね。

あなたが生きているのではなくて

もしかしたら 他の力によって
支えられてるんじゃないか

っていうようなことを
私たちに考えさせるわけですけど

コヘレトは
その辺を どう考えていたと…?

神によって生かされている。

そのことは ふだんは
私 なかなか 実感できないですよね。

けども コヘレトが繰り返す
その「ヘベル」 束の間

この束の間 この時を 神から与えられた
時なんだということに気がつく時に

この「時」が これが 神から与えられた
掛けがえのないものだという

恵みだということに 気付かされる。

この生きられた時間は
神から与えられた時間。

神を信じ 神を畏れて
そして 神の言葉を守って生きよという

つまり 「今 どう生きるかということを
そこに集中せよ」ということを

コヘレトは 最後に言ってるですね。

これは これまでも コヘレトは
何度も繰り返して 言ってることの

まさに結論ですよね。

この現世を
「今を生きよ」ということですね。

しかも 「責任を果たせ」ということです。

そして それは
「種を蒔け」ということですよね。

♬~

あの コロナ危機の中 「コヘレトの言葉」を
読んできたわけなんですけども

私の中でも
さまざまな変化がございましたし

ずっと ご研究なさってきた
小友さんの中でも

何か
変化が おありになったんじゃないかと。

その辺は 小友さん
どう お感じになってらっしゃいますか。

私は この「コヘレトの言葉」をですね
どう解釈するかですね

まあ研究者として 「コヘレトの言葉」を
読んでいたわけですけども

そういう意味では
頭で理解してたわけですよね。

けども 「コヘレトの言葉」が放つ
メッセージが 魂に触れてくるという

そのことをですね 私は教わりました。

そして これは私自身が まさに
そういう経験をさせられましたね。

この池田晶子さんの言葉というものは

これは 絶望のどん底にある人にとっては
救いになるのは それは言葉である。

哲学的に考え抜かれた
言葉でなくてですね

患者さんの手を握る 沈黙の言葉ね。

その 手を握るという そのことが
その言葉がですね

この 魂に届くんだと
それが救いになるんだと

そういうことをね 教わりましたけども
まさに そうですよね。

「コヘレトの言葉」が語ることを これを
ただ単に 論理でもって説明しても

これはですね 魂に届かないですね。

魂に届く言葉として
語らなきゃならないですね。

そして 今 この時代 どうやって
生きていったらいいか分からない

先が見えないですね
そういう若い人たちに対して

この語る言葉
これは やっぱり 魂に届く言葉

それは 「生きよ」
「ヘベルだけども生きよ」 「種を蒔け」。

こういう この 魂に届く言葉として

この「コヘレトの言葉」を
語らなきゃならないということを

この半年間 私は教わりましたね。

私自身が そういうわけで
そういう意味で

「コヘレトの言葉」を読むですね 読み方が
変わったという経験をさせられました。

人生が束の間である
ということになったら

私たちが それを感じられるっていうのは
分かると思うんです。

そこまでは 私も分かるわけですけど
それを どう受け止めるのか

分かるけど受け止められないということが
あると思うんですね。

頭で分かるけど それを
生きることができないってとこに

また もう一つの苦しみがあると
思うんですけど

そこは何か 小友先生
ご自身が牧師でもいらっしゃって

生きることが難しいって方には

どういうふうに
お声がけをなさいますですか。

そうですね この 「生きよ」と言うけども

「生きていたって
何のいいことがあるんですか」っていう

問いかけを受けてですね
やはり 言葉に詰まりますよね。

つらい経験ばかりしてですね

「今日 生きてたって
何のいいことがあるのか」という

そういう問いをね 発する人もいると
思うんですね。

若い方がですね この 命を絶つという

そういうですね
この 教会関係の方でしたけども

何もしてあげられなかった
牧師としてですね。

ほんとに その 空しい 空しい
空しかったですよ。

お父さん お母さんですね
嘆いてる 悲しんでる

そこに立ち会ってですね
慰めの言葉 なかったですよね。

そういう中で 私は若い人に やっぱり
「コヘレトの言葉」を語りたいですね。

コヘレトは…

…ということを言いますね。

生きることが大事なんだと。

生きてさえいれば 可能性があるんだ
ということを コヘレトは教えています。

「生きていて 何の楽しいことがあるの?」
という問いにね

なかなか
答えることはできませんけども

しかし 「それでも生きよ」。

このコロナの この時代ですね
死というものを 死ぬということを

その現実を突きつけられてる この時代
人生は「ヘベル」 束の間ですね。

けども コヘレトはですね
この「ヘベル」を繰り返す中で

しかし 「生きよ」というんですよね。

そしてですね 最後は「種を蒔け」。

「ヘベル」 「生きる」 「種を蒔け」。

これは 「コヘレトの言葉」が語ってる
この メッセージだと思いますね。

で これはですね 私たち 今の時代
この 魂に響いてくるメッセージに

なってるんじゃないかなという
気がいたしますね。

この番組を
ご一緒させて頂く機会を頂いて

私の中で 一番 やはり
大きく変わってきた実感というのは

この半年間 日々 「旧約聖書」の言葉を
読むようになってきた。

で それは もうほんとに
一日 10分とか20分なんですね。

あの ほんの僅かな時間なんだと
思うんですけども

そうすると 今まで自分の中で あまり
うまく受け止めることのできなかった

繊細なことですね あるいは
容易に言葉にならないことという

言い方をしてもいいかもしれませんけど

そういうものが
少し感じられるようになってきた。

まあ 半年間にわたって ずっと
こう 「旧約聖書」を読む機会を頂いて

私は この「コヘレトの言葉」と
何か とても深く響き合う

「詩編」 ございますね
その中に こんな一節があるんですね。

とても美しい言葉だと思いますし

とても 何か深いところから
励まされるんだと思うんですね。

で これは 私は実はですね あの まあ

個人的に
とても厳しい人生の時期があって

その時に出会った言葉なんですね。

実は 私が伴侶を亡くした時に
実は 出会う言葉なんですね。

で あの 私は その時に経験したのは

本当に悲しい時
人は 涙が出ないんですよね。

で ある時 自分から涙が出てくるという
経験をした時に

涙が出るということは 何か
とても大きな力が宿ったということの

証しなんだということを 私は この言葉に
教えてもらったという経験があるんです。

で 「涙のうちに種蒔く者は」って

涙を流している者 お前は
種を蒔くことができるのだということを

教わったような気がしたんですね。

そして この種は やはり 私も種を蒔く

しかし 私は そうすることで

先人が蒔いた何かというものを
受け止めることができるんだって。

ですので 種を蒔くということと
何か受け取るということの間には

とても緊密な関係があるんですよね。

種を蒔くだけ 受け取るだけ
ということではなくて

種を蒔くということが

先人の遺産を受け取る自分の準備になる
っていうことなんだと思うんです。

で そのことを知った時に 私は やはり

「あ もう一日 生きてみよう」というふうに
思えるようになったんだと思うんですね。

で 人生の中には
その日一日を生き抜くことで

その人の人生が変わってくるっていう
そういう日があるんだと思うんです。

自分の人生から
振り返ってみても

やはり 与えられてるものは大きくて

それが どこから やって来たのか
知らないまま

受け取ってるということが
何か たくさんあるという感じが

改めて いたしますね。

コヘレトは
最後に 「種を蒔け」と言いますよね。

その 「ヘベル」 「束の間」

そして 「生きる」
そして 「種を蒔け」ですね。

今で言うならばですね この先ですね
どんな災害が起きるか分からない。

環境破壊とか原子力被害
人類を現実に滅ぼす 滅ぼしかねない

この 今という時代についてですね
どう生きるか。

それに対して コヘレトは何て答えるか。

「種を蒔け」なんですよ。

「朝から晩まで 徹底して種を蒔け」
なんですよ。

今 種を蒔くんですよ。

たとえ 明日 世の終わりが来ようとも
今日は リンゴの木を植える。

そのリンゴの木の実を食べられるのは
この私じゃない。

次の世代
あるいは その次の世代かもしれない。

それでもですね 今日 種を蒔く。

「今を生きる」ことによって
責任を果たすという。

今回 私 若松さんと 6回にわたって

「コヘレトの言葉」を
一緒に語り合ってきてですね

いろんなことを教わりですね
また 気付かされて

本当にですね 掛けがえのない
経験したんですけども

この番組は 朝5時なんですよね。

朝5時ということはですね
もう本当に もう どうしようもない

どん底で もう本当に生きる気力さえない。

眠れず 一睡もできない そうやって
この番組 見る方もいると思うんですよね。

「ヘベル」なんですよ。

本当に 空しいんですよ。
どうしようもないですね。

しかし その「ヘベル」は
束の間ですよね。 束の間なんですよ。

人生 束の間ですよ。 今日は 束の間。

だけども ここで その「コヘレトの言葉」。

「生きよ」
「それでも生きよ」なんですよ。

この今回のシリーズは
「それでも生きる」ですよね。

「それでも生きる」ですよ。
はい。

生きてれば 生きてさえいれば
可能性があるんですよ。

今回ですね 「コヘレトの言葉」から
いろんなことを教わりました。

「ヘベル」 「生きる」 「種をまけ」
「それでも生きよ」。

「それでも生きる」という
この言葉を最後に 結論として

また 最後のメッセージとして
皆さんに語りたいと思います。

「それでも生きる」
「それでも生きる」。

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