出典:EPGの番組情報
先人たちの底力 知恵泉「雪舟 失意の都落ち?!天才画家の逆襲」[解][字]
混沌とした室町期。当時の画壇にフィットせず「落ちこぼれ」の雪舟。後世に残る画聖はいかにメジャーになったのか?おきて破りの大胆さを貫いた雪舟のサバイバルの知恵とは
番組内容
国宝6点、他の画家に比べダントツに多い雪舟。だが若き雪舟は足利将軍の求める京都で主流の繊細な絵が描けなかった。転機は失意の中、都を去り山口大内氏の元で本場中国に渡ったこと。彼の地で「逸脱と非常識な画」を吸収し運命が変わっていく。そのより所となったセルフブランディング術とは?報道とエンタメ…対極にみえる世界を知る古舘伊知郎と画才あふれる中川翔子が雪舟の自己プロデューステクニックを徹底解剖、語り尽くす
出演者
【出演】古舘伊知郎,中川翔子,清水克行,【司会】新井秀和ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
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- 雪舟
- 名前
- 自分
- 中国
- 水墨画
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- 山口
- 当時
- 評価
- ブランディング
- 出会
- 人生
- 表現
- 本当
解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)
「知恵泉」も もう少し
知名度が上がればいいんだけど…。
今日は 室町時代の水墨画から
話をときおこしていきましょう。
水墨画とは 墨の濃淡で表現する絵画。
その代表的な画家が…
日本における水墨画の発展に
大きな功績があり
6点もの作品が 国宝に指定されています。
個人としては 最多の数。
別格の存在。
作品もすばらしいのですが
「雪舟」という名前がまたいいですよね。
名前の響きだけで
絵のありがたみが違ってきます。
私だって 名前が「雪舟」だったら
酒も料理も すごくおいしそうな気が
しないですか…?
うん… 名前は大切。
ちなみに「雪舟」というのは
本人が付けたペンネームだそう。
本名は 一説によると「源太」。
これだと 巨匠感は やや薄れる感じ。
名前によって人生が左右されることって
あるんでしょうか。
というのも 「雪舟」と名乗る以前は
絵が不評で 師匠からは認めてもらえず
人生に行き詰まっていたようなのです。
大逆転の陰には
ある知恵が秘められていました。
雪舟の知恵に迫るのは…
プロレス中継に
あらゆる斬新な表現を持ち込み
革命を起こした古さん。
しかし 会社では評価されず…
孤立し 結局は退職することに。
フリーになってからは
変人パワーを逆手に取り
アナウンサー テレビMCの世界で
独自の境地を開拓。
今では俳優活動も。
ゆたか興行の…。
不遇に腐らず
諦めないでチャレンジし続けた
天才画家の知恵を
どう読み解くのでしょうか。
いや~ いらっしゃいませ。
どうぞ どうぞ
ようこそ いらっしゃいました。
今日は ありがとうございます。
いや~ 今日は雪舟ということで
ちょっと その名前に
注目していこうかなと思ってまして。
名前といったら古さん 何と言っても
今 「日本人のおなまえ」も。
そうですね。 先生にも
すごいお世話になって。
そうなんですよね。
ご無沙汰です。 明治大学の
清水克行先生ですけれども
番組でも ご一緒…。
はい 何回も。
ということでね。
でも 名前なんですけれども
お二方 テレビ出てらっしゃって
いわゆる芸名っていうわけでは
ないんですか? 中川さんなんかは?
私は もともとの名前が…
役所に届ける時に
使おうとしてた人名が使えなくて
役所の人と窓口で ちょっともめて
ひらがなで なぐり書きしたら
「よ」が大きくなってて
「しようこ」っていうことで
ちょっと それ大人になってから知って
ずっとショックなまま生きてますね。
せめて芸名では
漢字の翔子になってるので…。
でも 名前がかっこいい人は
本当に羨ましいです。
古伊知郎っていうのは
漢字も含めて
すごくかっこいい感じがしますけど。
そうですか。
人間って 自分のあれは嫌なんですかね?
何か カクカクしてて
もっと短い方がいい。
生島ヒロシっていう方がシンプルで
ぐっと来ないですか?
古伊知郎って長くないですか?
その分 長広舌になってベラベラ
しゃべり過ぎるんじゃないかと思う。
なるほど! ということで 今日は
雪舟という名前なんですけれども。
雪舟は ペンネームとしては
かなり有効だったと
いい方に働いた名前だった
ということなんですが
天才画家とはいえ その人生は
決して楽なことばかりではなかった
ということで その辺り
どんな知恵で乗り越えたのかを
今日は見ていこうと思うんですが
さあ 今日も
当店の特別メニューを
ご用意いたしました。
これで今日は ちょっと
作ってみようかなと思うんですね。
はい こちらです。 どうですか?
どうですかって言われても
捉えようがないですよ 新井さん。
ナン?
そうですよね。 すみません。
ナンとレモンとミート。
これを3つを使って ちょっとメニューを
作ってみようかなと思いまして。
ちょっと名付けて こんな感じです。
ドドン。 はい そのままなんですけどもね。
そのまんまですね。
謎の番組に迷い込んじゃったな。
まあ どういったものになるのかは
ちょっと知恵を見て頂くと
分かると信じて
最初の知恵からご覧下さい。
雪舟 晩年の傑作…
難解なタイトルの意味は…
この人が その慧可さん。
自分で切り落とした左腕を持っています。
達磨の弟子にしてもらうために
本気であることを示すための行為でした。
この絵を雪舟の最高傑作と断言するのは…
顔の複雑さとは対照的に
シンプルな線だけで構成された胴体。
♬~
「慧可断臂図」を雪舟が描いたのは
77歳のころ。
高齢になっても
クリエーティブだったんだな…
と驚くのは まだ早い。
実は 国宝に指定されている作品全てが
雪舟 65歳を過ぎてから描かれたもの。
大器晩成型というか… きっかけでも
あったのでしょうか。 そこで!
雪舟が 子どものころ入門した寺。
岡山の宝福寺。
小さいころから 絵がとてもうまく
こんな伝説が残っています。
修行をサボり 絵ばかり描いていた雪舟は
ある時 叱られ
お仕置きで
お堂の柱に縛られてしまいました。
ポロポロと涙をこぼしていたのですが
涙でできた水たまりを見て我慢できず
足の指で絵を描いてしまったのです。
「そろそろ反省したころだろう」。
縄をほどこうとした和尚
絵を見て びっくり!
「ネ… ネズミがいるぞ!」。
(ネズミの鳴き声)
時代は 雪舟にとって追い風でした。
芸術を愛する足利将軍家のもと
さまざまな文化が成熟していく中
水墨画も広く受け入れられるように
なっていたのです。
絵の才能を見込まれた雪舟は
京都でも最高の禅寺の一つ
相国寺に迎えられます。
この時代 芸術や学問の中心は
寺だったのです。
相国寺には 当代きっての
水墨画の名手 天章周文がいました。
将軍家からの信頼もあつい
師匠につけるなんて…。
水墨画家の「勝ち組コース」に
トントン拍子に進む雪舟。
何度言っても分からんか。
こんな絵は 公方様は好かんのじゃ。
待ち受けていたのは…
こちらが周文の作と伝えられる
水墨画です。
淡く靄がかかったような
世界を
繊細で緻密な筆遣いで表現する。
当時 理想とされた絵だとすれば…
雪舟の目指す方向とは
相いれなかったのかもしれません。
また相国寺は パトロンである将軍家に
喜ばれることが優先で
新しい表現などは
求めていなかったのです。
雪舟も仕事と割り切って粛々と描けば
問題なかったのでしょうが…。
どうしても…
雪舟は…
なんと…
自分の信じる
画風を追求するため
全てを捨て…
この時 既に30代半ば。
かなりの覚悟です。
新たな拠点にしたのは 周防。
現在の山口です。
当時 周防は
守護大名 大内氏の城下町として
栄えていました。
豊かな経済力を背景に
山口を京都のような文化都市に育てようと
大内氏は考えていました。
京都で あの周文に学んだ雪舟を
大内氏は喜んで迎えました。
恐れ入ります。
新天地 山口で
雪舟の作家人生が変わり始めます。
自分のアトリエを与えられ
以前より伸び伸びと
気兼ねなく絵を描くことが
できるようになったようです。
そんな雪舟の運命を決定的に変える
出来事が起きたのは 48歳の時。
おお 雪舟。
あっ!
よいよいよい!
明国に行ってみぬか?
絵の勉強にもなると思うがのう。
日本と明の間では 細々とですが
貿易が行われていました。
雪舟が仕える大内氏は
幕府から その許可を得ていたのです。
とはいえ この時…
高齢で
生活も安定している今
海を渡ることへの不安も
あったことでしょう。
それでも 水墨画の本場に行きたい
という好奇心には勝てませんでした。
チャレンジを続けずして
何のための人生でしょう。
こうして 雪舟はついに
中国の土を踏むことになります。
水墨画を学ぶ者にとって
最高の夢を実現させたのです。
運も 雪舟に味方します。
当時 明国へ船が出るのは
およそ10年に1度。
めったにないタイミングで
どうして声がかかったのでしょう。
幸いなことに 絵師の枠があったのです。
写真のない時代 旅先の様子を
正確に絵で記録する人が必要でした。
今で言うならば…
この時 雪舟が描いた
中国の様子が残っています。
人々の民族や身分による
装いの違いを記録したもの。
韃靼はタタール モンゴルの遊牧民です。
王に 僧侶など。
身分や職業による装いの違いも
細かく観察しています。
風景も記録しています。
今も蘇州に残る
長さ300メートルを超える
宝帯橋なども描きました。
こうした絵は 日本国内の人々にとって
異国の様子を知る
貴重な情報源になりました。
雪舟は 貪欲に吸収しました。
これは 中国滞在中に
雪舟が描いた作品。
ゴツゴツして 躍動感あふれる岩山の構図。
ダイナミックで力強い筆遣い。
ぐいぐい引き込んで
離さない魅力があります。
若いころの作品と比較すると
迫力や勢いが全く違います。
この画風の変化は
何を意味するのでしょうか。
中国で雪舟は
数々の水墨画を目にしています。
中でも「浙派」と呼ばれる
画家グループの作品に出会って
衝撃を受けたようです。
浙派の特徴は ひと言で言えば…
豪快な筆遣いで
一気呵成に描かれています。
私は これが描きたかったのだ!
繊細で緻密な筆遣いでないと
いけないのか…。
ボ~ッと靄がかかった風景が
全てなのか…。
浙派との出会いで 京都 相国寺以来
長い間抱えてきた
トラウマが吹き飛ばされ
勇気を得たのがうかがえます。
50歳で帰国した雪舟は
もはや臆することなく
自分の描きたい絵を描くことに
まい進していきます。
立体的に
線と面がせめぎ合って
奥行きを作る
独特の構図が
こうして生まれたのです。
雪舟の研究者 荏開津通彦さんは
同じテーマで描かれた
2枚の絵に着目します。
こちらが 中国に行く前の作品。
そして こちらが
帰国後の作品です。
(荏開津)強烈な奥行き感を作り出すことが
できたのかと。
雪舟ならではの…
「何でも見てやろう」という
貪欲な精神が
水平線を何本も想定する
独特の画法を生み
平面の絵に
立体感や躍動感を感じさせる
新たな表現へとつながっていきました。
眠っていた才能を呼び覚まし
日本の水墨画の表現に革命をもたらした
雪舟の知恵です。
例えば あの面壁する達磨大師が
そこに弟子入りを願うっていう
あの有名な絵ね。 あれ もう本当に
奥行き すごいじゃないですか。
表情とか奥行きとかが
微細に描かれていて
そして 達磨大師のまとってる衣が
オバケのQ太郎みたいですよね。
漫画っぽいですよね 何か。
シンプルですね。
あのメリハリっていうか落差…
僕は絵のこと分からないんだけど
ものすごく翻弄される気がするんですよね
見てて。 あれ何ですかね?
あと やっぱり ちっちゃいころから
「三つ子の魂百まで」もで
ちっちゃい時
涙で廊下にネズミを描くでしょう。
あれは 室町のバンクシーですよね。
確かにネズミ。 そうですね。
壁か床かっていう。 すごいなあ。
でもね そんな作風になったのも これが
あったからなのかもしれないんですが
ちょっといい香りがしてると思いません?
出来上がってるんですよ。 あらら。
特別メニューが ナンとレモンとミートで。
これ どういうことかといいますとね
「ナン レモン ミートでやろう!」
これは ナンレモミートでやろう…
ナンデモ… なんでもみてやろう…
ということが 実は言いたかったんですが。
動機が分からない…。
(笑い声)
いや 「何でも見てやろう」っていうのが
いわば…
…みたいなところかなと
思うんですけれども
そういう視点で中川さん どうですか?
この雪舟の生き方っていうのは。
もう衝撃を受けました。 いくつになっても
何をするにも遅いはないっていうのは…
勇気の言葉ですし あとは師匠に
これじゃダメだって否定されたこと
それって 自分の好きなことを
誰かに否定されると
本当に今までって何だったんだって
そこで折れちゃう人も
多いと思うんですよね。 自分も振り返ると
アニメが好きとか学校で絶対言ったら
いじめられちゃうとか そういう時代も
あったなと思うんですけど
それをSNSでアニメが好きとか
発信するようになってからは
すごく息が吸えるようになって あっ
学校の外に こんな人たちがいたのか
何だ 言っていいんじゃないかって
気持ちが ある日 突然
ガッと変わる日がある。
それは 雪舟にとって
中国に行ったことも
全てが経験値となっている。
…っていうのが すごく絵に残ってるので
かっこいいですね。
やっぱり そのとおりだよね。
何て言うのかな。
それも結果論になっちゃうんだけど
やっぱりオーソドックスな
常識的なと言ったら悪いかもしれないけど
お師匠さんがいて
抑圧もあるわけじゃないですか。
水墨画かくあるべきみたいな。
でも結果として抑えつけられている
ストレスがたまるっていうことが
ものすごいエネルギーに転化して
ひっくり返って バ~ンと中国行って
「これだ!」っていうふうに出会った時に
これまでの…
無駄なことはないっていうね。
いや 中川さんも まだまだ
チャレンジしたいことがあるっていう
ことですか? これから先。
そうですね。
遅いなんてないっていうふうに
言って頂けるんだとしたら
ずっとワクワクしていたいな
雪舟のようにっていうのは
今 思いましたし 例えば 絵を描くのも
子どものころと違って
またデジタルで描けるようになったりとか
いろいろ便利になったりしましたけど
筆ペンで描くのが一番楽しいなとかも
やっぱり最近 改めて感じたりとか。
いや 筆ペンでって
お話があったんですけどね
実は ちょっと
その映像をお借りしておりまして。
こちらなんですけれど。
えっ お恥ずかしい。
これ 動画投稿サイトで
私たちも見られる動画なんですけど。
子どもたちがマネできるように。
何か 絵を描く時って
普通のペンより
筆ペンの方が柔らかかったり
自分のアナログ感が出るから
いいなと思って好き…。
わ~ すごい。
いや 恥ずかしい。 雪舟のあとに 漫画を
描いちゃうの 恥ずかしいんですけど。
雪舟込みで見てます 今もう。
いやいやいや! めちゃくちゃ恥ずかしい。
水墨画として見てます。
いやいやいや!
でも筆のよさっていうのはデジタルを経て
今 改めて思いますね。
肉筆が残ることって すごい大切だし。
う~わ
かわいい達磨大師ですよ これ。
(笑い声)
達磨大師ちゃん。
いや だけど やっぱり名前大正解ですよ。
何でもしてみよう。
「しようこ」ですよ。
(3人)あっ!
意味が出たかもしれない。
チャレンジなんですよ チャレンジ。
古さん ありがとうございます。
つながってきますね。
今 つながった完全に。
何の意味もないと思ってたら。
でも とはいえ雪舟 ちょっと長い人生を
一気にギュッと凝縮して
見て頂きましたけれども 若いころは
なかなか お師匠さんとも合わなくて
っていう時代もありましたよね。
うん。
僕なんか 29まで テレビ局に民放にいて
それから調子に乗って
フリーになるわけですけど
やっぱり さっき言ったように
今思うとね 会社の中で
あんまり評価されてないんですよ
その時代。 今から40年も前ですから…
もっと前かな? だから やっぱり
プロレスで ちょっと実況で
オーソドックスなスポーツ実況から
外れたことをしゃべると
毎回怒られるんですよ。
当たり前なんですよ。
例えば 「タイガーマスク
四次元殺法!」とか言って
「4次元じゃねえぞ!」って
怒られるわけですよ。
3次元を生きてるんだ。 そのとおり。
来週は生中継で ちゃんと
そう言いますと。 また四次元殺法って
言うと また怒られるんですよ。
だんだん だんだん こっちも萎えてくるし
組織側も「何だ あいつ」みたいに
なるじゃないですか。 当然ですよ。
それで辞めちゃうんですけど。
評価されてたら
それで満足してたと思うんですよ。
だから僕は もう何か
ずっと雪舟が うじうじしてたって
言ったら失礼だけど 天才に対して。
そういうところも すごく
全てエネルギーを醸成する場に
なったのかなって思っちゃうんですよね
勝手に。
なるほどね。 その抑圧がパワーになる
ということですよね。 でも何て言いますか
今 なかなか上から下に
これはよくない
あれはよくないっていうのを
一方的に叱るのもよくないのかな。
言い方ですかね。
強くバシッじゃなくて
こうしてみたらとかの
アドバイスの世の中になってきたな
っていうのは思うけれども…
そうですよね。
でも やっぱり
中国行く船に選ばれたっていうぐらい
ちゃんと見てくれてる人も
評価してくれてる人もいたっていうのが
よかったですよね。
そういう人に ちゃんと…
まあ 人徳があるんでしょうね。
ちゃんと そういう人と出会って
お殿様と出会って 行けるんですもんね。
向こう行った時は 法廷イラストの画家
みたいになってるわけでしょ?
そうですね。
明の時代を
そのまま即座に描くことによって
ちゃんと日本に情報を
先生 もたらしてるわけですよね?
そうですね。
だから相当な任務をしょってったのかな。
ですよね。
あの絵 ご覧になって
感心されてましたもんね。
いや~ いろんな人が… プロレスラーの
コスチュームみたいに見えてきて
こんなにバラエティー豊かな
世界だったのかって
ちょっと改めて思っちゃった。
でも 任務を持ってってことでしたけど
当時の中国 明に行くっていうのは
これ イメージとしては
どういう感じだったんですか?
当時の中国って基本的に
国家間の貿易しか認めてないんですよね。
勘合っていう証明書を持ってる人としか
交渉しないんですよ。
だから基本的に外交っていうのは
政府 対 政府なんで
民間の貿易っていうのは
原則ないことになってるんですよ。
だから もし日本人が
中国で絵画を学ぼうと思ったらば
国家使節団に潜り込まないと
できないんですよ。
だから相当高いハードルの中
潜り込んだっていうことですよね。
雪舟が中国に渡ったのが 一つには
そういうカメラマン的な役割っていうのも
あるんですけど もう一つあるのは
美術工芸品を買う時に値踏みをしなくちゃ
いけないんですけど
それが分かる人がいないと
いけないんですよ。 なので やっぱり
雪舟みたいな人がついていかなきゃ
いけないっていう
そういう事情があったんですよね。
えっ 何でもできすぎますね!
いい仕事してますねって こうね
見ることができるわけでしょ? これ。
そういう人を連れていかないと
偽物つかまされちゃったりしますからね
だから やっぱり重要な
キャラクターなんですよ そういう人は。
じゃあ いろんな役目をしょいながら
自分の芸術の世界の探求をメインにして
行ってるわけですね。
マルチ。
VTRだと
運よく中国に行くチャンスが
巡り込んできたっていう感じでしたけど
どうも最初から大内のところに行く時点で
中国で一旗揚げようっていう
そういう意図があったんじゃないか
っていうふうに最近は言われてますね。
まあ 何となく今の話でもね
ちょっと絵がうまいだけじゃなくて
やり方も ちょっとうまいところも
あったのかな なんていうところも
見え隠れしてきたんですが ちょっと
その辺りも もう少し。
作風も天才
世渡りも上手ってことですよね。
そうですよね。
こうなってくると。
どういうことだったのか
続いての知恵 ちょっと見て頂きましょう。
2018年 雪舟が山口に来て
まだ日の浅いころの絵が発見されました。
中央に文殊菩薩。
その左右に2人の仙人を飾る
人物画の3点セットです。
荏開津通彦さんは 晩年の雪舟に通じる
個性の芽が現れていると言います。
非常に何か 骨太なっていうか。
…ということが
この作品の出現によって分かったと。
こちらは 同じ室町時代の人物画の例。
比べてみると 確かに雪舟の絵は
優雅で器用な感じではなく
ゴツゴツと力強い印象です。
冠の形も 正確さよりも
絵としてのバランスを優先させて
変形するなど
京都を離れたことで自由な創造力が
解き放たれていたのかもしれません。
山口に来たタイミングで
雪舟は名前を変えたと考えられます。
実は雪舟の名前 以前は
せっしゅうは せっしゅうでも
こういう字。 ちょっと地味な印象です。
しかし 京都を離れてフリーランスの
画僧としてやっていくとなると
果たして このままで
いいのかどうか。 名前って大切。
というわけで ここで2つ目の知恵。
新しい土地 山口で
新しい人生のスタート。
お城関係に お寺関係
弟子もとるだろうし… と
さまざまなおつきあいが
始まります。
初対面の相手に覚えてもらうには
インパクトのある名前に
こしたことはありません。
そこで見つけたのが「雪舟」という名前。
そう 「見つけた」んです。
作ったわけではありません。
これより100年ほど前のこと。
中国の高名な僧侶が弟子に与えた名前が
「雪舟」だったのです。
ちなみに「雪」と「舟」の出典は
柳宗元の有名な漢詩「江雪」なのだそう。
漢文の授業で習った人も多いはず。
それはともかく
他人の名前を拝借した感じで
このままでは ちょっと居心地が悪い。
そこで雪舟は一計を案じます。
龍崗真圭という
高名な僧に頼んで
「雪舟」という名前について
一筆書いてもらいました。
龍崗真圭のお言葉は…
…というものでした。
ありがたや ありがたや。
これで名前もしっくり来ました。
でも そうなると
この名前をもっとみんなに知ってほしい。
ということで 雪舟は
こんなたくらみをしていたようなんです。
雪舟 76歳の時の傑作。
実は 細長い絵の上の方に
文章がたくさん書いてあります。
これは「画賛」といって
絵の内容に関連した
詩や文を書き添えたもの。
この「破墨山水図」に
画賛を提供していたのは
京都のトップクラスの
高僧たち6人。
おいそれと簡単にお願いできる人たちでは
ないはずです。
このドリームメンバーによる画賛が
実現できたのは
雪舟自らが 裏で動いたからだとも
いわれています。
もともと この絵は
雪舟の弟子の一人が独立し
故郷の鎌倉に帰るにあたって
持たせるためのもの。
弟子は 鎌倉で新たに生徒をとり
水墨画を教える予定でした。
…となれば この絵は
大勢の人々の目に触れるはず。
そこで途中 弟子が京都に立ち寄り
偉いお坊さんからの画賛をもらえば
絵を見た人たちの感動とやる気はアップ。
評判を聞いて 入門希望者も更にアップ!
という雪舟のもくろみ。
驚くのは まだ早い。
実は雪舟 弟子に絵を渡す際
あらかじめ この絵に
中国へ行ったことや
相国寺の周文から
学んだエピソードを
つづっています。
こうすることで
雪舟の存在も
弟子の立ち寄るさきざきで
話題になること 間違いなし。
雪舟自身も方々を旅し
風景を書き残しています。
主君 大内家のため 情報収集をしながら
ちゃっかり自分の名前もピーアール。
水墨画家で群を抜いた知名度の背景には
雪舟本人による
戦略的な活動があったんですね。
今日 雪舟の絵が多くの美術館に
大切に保存され 鑑賞できるのは
「自分が何者であるかを
ブランディングする」雪舟ならではの
セルフパフォーマンスの知恵も
見え隠れします。
中川さん いかがでした?
いや 雪舟の絵の印象から
すごく孤高な存在で他者を近寄らせずに
我が道を行ったのかなって
勝手に思っちゃってたので…。
すごく
歴史上の人物に対して思うんですけど
本当にSNSのある時代に生まれてても
波に乗りまくってただろうなって
トップになってただろうなって。
確かに。
どういう自分ですよっていう個性って…
なっていくために必要なんですもんね。
例えば この肖像画
有名な雪舟のありますよね。
この帽子 変じゃないですか?
時代劇とかに出てくる お坊さん
こういう帽子かぶってる人
いないですよね。 本当だ。
これね 中国のお坊さんがかぶる
帽子なんですよ。
つまり
自分は本場に行ったぞっていうことを
自画像の時にも
常にかぶってアピールするんですよ。
絶対これ 自分でかっこいいと思って
描いてますもんね。
そう お気に入りの帽子だと思うんですよ。
う~わ そういうことか。
あと 発起人も すっごい高僧を
ダ~ッと並べてるじゃない。
よく地方に講演会とか行って
地元の偉い方に会った時の裏返した名刺
いろんな理事長とか専務理事とか
ものすごい数あるじゃないですか。
肩書がね。
ちょっと雪舟入ってますね。
そうかもしれないです。
ということは めちゃめちゃ…
高くないとダメだなっていうのも
思いました。
売り込みもしたんだなあ 自分で。
でもね その…
大内って あんまり有名じゃないかも
しれないですけど
室町幕府が やっぱり応仁の乱のあとに
急激に傾いていくんですよね。
その中で大内って山口県の大名は
西日本 恐らく最強の大名になるんですよ。
やっぱり 日本のキャスティングボートを
握るんですよ 一時期。 それなんで
大名として やっぱり自分の
それこそブランドを確立するために
有能な芸術家を集めようって
そういう姿勢を持つんですよね。
それに多分 雪舟がピタッとハマった
っていうことじゃないかと思いますね。
そのブランディングというのが
ここの知恵だったわけなんですけれども。
古さんは どうなんですか?
長いアナウンサーとしての…。
もう45年になりますね
局アナのころから数えると。
何て言うか ご自身で
ブランディングしてきたのかどうなのか。
もうそれは 全く僕は
そっちの能力はないんですよ。
ブランディング方向音痴と
自分で呼んでます。
自己プロデュースは
全然できないんですよ。
だからフリーになってからは
当時の事務所の社長が
「トーキングブルース」って
しゃべりの舞台を お前はやんなきゃ
ダメだっていうふうに持ってきてくれたり
ネーミングしてくれたり。
周りの人との出会いのおかげで
今 しゃべり手をやらしてもらってるな
っていうのは強くあります。
自分は そっち方向ダメ。
ただしゃべるだけ。
だから しょこたん見てて
すごいなと思う。
さっきの絵へのチャレンジとか
ああいう絵が描けたり
いろんなこと チャレンジ。 恐れ多いです。
すごいマルチじゃないですか。
え~ でも
マルチって言って頂くことも多かったり
確かに毎日全然違うお仕事させて
頂いたりもしてるんですけど
でも そこまでブランディングとかまで
自分自身は やっぱり考えてなかったり
一度 30代になる時に
事務所でも会議が開かれて
あまりにも 歌とか お芝居とか
いろいろやりすぎると
何の人だか分からない問題になるから
一本化した方がいいんじゃないかって
大きい会議があったんですけど
でも やっぱり どれもやりたいし
どれもやるのが私かもっていうのは
思ってしまったので
そこは ちょっと闘ったというか。
なるほど。
だんだん 失敗もして
そして 気づいていくというか。
楽しいっていうことをやるためには
これもイケるかも
やってみたら これもイケるかも
みたいなふうに 徐々に。
まだ でも まだまだ途中だなっていうのは
すごい思います。
ちょっとリトル雪舟入ってます。
リトル雪舟! やった~。
入ってますよ 絶対 才能の中に。
すっごい自己肯定感上がります 今日。
何でも「しようこ」になります。
(笑い声)
でも 先生 どうなんですか?
当時のですね 室町時代ですよね
雪舟のように名前を宣伝するといいますか
そういうことって
当たり前だったんですか?
雪舟が新しかったんですか?
例えば 同じ時代に能を始めた
世阿弥なんていう人は
「風姿花伝」なんていうのを読むと
どんなに人気が出ても中央で評価されても
地方のファンを忘れちゃいけないって。
中央の人気は いつか廃れるから
その時に最初のファンだった人たちを
大事にしなきゃいけないみたいなことを
書き残しているんですよ。
だから 今の芸能界の人たちが
直面するような マスみたいなものを
つかみどころのないマスみたいなものを
どう御するかっていうような課題に
この時代の芸術家は
直面してたんですよね。
うわ~ そうか。
先を見る目があったんだなあ。
今生きてたら
すごいエゴサしてたかもしれない。
ちょっと何か
聖なくして俗なし 俗なくして聖なし。
聖俗一体で捉えていかなきゃってことにも
つながりますかね。 そうですね。
だから あれなんですよ。 京都で
あんまり評価されなかったんですけど
山口に行ったらば
評価されるようになったんですけど
それが皮肉なことに
雪舟の師匠だった周文さんって
京都で活躍してたもんですから 作品が
確かなものが一点も残ってないんですよ
みんな焼けちゃって。
応仁の乱。
応仁の乱とかで。 これ皮肉なもんで
その時代の中央で
受け入れられなかった人が
意外に地方で活躍して花が開くっていう
そういうパターンでもあるんですよね
雪舟っていう人は。
フィールド変えたらいいんだっていう
ポジティブさ。
ええ。 だから やっぱり
一極集中ってダメなんですよね。
ダメなんですね。
やっぱり中央でウケてるものとは違う
評価軸みたいなものが
いっぱいあった方が
文化の厚みっていうのは出てくる
っていうところはありますよね。
じゃあ その名前を凝縮して
この美しい雪舟っていうね
付けたっていうのは
すごいブランディングですね。
いや~ でも今日はね
いくつになっても再チャレンジし
そして自分自身をブランディングしていく
という雪舟の姿を
見てきたわけなんですけれども
中川さん いかがですか?
いや~ 生涯アップデートをやめなかった
っていうところ。
やっぱり もう何歳だからとかって
自分で決めないで
アップデートし続けることを
諦めないことで 生きた証しを…
自分だけの生きた証しを
残せるかもしれないなっていうのは
ちょっと新しい夢になりました。
いいまとめになりましたね これ。
ありがとうございます。
店主 ありがとうございました 本当に。
ありがとうございます。
じゃあ お会計を。
(笑い声)
お代頂いちゃっていいんですかね。
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