出典:EPGの番組情報
英雄たちの選択「戦国最弱?それとも最強?小田氏治の乱世サバイバル人生」[字]
連戦連敗の戦国武将、小田氏治。本拠の小田城を敵に何度奪われても、そのたびに奪い返した不屈の男。戦国“最弱”とも呼ばれる大名は、いかにして乱世を生き抜いたのか?
詳細情報
番組内容
戦に出るたびに敗戦を繰り返し“戦国最弱”と蔑まれる武将がいる。常陸国(現在の茨城県)の大名、小田氏治。初陣から連戦連敗、本拠の小田城もたびたび奪われた。一方で、不屈の精神を発揮し、負けても、負けても、何度も城を奪い返したのだった。先祖伝来の小田城を守り抜くことを、自らの使命とした氏治。北条氏康や上杉謙信さらには豊臣秀吉まで、戦国を代表する武将たちを敵に回しながら、乱世を生き抜いたその生涯に迫る。
出演者
【司会】磯田道史,杉浦友紀,【語り】松重豊,【出演】平山優,中野信子,飯田泰之ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
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- 氏治
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- 戦国武将
- 奪還
- 領主
解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)
日本全土が争乱の渦と化した 戦国時代。
戦いに勝つことこそ
優れた武将の証しであった。
だが 戦国武将の強さは
戦の勝敗だけでは
はかれないのかもしれない。
それを示す人物が 小田氏治。
常陸国 現在の茨城県を
本拠とした 戦国武将だ。
鎌倉時代以来 およそ400年もの間
小田城を拠点に領国を統治した小田氏。
その名門の十五代当主が氏治。
ところが彼は 戦に出る度に
連戦連敗。
生涯で 20回近く敗れ 居城である…
…っていう印象が すごく強いです。
10年20年の間に急激に…
だが 氏治は
敗戦の度に復活。
城を奪われては 奪い返す
壮絶な人生を送る。
その不屈の精神から
後世 常陸の不死鳥と称された。
氏治の行く手に立ちはだかったのは…
いずれも戦国を代表する猛者たち。
戦の弱さから
戦国最弱ともいわれる氏治は
強敵たちとの戦いを
いかにして生き抜いていったのか?
さまざまな分野の専門家が
氏治の
知られざる
強さを語る。
家臣から。
一体 何なのか?
その答えが
最弱にして 最強の武将
小田氏治の生きざまに隠されている!
♬~
皆さん こんばんは。
こんばんは。
歴史のターニングポイントで
英雄たちに迫られた選択。
その時 彼らは何を考え 何に悩んで
一つの選択をしたんでしょうか。
今回の主人公は
こちら。
常陸国の戦国武将
小田氏治です。
歴史の教科書に
出てくるような人物ではないので
ご存じでない方も
多いと思うんですけれど
何度も 戦に敗れながら
その度に復活した 不屈の武将として
近年 戦国ファンの間で
人気となっているんです。
どういった人物だと
磯田さんは考えますか?
オダっつったら 織田信長の織田を
思い浮かべるけれども
少なくとも 東日本… まあ 関東ね。
関東だと オダっていったら
この小田氏治の家を
思い浮かべるみたいなところは
あったと思いますね。
ただ これ 気の毒な方です この方。
ものすごい
名門の豪族に生まれるんだけれども。
で しかも 領地は
すごくいい場所なんですよね。
それなのに その…
巨大勢力の力が釣り合うところに
いたためにですね…
そんな小田氏治を
取り上げていきますけれど
どんなところに磯田さん 注目しますか?
これはね…
これですね 回復力ですね。
とにかく 負けても負けても
起き上がってくる。
それでは 小田氏治とは
一体 どんな人物なのか。
そこから見ていくことにしましょう。
茨城県…
ここに 小田氏治の肖像画が
保管されている。
こちらが
小田氏十五代 小田氏治の肖像です。
晩年に出家し 天庵と名乗った頃の氏治。
その手には お経と数珠。
膝元には
丸まって眠る猫が描かれている。
前に猫が描かれているというところが
特徴でございます。
そういった意味では 非常に…
表情を見ていただきますと…
戦国最弱の武将と呼ばれることもある
小田氏治。
しかし その険しい目元には
強い覚悟をにじませている。
一体 彼は
いかなる人物だったのだろうか。
後に 天下を統一する
豊臣秀吉誕生の6年前のことである。
鎌倉時代から続く小田氏は
源 頼朝から
初の常陸守護に任ぜられるほどの名家。
先祖の八田知家は
鎌倉幕府での
十三人の合議制の一員でもあった。
それから 350年の間
小田氏は 東北へとつながる
関東の重要拠点
常陸国の南部を統治し続けてきた。
そんな小田氏が
代々 本拠とした城がある。
茨城県つくば市
筑波山の麓に築かれた小田城。
近年の発掘調査によって
戦国時代 どんな城であったかが
明らかになってきたという。
歴史家の平山 優さんと現地を訪ねた。
こんにちは どうぞ よろしくお願いします
平山でございます。
広瀬と申します よろしくお願いします。
城の発掘調査に携わる
つくば市教育局の広瀬さんに
案内していただいた。
建物が たくさん見つかっておりまして
恐らくは…
本丸の中心に築かれていたのが
客をもてなすための主殿や 領主の館。
その周りには 巨大な池を配する
優雅な庭園があったことが分かっている。
大体 こういった 施設の配置なんかが…
そういう屋敷づくり
あるいは 館づくりっていう…
この城に
京の都から 度々 要人を招いた小田氏。
南北朝時代の歴史書として名高い
「神皇正統記」も
ここで執筆されたといわれている。
小田氏の家格を誇示するかのように
中世以来の
豪華な屋敷の姿であり続けた小田城。
だが 時代は 既に
戦国へと移り変わっていた。
それまで
関東で強い支配権を持っていたのが
関東管領の上杉氏や 古河公方の足利氏。
小田氏は そんな旧来の勢力に
与する姿勢を 取り続けていた。
そこに 新興勢力として
挑んできたのが
伊豆 相模で 戦国大名へと成り上がった
北条氏である。
北条の三代目当主 北条氏康は
天文15年 河越合戦で
旧勢力の連合軍を撃破。
関東制覇を目指し
急速に勢力を拡大させる。
関東の武将たちの多くは
破竹の勢いの北条に従うことを選んだ。
ところが 常陸国の小田氏は違った。
河越合戦から2年後の天文17年
18歳で 小田氏の十五代当主となった氏治。
鎌倉以来の名家を継いだ彼は
関東の秩序を乱す新興勢力
北条氏に従うことをよしとはしなかった。
そういった中で…
およそ350年かけて築き上げた
先祖伝来の領地を守ることを
自らの使命とした氏治。
それは 本領安堵された土地を
守り抜くため
命を懸けた 関東武者の一所懸命の精神を
受け継ぐものとも言える。
中世的な価値観を重んじた
氏治。
そのまっすぐな性格を伝える逸話が
残っている。
ある時 隣接する村同士で
境界争いが起こり
小田領の村人が
1人殺されるという事件が起きた。
それを聞いた氏治は激怒。
相手の村人 10人余りを
打ち殺したという。
隣の領主との戦に
発展しかねない行動だったが
氏治は 小田の領民のために動いたのだ。
親分肌の領主であった氏治を
領民たちも強く慕ったと伝わっている。
だが 北条に与しなかったことで
小田の領国に危機が近づいていた。
北条の支援を受けた結城氏が
小田領の西北端にあった
海老ヶ島城に攻め寄せたのだ。
報告を受けた 当時26歳の氏治は
すぐさま本拠の小田城から出陣。
海老ヶ島城の救援に向かった。
海老ヶ島城は
水田と湿地に囲まれた場所に築かれた城。
この地形が 戦の勝敗を左右する。
氏治は 山王堂と呼ばれる高台に
およそ2, 000の兵で布陣。
一方 水田を挟んだ
丘の上に対陣した
結城と北条の連合軍は
4, 000以上の軍勢だったといわれる。
氏治に勝算はあったのか?
平山さんが合戦の現場を訪ねた。
当時はですね 旧暦の4月…
ですから 小田氏治は…
湿地帯によって
敵の動きが鈍くなるだろうと考えた氏治。
だが…。
氏治の思惑に反し
結城と北条の騎馬隊は
湿地帯を苦にせず
一気に攻め込んできたのだ。
この時はですね たまたま…
水田に張られた水でですね
湿地帯の状況が さほど…
小田氏治の考えに相違して…
これまで
大きな戦いの経験がない氏治に対し
戦慣れした北条軍の力は 圧倒的だった。
当時の記録には
戦いの結果が こう記されている。
「悪所での合戦で
討ち取られた小田軍は
1, 000人余り」。
更に…。
「氏治は 城に帰れなかった」。
なんと海老ヶ島城だけでなく
本拠の小田城まで落とされ
家臣の守る土浦城に
逃げ込むことと
なったのだ。
だが これは 小田氏治の
波乱の人生の幕開けにすぎなかった。
敗戦から僅か半年後
土浦城の軍勢を率いて逆襲に出た氏治は
見事 小田城の奪還に成功する。
それは 氏治の執念の勝利であった。
氏治にとって… 氏治は十五代
小田氏の十五代になるんですけれども…
名門 小田氏のシンボルである小田城。
この城を守ることこそ
氏治の人生にとって
何よりも大切なことだった。
この後 氏治は
名だたる武将たちを敵に回し
小田城を奪われては奪い返すという
壮絶な戦いの日々を迎えるのであった。
さあ 平山さんには
現地で取材していただきましたが
この小田氏治という戦国武将に
平山さんは どんな印象をお持ちですか?
小田という家は 非常に
あの時期としては珍しく
内乱を経験しないまま
戦国に突入してるんですね。
よその地域の内乱を
横目で見ながら
そのパワーバランスを
うまく見ながらですね
勢力を広げてくことに
成功するんですよ。
ところが それが収まった頃に
天文17年に 氏治は 父親が亡くなったので
跡を継ぐんです。
つまり 氏治が家を取った時にですね
周りの大名たちは
混乱を収めて 家中を一本化し
そして 新たな勢力拡大に乗り出そう
ちょうど そういう転換期だったんですね。
そこに氏治は そういう厳しい内乱を
経験していないということもあって…
中野さん。
この伝統ある家の当主となった
小田氏治について
どのように考えますか?
先ほどの
肖像画なんですけれども
ちょっと特徴が
あるなと思うのは
眉間と口元の表情筋が
すごく強調されて
描かれているんですよね。
眉間と この口元の表情筋って
威厳を出そうとして
わざわざ歯を食いしばったりとか
こういう しかめっ面をしてみせて
自分を大きく見せたいとか
厳しい人柄だということを
アピールしたいという時に
ちょっと こう強く
筋肉が こわばるような感じに
なるんですけれども。
何か権威を なるべくアピールしないと
何か保てないような内面の葛藤とか
そういう部分が
あったのかなというふうにも
読み取れるかなと思いますけどもね。
結構 ぐっと描かれてますもんね
険しく この表情も。
そうなんですね。 その割には
足元に猫がいたりとか。
そうですね。
こういうふうに
見られてた人なんだなということを
ちょっと感じて。
かわいらしい人柄の人だったんじゃ
ないだろうかと 自分は推測します。
なるほど。
磯田さん 今 平山さんにも
ロケに行っていただいた
小田城なども見ましたけれど。
あの辺ね 小田氏の辺りというのは
いや いい場所なんですよ。
よすぎるんですよ。 何でかって言うと
祖先が 何であんなに威張ってるかって
鎌倉幕府の 鎌倉殿の… そうだ
十三人の一人なんですよ。
八田知家というのが
小田知家ともいうけど それが祖先ですよ。
で 頼朝は もう八田知家に
一番いい場所をあげたわけですよね。
あそこに座ってれば
もう関東中へ にらみが利くっていう。
というか にらみが利くっていうより…
そこに ああいう平地の平城
館みたいなのを構えてるわけですから
維持が難しいのは当たり前なんですよね。
先ほど小田氏治が 中世的な領主という
表現がありましたけど
飯田さん この辺り どう思われますか?
これ 経済史の分野で
よく注意しろ
というふうに言われるのが
その時代が異なったり
または 国が異なったりすると
人々が 何を
大切だと思っているのかっていうのが
まるで違うことがあると。
その大切なものというのが
だんだんと 多くの諸家は
中世から近世っぽい 現実の利益を
取る感じになっていくのに
何か 鎌倉以来の一所懸命というか
ここを守ること そして
そこの領民に なめられないこととか
家を保つこととかっていう
ちょっと戦国時代というよりも
何かもっと ひと時代前の
大切なものっていうのを
持っていた武将 家なのかなと
思うんですよね。
平山さん どうなんでしょう。
実際 ほかの戦国武将たちと比べると
考え方とか違ったんですか?
周りが 内乱を収めて
家中を一本化してね
そして どういうふうにすれば
自分の勢力を広げられるかっていう
動きをしていた時に 何か 自分の所領に
それだけに 一所懸命になっていて
それを守る安全保障を
どう構築していくかという視点に
ちょっと乏しいような気が
するんですよね。
実際に結城は 北条が退却したあと
氏治に 奪った所を奪い返されて
氏治も 小田城を奪い返すわけですよ。
つまり この時期になるとですね
一つの小さな領主が
単独で あるいは
ちょっとした勢力との連合だけでは
もう北条とか でかい勢力に
対抗しえなくなってきている
そういう時代なんです。
そういう
ゲームチェンジが行われた時に
もっともっと業務提携をしたり
あるいは 自分も
新しい事業展開をしたりして
大きくなっていこうというスタンダードに
合わせようとする動きをするのと
それから
いや 自分の領域は ここだから
ここを守って
しっかり やっぱり差別化を図って
我々の強みを伸ばしていこうっていう
やり方と 両方あると思うんですけど
どっちの方が 長期的に見て
利益が高いのか
あるいは
生き延びられるのかっていうのは
何かこう どなたか
研究されてたりするんですかね?
そうですね
一番 よく直面するのは
商売が 比較的大きくなってきた時に
しっかりとした会社組織と
いずれ 将来的な上場の体制みたいなのを
つくっていくタイプの会社と
一旦 もう拡張をやめて
むしろ ファミリービジネスの範囲で
収められるように
仕事とか ビジネスのあり方を
リストラクチャリングしていくっていう
考え方 2つあるんですね。
ただ この小田家の場合 厳しいのは
そういう むしろ
小さく まとまろうとするためには…
つまり 大勢力にとっては
大して魅力的でない場所であれば
そのニッチ戦略っていうのは
有効なんですけど…
何か だから時代に 別に無理やり
乗る必要ないと思うんですけど
乗らざるをえない状況に
自分たちは その所領があるから
もう巻き込まれていってしまうという
感じなんですね きっと。
場所がよすぎる。
小田城を奪還し
反北条の姿勢を貫く氏治。
そんな中 ある武将の登場が
関東の情勢を大きく変える。
越後の長尾景虎 後の上杉謙信が
関東への侵攻を開始したのだ。
永禄3年 謙信は
北条に敗れた関東管領の
失地回復を名目として
北条の討伐に向かった。
この時
関東の武将250名余りが 謙信方に参陣。
その中には
小田氏治の名もある。
敵の敵は味方。
北条をたたく好機と
捉えたのだった。
だが 総勢11万の兵をもってしても
北条の本拠地
小田原城を攻略することはできず
謙信は 越後に撤退してしまう。
改めて北条の強さを知った氏治は
ここで 思わぬ策に出た。
これは 氏治が 近隣の武将に送った書状。
「小田は北条氏康と和睦した」。
なんと 上杉から北条へ寝返ったのである。
恐らくはですね 上杉謙信は
季節ごとに 関東に出てくるような
形だったと思うんですけれども
北条の場合は もう日々ずっと
どんどん北関東に圧迫をかけてるような
形になりますので
やっぱり 上杉につくよりかは
北条についた方が
有利なんだろうという判断によって
北条側についたんだと思われます。
ところが…。
この裏切りに 上杉謙信は激怒する。
永禄7年 謙信は軍勢を送り
小田城を包囲した。
無類の戦上手として知られる謙信
その攻撃は すさまじいものだった。
こちらがですね…
この手前側の土みたいなものなんですが
これ 焼けた土壁のかたまりになります。
あと こちらの方の陶磁器は
かなり焼けただれておりまして
こういったものが…
その時はですね
上杉謙信側の史料なんですけれども…
…というような記録が残っております。
謙信の圧倒的な武力を前に
負けを悟った氏治は
この時 自害を決意したという。
だが 当主の命を守らんとする
重臣の強い説得によって
氏治は 城から脱出。
またしても土浦城へと落ち延び
家臣に かくまわれることになった。
小田家臣団の結束は固かった。
氏治が 何度 戦に敗れても
変わらずに支え続けたその姿は
敵からも称賛されるほどだった。
「小田の代々の家臣には
有能な者が多く
彼らが 小田の家名を
守り続けている」。
更に こんな記録も残されている。
「小田城周辺の百姓や町人は
もとの領主を慕い
年貢を新しい領主に渡さず
ひそかに氏治へ運んだ」。
領民たちにとっても
常陸国を治めるのは
小田氏以外にありえなかったのだ。
落城から1年 氏治は再び決起する。
かつての領民たちの協力を得て
小田城の周囲の町場に
兵を潜り込ませた氏治。
夜になって 城の各所から
一斉に攻め込み
2度目の小田城奪還に成功したのだ。
北条 上杉という強敵たちを相手に
死闘を繰り返す氏治。
先祖伝来の城と領地を巡る戦が
収まることはなかった。
次に小田城を狙ってきたのは
長年 氏治と
境界争いをしてきた佐竹義重。
鬼佐竹と呼ばれた
戦国を代表する猛将である。
永禄12年 佐竹義重は
2度にわたって小田城を攻撃。
この時は 氏治は
佐竹を撃退することに成功。
その勢いに任せて
佐竹領への反撃に出る。
しかし 筑波山麓を進んだ小田軍を
思わぬ攻撃が待ち受けていた。
佐竹が 山中に潜伏させていた兵が
一斉射撃を浴びせかけたのだ。
この攻撃に 小田軍は敗走。
更に 守りの薄くなっていた小田城を
佐竹が用意していた
別働隊に奪われてしまう。
巧妙な策に はまった氏治は
三たび 小田城を
失うことになったのである。
平山さん
これだけ 大事な大事な小田城を
何度も奪われてしまうと ちょっと
氏治は 戦がお下手なんでしょうかと
思ってしまうんですが…。
戦が下手よりも 運が無いんですよね。
運が無い。
ええ。 というのは…
これに 上杉方は劣勢気味なんですよね。
そういう状況下で 氏治は
上杉方から北条方へ
くら替えするという選択をするんです。
それはですね あの当時の状況を見れば
極めて有利な選択。
もし かえらなければ 小田領が今度
北条から攻め込まれたということは
これ 想像に難くないんです。
北条にとっては
自分のところへ転んでくれたので
これは 謙信に対する復讐戦をする上で
非常に重要なポイントになった。
ところが 佐竹と上杉の連合は
これをやられたら たまらないというので
すぐに ここを奪い返しに来る。
これに…
そういったところに
運の悪さと同時にですね
氏治の実に間の悪いところっていうのが
あるような気がするんですよね。
ちょっと 一つ
キーワードを挙げるとするなら
現状維持バイアスっていうことが
想起されるんですけれども。
新しいものに利があると思っても
安心 安全 安定が失われることを
損だと思うから
新しいその利益をもたらすものを
受け入れられないという
そういうバイアスのことなんです。
こういう心の在り方とか
こういうバイアスにも
一定の利益があるんじゃないか
というふうに思うんですね。
考えられるんですよね。
そうすると この小田氏治は
負け続けているように
見えるんだけども
意外と生存戦略としては
ありなんじゃないかというふうに
自分は思うんですね。
スーパースターだけが
勝ち上がっているわけじゃない。
戦国武将って やっぱり かっこいいから
すごく連戦連勝の人ばかりに
目が向くんだけれども
でも そういう人
意外と末路は悲惨だったりする。
そうですよね。
しかし そんなボスである氏治のことを
家臣や領民たちは
どんな思いで見ていたんでしょうね。
在地勢力の強さっていうのはありますし
で 庶民
この時代であったら 領民にとっても
やはり
昨日と同じ明日が来るっていうことが
一番うれしいって考える。
これって 昔も今も 結構少なくない感想
考えなんじゃないかと思うんですよね。
だから慕っていくことができると。
そうですね。
で そして その領域の中では
非常に これまで
面倒見も よかったのかもしれないし
決して非道なことは
してこなかった領主だからこそ
どこの馬の骨とも分からない者に
統治されるよりは
この殿様にいてほしいというのが
この現状維持バイアスですし
ある意味では その局面では
合理的かもしれない
というわけですよね。
日本という国土の人々っていうのは…
自分とは何かって言われたら
いや 小田氏の分家の子孫だとか
小田氏の家臣の子孫とか 小田氏から
手柄を褒めてもらった自分の家とか
そういう考え方をするわけです。
そうすると…
あそこで やっぱり やって来ると
もう一回
小田さん もり立ててあげようって
気持ちに みんな なるという状態に
なるんだと思うんですよ。
そうか アイデンティティーが
崩壊してしまうんですね。
そうです そうです。
平山さん 非常に面白い人物ですね。
彼は まあ
意識する しないというのにかかわらず…
小さい豪族同士が争うような時代から
大国を巻き込んで
自分の領土を維持する時代へ。
そして 同じような構図で
謙信がやって来る。
どっちにつくかという時代。
やがて 謙信も北条も
あてにならなくなってくる
という時代が来るんです。
さあ 小田城を奪われた氏治は その後
何度も 佐竹に戦いを挑みますが
城を奪い返すことはできず
20年が過ぎてしまいます。
ところが 戦国最強ともいえる
あの武将の登場が
氏治の運命に転機をもたらすんです。
小田城を佐竹に奪われて20年。
氏治は 忠誠厚い家臣たちに支えられ
領内の城を転々とする日々を送っていた。
そんな中
関東の武将たちの運命を左右する
大きな動きが中央で起こる。
九州を勢力下におさめた豊臣秀吉が
全国統一の総仕上げとして
関東平定へ乗り出したのだ。
天正17年 北条の討伐を決定した秀吉は
関東の武将たちに
小田原攻めへの参陣を命じる。
これに対し かねてから
秀吉と懇意にしていた佐竹は
いち早く 小田原へ向かうことを決定。
それは 20年もの間
小田城奪還を
ねらい続けてきた氏治にとって
願ってもないチャンスだった。
60歳となり 老境を迎えた小田氏治。
その心の内に分け入ってみよう…。
にっくき佐竹は
秀吉に従って北条攻めに向かうと聞く。
この絶好の機会を逃すわけにはいかぬ。
今こそ兵を挙げ
小田城を奪還するのだ!
あの城を取り戻すことは
鎌倉以来続く 我が小田氏にとって
何としても
果たさなければならぬ使命である。
秀吉のような卑しい男の
言いなりになるわけにはいかぬ。
だが ここで小田城を奪ったとて
秀吉が北条を討伐した後は
どうなるであろう。
再び城を取り上げられることは
目に見えて明らかだ。
ここは秀吉に従い 北条を倒した後に
かつての領地回復を
願い出るべきではなかろうか。
小田城の奪還に乗り出すべきか
それとも 秀吉に従うか
氏治に選択の時が近づいていた。
小田氏治に選択の時が訪れました。
豊臣秀吉の命令に背き
小田城の奪還に向かうのか。
それとも 秀吉の北条攻めに従うか。
皆さんが
小田氏治の場合 どちらを選びますか。
まず飯田さん どちらを選択しますか?
はい。 私は小田城の奪還に向かう
でいきたいと思います。
正直 小田氏治の状況 八方塞がりと
言っていい状態だと思うんですね。
そもそも
その 本願の地である 小田城を
20年間も失ったままであると。
で 更に 中央から秀吉が攻めてきて
この関東の秩序も大きく変わる。
もうほとんど 取れる選択肢が
ないからこそ 勝負でもありますし
ずっと この人の行動原理って…
最後 結果 終末どうなるにせよ
人生の もう老境 最後に
もともとの
本願の地というのを回復して
最後のひと勝負というのを
かけてみたいと
思うんじゃないかなと。 はい。
小田城奪還ということですね。
平山さんは どちらを選択しますか?
はい。 私は 秀吉の北条攻めに従うを
選びたいというふうに思います。
秀吉に逆らったら
一体どういうことになるか。
例えば
会津黒川を攻め落とした 伊達政宗も
苦境に陥っている
という状況にあるわけです。
ですから
ここでも 新たな時代を迎えている
目の前にそれが来ているという以上…
…だろうというふうに
私は そう思います。
さあ 中野さんは
どちらを選択しますか?
1の小田城奪還に向かうを選択します。
恐らく
自己肯定感の高い人だと思うんですよね。
というのは 負けても致命傷にならないと
どっかで思ってただろうと。
自分の血筋も
すごくいいことを意識しているし。
でも それを別に鼻にかけてた人では
ないんでしょうけど
こんなに 慕われてるということは。
なんだけれども
みんなも そこを信頼してる。
やっぱり悲願ですよね 小田城はね。
やっぱり 有能な家臣たち 口をそろえて
殿 取り返しに行きましょうよ
っていうふうに言われたら
これは… いやいや 今は雌伏の時じゃ
と なかなか
言いにくいのではないだろうか。
そうですね。
磯田さん どちらを選択しますか?
私は 2の
秀吉の北条攻めに従うを選びたいです。
まず 小田城を取りに行って
よしんば 奪還できたとしても
北条氏に残ってもらわないと
北条の城が落ちちゃったら
また秀吉が攻めてくるわけですから
刃向かったことになるわけですから
駄目ですよね。
もし秀吉が
北条氏と講和になったとしてもですね
それで 小田城を
攻め取れてたとしてもですよ
僕は難しいと思いますねえ。
これまでね。
自分に対して…
…っていうのは 信長から
しっかり受け継いでますからね。
だから 天下様のためなら
どこにでも行きますし
何でも奉公しますというだけを
ういやつじゃのう と言って
扶持して 知行を与えていく
領地を与えていくっていうことですから。
小田氏が ここの土地で
頼朝公より
古くからいるんだっていうふうに
秀吉に言ってもですね 秀吉にとっては
それは かえって嫌なことであって
通用しないと思うんですよね。
さあ それでは 小田氏治が取った選択を
ご覧いただきましょう。
天正18年
豊臣秀吉は北条を攻めるべく
関東の武将たちに
小田原への進軍を命じた。
そのころ
小田氏治も軍を率いて出陣。
彼が向かった先について
こう記されている。
「小田氏治は
常陸国 ノ口で戦に及んだ」。
ノ口とは 小田城本丸から
およそ1キロほどの場所。
氏治は 秀吉の参陣命令に背き
小田城の奪還へ向かったのだ。
小田氏治 人生最後の大勝負だった。
佐竹の兵の多くが
北条攻めに向かっていたこともあり
小田軍は優勢に戦いを進め
小田城へと侵攻していく。
だが 氏治はそこで
小田城の思わぬ姿を目の当たりにする。
大体 50メーター四方
ぐらいありまして
ここに兵隊とか馬を
ためておいて
一気に攻める時は
ここから出ていくと
いうことになります。
かつては
中世の豪華な屋敷の趣であった小田城。
それを
佐竹が 城を奪った後に全面的に改修。
池を埋め 出入り口に
馬出しと呼ばれる施設を築き
戦いのための城へと
つくり替えていたのだ。
やっぱ時代の流れの中で 今までの…
…というのが こういうとこに
出てくるのかなって気がしますね。
生まれ変わった城の 堅い守りに阻まれ
氏治の小田城奪還作戦は失敗。
一方 小田原城を包囲した秀吉は
半年足らずで北条を降伏させ
関東平定を達成。
氏治にとって最悪の展開となった。
北条攻めに
参陣しなかったことをとがめられ
全ての所領の没収が決まった。
しかし
ここで氏治は 一か八かの賭けに出る。
秀吉を追い 自ら謝罪を申し入れたのだ。
その結果 秀吉は氏治を許し
小田家の存続が認められることとなった。
波乱の人生の末
慶長6年に亡くなった氏治。
71年の生涯を全うした。
彼が後世まで
小田の領民に慕われ続けたことを示す
史料が残されている。
こちらは 小田氏治 法名天庵
といいますけれども…
寛延3年に行われた 氏治の150回忌。
ここに記されているのは
かつての小田領の村人たちの名前。
100人以上の村人が参加し
盛大な式典が執り行われたのだ。
戦国最弱と
蔑まれることもある小田氏治。
だが 戦の強さだけが 戦国武将の
真の価値ではなかったのかもしれない。
いや~ 平山さん。 私は それでこそ
氏治だって思ったんですけれど
この選択。 どうでしょうか?
あの当時の状況を見たら
秀吉に逆らったら
どういうことになるかというのは もはや
分かりきってる話なんですよね。
にもかかわらず
武門の意地を貫こうとした
とも言うんでしょうか。
あるいは 多くの家臣と そして…
完全に目が曇ってしまったというふうに
私は どうも思えるんですよね。
あ~。
いや~ でも しかし 先ほどの映像で
20年も奪い返したくてたまらなかった
自分の小田城が
佐竹仕様に変えられていた時の
切なさって
磯田さん 結構 計り知れなかったかなと
思うんですけど。
あれねえ 本当 最新型で。
本当に落としにくい城ですよね。
私もあそこの かなり復元が進んでいった
小田城を見て驚きました。
これは ちょっと無理だわと
思いましたね。
近世の絵図を見ると…
多分 見た瞬間
何だこれはっていうふうに
思ったような気がしますけどね。
知ってたかもしれないけど 何か
オリンピック精神じゃないけど
あれ 本城奪還に攻めかかることに
意義があるみたいなね。
やっぱり ちょっと その
理念的な問題を考えないと
説明がつかないと思います
小田氏治の行動っていうのは。
勝つことが目的じゃない戦っていうか
何だろう 見せ戦みたいな。
意外と見られることも
意識していたのかもしれないですよね。
いや それも多分ね 対象は
自分の声の届く範囲だと思うんですね。
…というふうに考えると 非常に
全てが納得できるんですよ。
…だから いいんです。
気にしない。 知らない。
宇宙の外で何が起こっていても
どうでもいいし。
自分が死んでしまったら
もう その宇宙も終わるから
結局 同じことなんです。
戦う以外に 多分 この人の選択は
なかったんだと思います。
だから そうして秀吉に逆らってまで
城を奪い返そうとしたわけですけれど
結果的には 秀吉に許されて
71歳まで生きることになります。
どうして 小田氏治は
殺されなかったんですかねえ。
もう こんなことまでして 頭下げて…
頭下げることができるんだったら
最初から
下げておけばいいじゃないかっていう
考え方もあるぐらいですけど。
…っていうのは
すごくやっぱり ミステリーなんですね。
いや 僕はねえ
ちょっと気になるのがねえ
秀吉は
そうじゃないかもしれんけど
こういう豪族って 生き残る時に…
一つがね 先ほど来 出てる
領内でのソフトパワー。
これはもう最強ですよ。
最弱とか言っときながら。
領民にひたすら崇敬されてる。
娘?
こういう名門大名だと
縁組みをすると 縁組みして
お嫁さんにもらった側はね 小田家から
偉くなったふうに思えるわけですよ。
秀吉が関東 入ってきた時に
やっぱり
いろいろな伝承として残ってるのが
旧足利の名門の娘だとかに連なる
名門の娘だとかが
秀吉のもとに行って そのかわり
実家を 安全を確保してもらうだとかね。
だから やっぱり この縁組みの
お嬢さんたちの力っていうのが
実はもう一つの命綱
小田氏のパワーとして
働いている可能性はありますね。
そしてもう一つはですね 結構この
最終的に…
全く何の力もない状態ですので
まあ 生きてようが生きてまいが
どっちでもいい 秀吉にとっては。
これ 本当に ある程度
何らかの力を持っていたら
それは排除しなければいけない。
これは
ニッチ戦略の基本なんですけれども
大勢力にとって うまみがあったり
脅威を感じるようなものは
それは全力で潰しておかなきゃ
いけないわけなんですけど。
すごく雑な言い方をすると
眼中になかったので
それこそ
それでいて名家であってっていうのが
命を長らえた理由でもあるのかなあと。
一見 勝っていないから
弱くも見えるし
何か波に乗り損ねてるね
っていうことで
古くさい人だというふうに
思う人もいるかもしれませんが。
しかしですね 新しいことは
本当にいいことなのか
ということも同時に思うんですね。
新しい知識を入れて
未知のものをどんどん こう取り入れて。
新しい方略 それから戦略で
勝ち上がっていくということが
どんどん勢力を拡大していくことが
よしとされた時代って
20世紀ぐらいまで続いて
で 今ようやく
それって SDGsじゃないんじゃないって
ようやく言われている。
で 実は…
自分の 文字どおり手の届く範囲の
人たちを大事にして
で その 声の届く…
…っていうことを 何か
見せつけられたような気がしまして。
何か戦国時代の武将って どの武将も
魅力的だと思うんですけれど
やっぱりどこかで 勝った負けたで
物事が語られていて
こういう存在の人って どちらかというと
埋もれていく存在だと思うんですよ。
戦国武将って もっと多彩なんだなって
思いましたし 人物像が。
僕らは しばしば 強いか弱いか
勝つか負けるかで
歴史を 先ほど出ているように
捉えがちです。
でもね 本当は重要なのは
この人たちは 何を大事に生きてるか
何を高い価値とするかっていうことの
分析って非常に大事なんです。
それで 小田氏は
負けたように見えるけれども
あれ 毎回 何で逃げるかっていうと
討ち取られて 家系が絶えてしまうことを
恐らく恐れているんだと思います。
それで また 小田氏のような
あの八田知家の子孫が
しっかり残っていることに関して
あの秀吉でさえ
やっぱり
尊敬心を払ってるんだと思うんです。
だから 小田は助けられるわけです。
そういう点で言うと
領地は失ったものの
命も家系も残って
生き残ったわけですから。
小田氏治が一番大事にしてるものは
領地の次 以上なのは
家系の永続ですから。
彼は目的を達したという点では
ひょっとすると
勝者だったのかもしれないと
いうふうに思いますね。
では皆さん
本日はありがとうございました。
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