出典:EPGの番組情報
徹子の部屋 湯川れい子[解][字]
~26歳で戦死した兄の遺品に…~湯川れい子さんが今日のゲストです。
◇ゲスト
音楽評論家・作詞家の湯川れい子さんがゲスト。
◇番組内容
コロナ禍で音楽業界は大打撃を受け、湯川さん自身もイベントやコンサートが中止、大ヒット曲のカラオケ利用も減って大幅な収入減になった。最近やっと延期されていた公演などが開催できホッとしているところだという。ラジオDJとして洋楽を紹介することから音楽評論家としての道が始まった湯川さんだが、洋楽へ強い興味を持つきっかけはフィリピンで戦死した兄だった。スタジオでは、兄が遺した美しいイラストとともに思い出を…
◇おしらせ
☆『徹子の部屋』番組HP
http://www.tv-asahi.co.jp/tetsuko/ジャンル :
バラエティ – トークバラエティ
ドキュメンタリー/教養 – インタビュー・討論
福祉 – 文字(字幕)
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- お兄様
- ラジカセ
- レコード
- 印税
- 最初
- 時代
- 自分
- 大ヒット
解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)
今日のお客様は
いつもエネルギッシュな
音楽評論家の
湯川れい子さんで
いらっしゃいます。
数々のヒット曲を持つ
作詞家でもいらっしゃいます。
音楽業界は コロナで
今 大打撃だそうで
湯川さんも収入が4割減という…。
フフフフ…。
めげずに
日々を楽しんでいらっしゃいます。
そんな湯川さんの心には
26歳で戦死なすったお兄様が
今でも心の中におありだそうで…。
今日は 大切なお兄様の遺品も
拝見させて頂く事に
なっております。
でも コロナの影響で
音楽界は大変 大打撃で
失業した人が
たくさんいるとかって。
そうなんです。 私 専門学校の…
30年以上 学校長というか
名誉学校長して 若い人たちを
育ててきたんですけど。
そういう人たちが
去年 今年 卒業しても
働ける場所がないんです。
例えば 照明とか ステージとか
色々… 音響とか
色々 後ろもありますでしょ。
ええ。
そういう職場が
なくなってしまって。
ライブハウスも
全国で多分 2割以上
潰れてしまったと思う。
あっ そんなに。
そういうフィールドが
なくなった事が
実は
一番大きいかもしれませんね。
湯川さんも カラオケの印税が
もう 激減。
ハハハ。 それは
贅沢な悩みかもしれませんが
カラオケの印税が
あったっていう事で
色んな他のボランティア作業も
たくさんできたんですけど。
色んな事の支援もできましたが
とにかく カラオケに
行けなくなってしまった
っていう事が2年近く続いたので
そこで歌って頂く印税が
ガガガガッとなくなったために
大変 困っています。
どのくらい
例えば 減ったんですか?
減るって。
例えば 私も よくわかりませんが
1曲 どこかで歌って頂くと
私の作詞をした… 手元には
4円ぐらい入るんですね。
でも それは もう日本…
全国 沖縄から北海道まで
集めてくださってきた
非常に尊い印税なんですけど。
それが入ってこなくなると
私が困るっていうだけじゃなくて
業界的に そういうものがないと
次を育てられない。
そうですよね。
次のものが作れないっていうのが
一番大きいと思います。
出版社にも入らない
どこにも入らない
っていう事ですからね。 はい。
他にも コロナ不況で
お感じになった事ってあります?
はい。
湯川さん自身は
出先で靴が壊れた?
もう 2年間ぐらい
靴箱に入ったままでいた
履きやすい
船底の靴を引っ張り出して
たまたま 履いたんですね。
そしたら それが
のりが剥がれてたんでしょうね。
歩いてるうちに
その船底がパカッと落っこって。
えっ? と思って
しょうがないから
ガムテープをコンビニで買って
足ごと その靴を固定して
歩いてたんです。
そしたら そのうちに
右の足もポカッと落っこって。
かわいそう。
うわー これ どうしよう。
これで このあと 仕事があるのに。
じゃあ とにかく
今 時間がある間にと思って
行きつけの靴屋さん…
青山とか
六本木の方にあるんですけど
行ったら 潰れてました 2軒とも。
本当に?
本当に。 私の好きな靴を売ってる
靴屋さんが2軒とも潰れてて。
で ご近所の方に聞いたら
やっぱり みんなが
オシャレをして
外出しなくなったから
こういう所も… ブティックも
随分 困られたんだろうなと
思います。
まあ そうですよね。
夕食にしても 今までは
外食なすってたんですけど
なんか もう
閉店が早くなっちゃって
とても困っちゃったんですって?
お困りになったでしょ。
私も 好きなお店が
あったんですけども
しばらく
8時閉店が続いたもんですから
6時半に仕事が終わって
レストランに
飛び込めないんですよね。
そうですよね。
だから 私の場合は
結構… なんでしょう。
行きつけの… 庶民的なというか
なんて言ったらいいでしょうね。
行きつけのラーメン屋さんとか
ギョーザ屋さんとか
好きなとこがあったので
そういう所に飛び込んで
間に合わない時は
テイクアウトで持って帰って
っていう事が続きましたね。
疲れましたね。
そう。 相当ですよね。
はい。
でも ここのとこは
お仕事が増えて? 今度。
3月 4月ぐらいまで
バーッと仕事は
今 また復活してきてます。
そうですってね。
それで あれなんですね。
湯川さんは作詞を…
ヒット曲を たくさんお持ちの
作詞家なんで…。
♬~「伊代はまだ 16だから」
って歌ってらした松本伊代さんが
デビュー40周年。
うん。
それから
ちょうど 去年 一昨年ぐらいが
『ランナウェイ』から40年とか。
すごい。 あれも そうなの?
はい。
ちょっと ヒット曲の
『涙の太陽』を
聴いてみたいと思います。
ちょっと 聴いてみます。
ありがとうございます。
♬~「ギラギラ太陽が
燃えるように」
♬~「はげしく火を吹いて
恋するこころ」
これって 初め
全部 英語だったんですって?
最初
エミー・ジャクソンっていう人が
英語で歌った歌だったんですけど
それを日本語にして
安西マリアさんが…
また 大ヒットさせて頂いて。
でも その安西さんも
いらっしゃらなくなって
寂しいですね。
ああ そう…。
作詞の なんか
きっかけはありましたか?
まあ 私の場合は たまたま
エミー・ジャクソンの
『涙の太陽』…
『Crying In A Storm』っていう歌を
書いた時っていうのは
全く作詞なんていう事は
考えもしなかったんですけど。
私のラジオのアシスタントDJで
今でいうバイリンガル?
バイリンガルっていうんですか?
「ディス ウィークス
ナンバーワン」なんて
言ってくれる。
その子だったんです。
歌がうまいから
ちょっとっていうので
英語で歌って。
アメリカのレーベルから
英語で出すっていう事で
ちょっと
インチキだったんですけど。
それが日本の
いわゆるJ-POPの
走りになりまして 大ヒットして。
それを日本語にしてほしい
という事から 作詞の世界に…。
今の「ギラギラ太陽が」…
あれが私の最初の…。
とても作詞とは
いえないような作品ですけど。
それが
最初のヒット曲になりました。
初め
1曲だけの予定だったんだけど
どんどん どんどん
ヒット曲が出たの?
そうですね。 でも 『涙の太陽』から
『ランナウェイ』まで
15年ありました。
あっ 本当に?
はい。 だから その間は ほとんど
作詞はしてないんですけど。
また 本当に 『ランナウェイ』で
爆発的な…
100万枚近いヒットになったので
そこからは ちょうど80年代…。
それまでは作詞家 作曲家が
レコード会社の専属だったんで。
でも それが ちょうど ほどけて
外部で制作するようになった
80年代に
『ランナウェイ』が出たおかげで
すごく
作詞を頼まれるようになって。
あの「ランナウェイ」っていうのは
鈴木さんが… 雅之さんが
『ベストテン』でも
随分 お歌いになって…。
お世話になりました。
聴いてみます。
♬~「とても好きさ」
「セイ!」
♬~(一同)「ランナウェイ」
♬~「連れて 行ってあげるよ」
懐かしい。
♬~「ふたりだけの 遠い世界へ」
♬~「お前を抱いて ランナウェイ」
なんか
「ランナウェイ」っていうのは
駆け落ちっていう意味が
あるんですって?
そうなんです。 あれ 実は30秒の
テレビコマーシャルだったんです。
ええー。
それで もう映像が撮れてて
金髪の可愛い男の子が
大きなラジカセを肩に担いで
アメリカの縦断鉄道に
乗り込むというシーンが
もう撮られていて。
ええ。
井上忠夫さん? 当時は。
のちに大輔さんとして
たくさん
ご一緒に曲を作りました。
その作曲家の井上忠夫さんが
それをご覧になって
「あっ もう これ… これは絶対
湯川さんでなきゃ駄目」って
おっしゃって頂いたそうで。
その「ランナウェイ」っていうのは
商品名だったんで。
あっ そうなの。
はい。
そのラジカセの商品名で
「ランナウェイ」って…
「ランナウェイ」… 30秒。
この間を埋めてって言われて。
ええー どうしようと
思ったんですけど
ちょうど 60年代の
アメリカの大ヒット曲で
『悲しき街角』っていう歌があって。
ええ。
その原曲が
『Runaway』ってタイトルで
英語で。
で その時に 自分が
それをDJとしてかける時に
この「ランナウェイ」って
駆け落ちって意味なのよって
説明してたんで
じゃあ その少年が
大きなラジカセを持って
駆け落ちするって
ラジカセと一緒に。
その世界にすればいいと思って
少年だったので。
だから 「お前を抱いて
ランナウェイ」にしたんです。
あっ そうなんですか。
それで そしたら それが
ちょうど
鈴木雅之さんがいらした…
その頃
シャネルズという名前で。
それが ラッツ&スターに…。
ラッツ&スターになって。
デビュー曲にしたいからって
おっしゃって。
もう それが ものすごい
コマーシャルで
いい評判になったから これを
デビュー曲にしたいからって
井上忠夫さんから いきなり
2分30秒になった曲が
ドンと届いたんです。
ええ。
このあとの詞を
書いてくださいって。
あら。
まあ それは
当然 苦しみながら
書きましたけど。
でも
「お前を抱いて ランナウェイ」
「かわいた街は 爪をとぎ」
「作り笑いうかべ」っていう
そこから詞を書いていきました。
ふーん。
まあ 本当に それが
人生の転機にもなりましたし
人生が豊かになりました。
まあね。
数々のヒット曲を紹介なさって…。
今 湯川さんを いわゆる
今 お仕事にしてらっしゃる
洋楽に導いたのは
戦死なすったお兄様?
そうですね。
まあ たまたま ちっちゃい時に
父も母も音楽が好きで
よくダンスしてくれてたり
したんですけれども。
私の18歳上の…。
あっ これ ちょうど写真が…。
真ん中の大学生…
黒い制服を着た。
右が私の次兄で
もう この時 海軍兵学校で。
2番目の兄は もう このまんま
バリバリの軍人に
なっていくんですが
この長兄は
ものすごく音楽が好きで
アコーディオンとか
ピアノが上手で絵が好きで。
で 徴兵は
なんとか勘弁してくださいって
3回ぐらい
徴兵延期願を出してたんですが。
あっ そうなの。
やはり その
いわゆる赤紙1枚で
陸軍に取られていきまして
で いよいよ もう
それが戦場に行くという…
3日間ぐらい その前に休暇が…
最後の休暇が出た時に
目黒の 私と母と姉だけしか
もういない…
もう父も
その前年に亡くなっておりまして。
その目黒の家に帰ってきてくれて
3日間かけて 防空壕を
掘っていってくれたんです。
あっ そう。
はい。
それで もう 汗まみれになって
泥だらけになりながら
防空壕を3日 掘ってる間中
病弱だった母と私が
おままごとをしながら
兄が掘っている所のそばで
洗面器のお水で
手ぬぐい出したり
お茶や梅干しを出したり
してたんですが。
3日間 ずっと
兄が防空壕を掘りながら
口笛を吹いて。 あとは多分
私と母のためと思う…。
♬~「めえめえ 森のこやぎ」
なんて 歌を歌うか
すっごい奇麗な
口笛を吹いてたんですね。
私も それを
すっかり覚えてしまって
兄が上がってきた時に
「その歌は なんていう歌ですか?」
って兄に聞いたら
兄が「僕が作った歌だよ」って
言ったんです。
あっ そう。
私は ああ そうなのかと思って。
それから 兄が
その防空壕を掘り上げて
お風呂へ入って
奇麗に軍服に着替えて…
覚えてるのは軍服に着替えて
私を抱っこして
宵の明星を指さして
「覚えていてね。
あれが兄ちゃまだからね」
って言って それが最後だったの。
あっ そう。
はい。 それで 戦地に行って
戦死してしまうんですけど。
戦中 私と母は米沢の…
まあ 父方の祖母の家に
疎開をして。
で 焼け野原になって
東京 帰ってきて
中学1年の終わりぐらいだったと
思うんですけど。
しょっちゅう扁桃腺を腫らせて
寝てて。 高い熱。
で もう本が好きで 読んでると
母に全部… 取り上げて。
もう これで
音楽でも聴いてなさいって
ボンと こんな大きな
木の箱のラジオを枕元に置かれて。
で 音楽 探しても…。
黒柳さんも
覚えてらっしゃるかな?
戦後 もう… そんな頃…。
こんな私が
こんな頃ですね。
うん。 すてき。
あのね
浪曲ばっかりだったんです。
あっ そうね。
広沢虎造さんの
『森の石松』とか…。
そうそう。
でも いくら探しても
音楽なんかなくて。
でも 一生懸命
ダイヤル回してる時に いきなり
あふれるような気持ちのいい
奇麗な甘い…
スイートな音楽が流れて。 これが
スイングジャズだったんですね。
で まあ グレン・ミラーとか
ベニー・グッドマンとか
そういう人の音楽で。
そんな時に突然 一緒に
その音楽と私が合わせて
歌ってたんです。
うん。
♬~「ラララララ~ ラララララ」
あら? どうして 私
この曲 知ってるんだろう?
初めて聴くはずなのにと思って
思い出したのが
あの兄の口笛の曲だった…。
防空壕を掘りながらの。
でも あの時 あの兄に
なんて曲なんですか?
って聞いたら
「兄ちゃまが作った歌だよ」って
言ったはずなのに
どうして
ウソをついたんだろうって。
それから
その曲が出てくるのを待って
毎日 中学1年 2年 3年
飛んで帰ってラジオを…
米軍放送を聴いてると
何回も出てきたんですね。
あっ そう。
それで ハリー・ジェイムス・オーケストラの
『スリーピー・ラグーン』…。
で やがて その
神田の古本屋さんとか
レコード屋さんとか
そういう所を訪ねて…
歩いて 聞いたら
もう日本で発売されていて。
でも それは
戦後発売されたんですけど。
♬~
これ?
あっ これ。
はい。
このトランペットの
このメロディーを
兄が口笛で吹いてたんです。
なるほど。
それで 調べましたら
ちょうど
真珠湾攻撃が始まった年?
1941年から1942年に
アメリカで
大ヒットしてた曲だったの。
あっ そう。
それを兄が
どうやって聴いてたのか…。
でも 井上ひさしさんなんかの
戦後のお芝居を見ると
もう 空襲警報が
鳴ってるような時でも
神田のレコード屋さんでは
そういう洋楽の
いわゆる 昔のレコードを
売ってた所がある。
「憲兵が来るから隠せ!」
なんていう
お芝居を見たりして。
あっ もしかしたら こんな所に
もう出兵する直前までいて
口笛で吹けるほど
聴いてたのかな。
その兄が
残してくれた絵というのが
戦後 見つかりまして
もう本当に
びっくりしたんですけど。
あっ ここに…。
ありがとうございます。
あんな真っ赤な
ストローハットかぶったり
それから
後ろに星条旗がたなびいて…。
ええ あります。
星条旗の… アメリカの線より
ずっと多いんですね
数えたりしたら。
あら どうして? と思ったら
やっぱり
アメリカそのものを
知ってたわけじゃなくて
あそこに
『THE STARS AND STRIPS FOREVER』
『星条旗よ永遠なれ』を聴いてて
コロムビア・レコードなんて
書いてあるんですが。
その見つかったレコードは
ジャケットは もう茶色い
つまらない紙に
穴が開いただけのもの。
だから 兄はレコードを…
音を聴きながら
自分でジャケットデザインを
考えてたんですね。
ここまで好きだったんだって。
うん。
だから こういう金髪の
女の人の絵なんかも
そうなんですが…。
これ お兄様の絵なの?
はい。
こうやって自分が聴いてた絵…
で 歌手の顔も
どこかで見てたのかな。
うん。
で これは次男の兄が
海兵から帰ってきて
ちょうど休暇で。
これを見て
「気持ち悪い。 これでも人間か」
って言ったっていう。
つまり 金髪の女の人を見ただけで
たった3歳違う弟は
そういう事を言うように
なってたんですね。
そんな時代に
私が本当に悔しいなって
もう今でも…
本当に 今でも悔しいと思うのは
こんなに好きだった
アメリカ音楽…。
なんの恨みも つらみもない
米兵と戦って。
で この小さな村を死守せよ
と言われて そこで頑張って…。
もう とにかく
死守せよと言われたら
撤退もできないわけですから。
そうですね。
だから 本当に 私は兄から
なんか すごい遺言をもらって
もう絶対 どんな理由があっても
戦争しちゃいけない。
人間が 人間の産んだ子を
殺してはいけないっていう事は
言われたような気がします。
なるほどね。
じゃあ そのお兄様は26歳で…。
そう。 だから なんにも…
ガールフレンドも
誰もいないまま
亡くなっていったんだと思います。
フィリピンで?
はい。
遺骨もなかったんですか?
あの… 白木の箱に
遺骨として
届けられたのは
石ころ1個だったの。
あっ そう。
本当にそうだったんですね。
ええ。
そういう平和への思いとか
そういうものをお書きになった
『時代のカナリア』っていう本。
はい。 先日 1月5日に
『時代のカナリア』という本が
集英社という所から出まして。
戦争への思いとか
いじめは絶対に
子供を未来の宝として
育てる場合にいけないとか
そういう事も含めていうと
もしかしたら
理屈っぽい本なのかなと
思いますけど。
でも 素直な気持ちを初めて
そういう意味では
本にできたような気がします。
なぜ 『カナリア』っていう題に
なさったの?
坂本龍一さんも
ご自分の音楽の中で
「炭鉱のカナリア」という
言い方をしてらっしゃいますけど。
炭鉱で空気が悪くなって
みんな 人が死んだりする…。
ガスが漏れたり…。
カナリアをつるしてるんですね。
いい声で
さえずってくれてる間は大丈夫。
で あのカナリアが もう
さえずらなくなったら
危ないから逃げろ。
アーティストは
時代のカナリアなんだと。
うん。
だから 一生懸命
さえずらなきゃいけないんだって。
なるほど。
ここ10年くらい
応援してらっしゃるグループがいて
LE VELVETSって
いうんですって?
フフフフ…。
うれしい。 あのね 11年前に
全員
1メートル80センチ以上の身長で
音楽関係の大学を ちゃんと出てる
っていうのを条件にして選んだ。
もう これ 今のお姿ですけど。
最初に この人たちをプロデュース
してらっしゃる方から
湯川さんに
一回 聴いてほしいって言われて。
この4人が
ズラッと目の前に並んで
QUEENのメドレーを
歌ったんです。
で 私は それ ガーンと
ものすごいショック受けて。
「すごいじゃない。 日本に
こんなグループがあったら
最高じゃない。 もちろん
私は応援します」って言って。
私 黒柳さんに聴いてほしくて。
あっ 本当に?
大騒ぎしてきたんです。
聴いてください。
♬~「You can dance
you can jive」
♬~「Having the time of
your life Woo Woo Woo」
♬~「See that girl,
watch that scene」
♬~「Dig in the Dancing Queen」
ええー 奇麗。
奇麗でしょ?
うん。 すてき。
それでね すごい清潔感があって。
でも クラシックから民謡まで
歌えるんです。
すごいわね。
それで 今 ちょっと
4人が 全部
ちゃんと映らなかったんですけど。
もう グループとしても
もちろん やってますけど
一人一人が ものすごく…。
今 右から2番目の
佐藤さんっておっしゃる
この人なんかは
『ジャン・バルジャン』を
帝劇でやったり 主演してます。
あっ それ すごいわね。
みんなね 4人が それぞれね
色んなミュージカルに…
『エリザベート』とか
色んなのに出てるんですけど。
うん。 すごいですよね。
だから 今度 なんか
お使い頂けますそうで…。
なんかね 「徹子の部屋」クラシック
出演が決まってるそうですよ。
うれしい。 私 やっと
10年来の思いがかないました。
ありがとうございます。
よかった。 ぜひ。
「徹子の部屋」クラシックが
あります。
6月15日
Bunkamuraオーチャードホールで
KOBUDO-古武道-
尺八 チェロ ピアノ
それから 反田恭平さん。
この方はピアノで
ショパン国際ピアノコンクールで
2位になったっていう
大変 評判の方です。
これは51年ぶりの快挙だそうです。
それと 篠崎史紀さんって
N響のコンサートマスターで
いらっしゃる
バイオリンの すごくお上手な方。
で LE VELVETSと。
湯川さんは残念ながら
お出にはならないんですけど。
おいでください。
私は もし 客席から
聴かせて頂けたら
本当に うれしいんで。
でも あれですね。
今でもピンヒール…
こんな細いのを…。
もし できれば 90歳まで…
90歳までは
私 ピンヒールが履けるような
骨でありたいと思ってるんですよ。
でね ピンヒール履いてると
背筋がシャンと伸びるので
まあ そのうち エレベーターから
こけて落ちたりして
新聞記事に
なるかもしれませんけど。
まあ 頑張って 90までは…。
すごい。
やってみようかなと思ってます。
フフフフ…。 ぜひ。
なんか アメリカへ
初めていらした時に
お年を召した方でも
とってもオシャレな女性を
たくさん ご覧になった。
そうですね。
だから 60年代
初めてアメリカへ行った時
60代 70代の方が
こんな真っ赤なお洋服を着たり
赤い爪をしてたりするのを見て
あっ こんな年になっても
いいんだと思って
ものすごい元気もらったんで。
そうですよね。
私のオシャレの
いまだに原点かもしれません。
ハイヒール履いてね。
はい。
…いつもおっしゃってる
湯川さんですけども
これからも頑張って
やっていきましょう。
本当に 今日は
ありがとうございました。
『徹子の部屋』は
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