こころの時代~宗教・人生~「悲しみを分かちあう-ミャンマー人と歩んだ30年-」[字]…の番組内容解析まとめ

出典:EPGの番組情報

こころの時代~宗教・人生~「悲しみを分かちあう-ミャンマー人と歩んだ30年-」[字]

名古屋市の尼僧・馬島浄圭さんは30年近く、ミャンマーから逃れてきた難民たちの支援を続けてきた。彼らとの交流の日々を追いながら、馬島さんの半生と仏道について伺う。

詳細情報
番組内容
今年2月の軍によるクーデターにより、ミャンマーは危機的な状況に陥っている。そんななか、名古屋で暮らすミャンマー人たちの心の支えになっているのが馬島浄圭さん。これまでに40人以上の難民認定申請を手助けしてきた。馬島さんが彼らとともに作り上げた仏塔・パゴダには毎週のようにミャンマー人が集い、祖国への祈りを捧げている。彼らと悲しみや苦しみを分かち合うことによって鍛えられたという仏道をお話しいただく。
出演者
【出演】僧侶…馬島浄圭

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
趣味/教育 – 生涯教育・資格
福祉 – 社会福祉

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  20. 気持

解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)

NHK
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エンスカイ(ENSKY)

♬~

名古屋の住宅街の一角に
異国情緒あふれる 建物が建っています。

パゴダと呼ばれる
ミャンマーの仏教の塔です。

(祈る声)

「釈迦の住む家」とされる 神聖な場所。

6年前に建てられて以来

ミャンマー人たちが祈りをささげる
聖地になっています。

この日 パゴダの隣の集会所に
ミャンマー人が集まりました。

(取材者)旦那さん?
はい。

(取材者)
亡くなられたんですか?

持ち寄ったのは 遠く離れた祖国で
最近 亡くなった 家族や友人の写真。

彼らの魂を鎮める 慰霊祭が開かれます。

お経を唱えるのは
地元の僧侶 馬島浄圭さん。

これまで 30年以上
ミャンマー人の支援を続けてきました。

この慰霊祭を呼びかけたのも
馬島さんです。

ミャンマーは インドシナ半島の
西部に位置する国です。

かつては
ビルマと呼ばれていました。

民主政権を率いる
アウン・サン・スー・チー氏を拘束し

軍が 国を統治することを宣言しました。

これに対して
国民は 抗議の声を上げます。

しかし 軍は 武力で鎮圧。

これまでに 命を落とした人は
1, 000人以上に上ります。

突然の死別で傷ついた人々の
心を癒やしたい。

一人一人に 祈りをささげます。

(読経)

穏やかな気持ちになれたと思います。

これで 明日から またね
元気を出して 前へ進みましょう。

クーデターによって祖国に帰れなくなった
ミャンマー人にとって

パゴダは かけがえのない
慰めの場になっています。

パゴダと同じ町内に
日蓮宗の妙本寺があります。

馬島さんが 住職を務める尼寺です。

江戸時代に 近隣の大きな寺の末寺として
建てられました。

明治時代から 尼寺となり

代々 養女として寺で育てられた
女性によって受け継がれてきました。

(鐘の音)

馬島さんは 5代目の住職です。

現在 この寺を一人で守っています。

日蓮宗の信徒の家を回り

月命日のお経をあげるのが
日課になっています。

おはようございます。

おはようございます。
≪はい。

(読経)

こちらのお宅は 代々の信徒です。

若い頃から 毎月
馬島さんの訪問を受けてきました。

浄圭さんが 今までの ずっと生い立ちから
ずっと考えてね

今 ある姿を見てるとね
本当に 頭が下がります。

ここまで苦労して 苦労して
周りから見てると 本当に…

いえいえ まあ 何か。
本当に 涙が出てきます。

馬島さんは 昭和28年
名古屋市に生まれました。

養女として 寺に引き取られたのは
1歳の時です。

一応 師匠から聞いてるのは
師匠が お月参りに伺ってました家庭

そこのおうちで
赤ん坊が いつも泣いていると。

で いろいろ家庭事情を聞くと

その子どもの赤ん坊の父親が
もう再婚した方がいいと

するっていうような話も出ていて

この赤ちゃんがいると
再婚話が なかなかね

進められないじゃないかっていうことも
ちらっと こう話が出たりして

で まあ 何回か伺ううちに

じゃあ まあ うちのね
お寺へ もらえないかっていうことで。

それで そしたら
二つ返事で いいということになって

当時1歳と1か月ぐらいで

寒い時期だったんじゃないかと
思いますけど

後見人みたいな人を立てて
それで 妙本寺へ連れてきたというか

養女にするために こちらへ来たんだ
ということは聞いてますね。 ええ。

だから お前は 要らん子だったんだって
いうことを言ってました 師匠は。

困ってたんだよって お前のお守りを。

あの 実家とは もう縁が切れてますね
その 何て言うのかな

ここへ来てから
もうほとんど会ったことないし ええ。

だから ここで居座るしかないみたいな。

普通に まあ庵主さんたち
2人の庵主さんが かわいがってくれた。

まあ ただ若い師匠の方は
手厳しかったですけど。 ええ。

隠居さんの方は すごい甘くって
一緒に寝てたぐらいですから。 うん。

まあ だから その そういう愛情を

手塩にかけて
育ててはくれたんだと思います。

だから その気持ちの中に 何かひがんだり
そういうことは なかったみたいですね。

まあ 何か 小学校時代は 結構おてんばで
元の俗名が 圭子だもんで

お寺の圭子ちゃんで通ってましてね。

何か 男の子と遊んでて
砂利の山があったんですね。

そこから
みんなが 飛び降りてるんですよ。

で 私も まねして飛び降りて
膝に傷をつくったっていう思い出も。

だから お前は もう何か 傷をもう本当に
傷が絶えない子だって言って

そのぐらい おてんばだった。

高校卒業後
馬島さんは 東京の立正大学に進学。

翌年 育ててくれた師匠の意に沿って
得度します。

しかし 剃髪はしませんでした。

うん 師匠を手伝わないと
やっぱし 自分をここまでしてくれたし

大変だってことは 分かってたからね。

ただ あの普通の尼僧さんになることには
少しね 抵抗がありましたね。

私が入ったのは 「補教」といって
剃髪しなくていいコース。

当時は そういうことも できたんですね。

だから そこでいいから入ればいい。

だから 私が その抵抗しないコースを
ちゃんと用意して 入ったんですよね。

だから その辺までは
まだね そんなこう

自分で この道しかないんだっていう
思いで入ったわけじゃないですね。

で その当時 剃髪の尼僧さんは
名古屋は すごく多かったんですよ。

で 私は 一番若い。

「どうして 剃らないの?」って
みんなに言われました。

男のお坊さんからも 言われました。

「あなたは 庵主さんのお寺の
お弟子でしょう。

どうして剃らないの?」ってことは
もう しょっちゅう言われました。

だから しまいに反発心が出てきましたね。

何か剃ってて 頭 丸めれば
お坊さんなのかっていう

何か そういう一つのね
何ちゅうのかな ものはありましたね。

確かに仏教の中には 形式から
入るっていう宗派もあるんだけど

私の中には 何かね 何か昔 頭丸めると
全てね 懺悔できるみたいな

何か認められるみたいなものがあって

それの方が もっと
安直じゃないかみたいなね。

もうちょっと 自分自身を極め…

自分を試したい
試してみたい みたいな欲があったのかな。

頭を丸めちゃうと 尼僧さんの場合は
行動範囲が すごく狭まるんですよ。

社会に出ても。
(取材者)お坊さんだって。

うん。 男性の場合は
わりとね 丸めてても

背広着て あっち行ったり こっち行ったり
やっておられるんだけど

尼僧さんの場合は
すごく 行動半径は狭まりますよね。

私は もうちょっと
世の中 見てみたいみたいなね

そういう欲がありましたね。

世の中との接点を持たないまま

仏の道に入ることに
迷いがあった 馬島さん。

寺の務めを果たしながらも
自分らしく生きる道を探します。

20代の頃は 華道や茶道を習い
免状を取って 寺で教室を開きました。

まだ そのころは
見えてなかったと思います。

本当に 何がしたいとかね。 ただ
いろんなことをやってみたいっていう。

だけど それが じゃあ 自分の歩むべき
本当の道かなっていうものは

どっかに あったかもしれませんね。

自分の歩むべき道は 何か。

馬島さんは 広く社会に目を向けます。

30代になると
環境や人権などの問題に取り組む

研究会に参加するようになりました。

やがて その仲間たちに誘われ
海外に飛び出す機会が訪れます。

1990年 馬島さんは タイに渡りました。

世界の仏教者たちが集い

さまざまな問題について話し合う
会議に参加したのです。

その会議で 馬島さんは
その後の人生を決定づける体験をします。

そこで出会ったのが
ミャンマー人の弾圧を逃れて

タイ国境を目指して逃げて来た学生やら
医者やら お坊さんと出会ったんですね。

その中で 彼らが
ミャンマー ビルマの現状を訴えてた。

その彼らの その姿勢というか 姿は
すごく印象深かったですね。

自分の心の奥に
こう届いたっていう感じでしたね。

まずね その目が すごい こう悲しみに
満ちてた目がね 印象的でしたね。

深い悲しみをたたえた
誰しもそうでしたね その来てる人。

本当に 大変な思いを背負って
来てるなっていうのが

実感できたんですね。

言葉が通じるわけじゃないからね。
ミャンマー ビルマ語ができるわけじゃ。

コミュニケーション
とれるわけじゃないんだけど

ただ 通訳を通して いろいろ聞く

彼らの言ってることに対しては
心に響いてきましたね ええ。

この会議の2年前 ミャンマーでは
歴史的な大事件が起きていました。

当時の国名は ビルマ。

長らく 独裁政権が続いていましたが

この年 初めて 国民による大規模な
民主化運動が起こります。

この時 アウン・サン・スー・チー氏が
初めて運動に加わり

民主化を象徴する人物になりました。

ところが 軍が武力で鎮圧。

数千人の国民が殺されたと
推定されています。

翌年 軍政府は
国名を ミャンマーと変更しました。

馬島さんが 会議で出会った
ミャンマー人たちも

こうした弾圧を受け
祖国から逃れてきた人々でした。

理不尽な状況に苦しむ ミャンマーの
人たちに できることはないか。

そんな中 少数民族の
パラウン族に出会いました。

彼らは 国境を越え ミャンマーから
タイの山岳地帯に逃げた人々です。

山あいの土地で 貧しい暮らしを
余儀なくされていました。

馬島さんは パラウン族が 現金収入を得る
手助けをしようと考えます。

これは ミャンマーの少数民族の一つの
パラウン族の衣裳です。

こちらの方 もうちょっと 日本人が
ちょっと着てくれそうな 全部ねえ…。

そこで 現地の女性たちが織った布を
日本に送ってもらい 寺で販売しました。

日本人が 気に入るように

バッグやマフラーのデザインを
工夫してもらうと 評判を呼びます。

顔写真が ここにあります。
この柄のは この人が織りましたよ。

売り上げは
全て 布を織った女性たちに送りました。

こうした支援を通して
彼らが置かれている状況が

日本人と無関係ではないことに
馬島さんは 気付きます。

まるっきり
遠い存在みたいに見えるけれど

日本の発展の陰で 私たちが
その何て言うのかな 繁栄している陰で

その人たちの生活を犠牲にして

私たちが 豊かになっているっていう
側面があるんですね。

それを知らしてくれたのが 彼らですね。

その 今 少数民族が住んでいる
場所っていうのは

ダム開発だったり それから中国と

本当に 中国からの大きな道路を
引いたりとか

それから 森林開発
森林の伐採が すごく盛んで

そういうこととかで 本当に ある意味
今の我々の先進国が

資源とかを 安く手に入れてる
その背景にある問題ですよね。

今の森林の伐採でも チークとか

あるいは ダム開発でも
日本の電源会社が行って やってるし

だから 全く
無関係な問題じゃないんですね。

そういうのを 教えてくれましたね
彼らは。

だから それを こう やはり知った以上

まあ 何て言うのかな
これは 不平等ですよね。 あまりにも。

仏教的な感じから いけばね。

やっぱし フェアになるためには
お返ししなくちゃいけない。

うちらのね せめて お金だけでもね。

それで 生活を豊かにしてほしいという
まあ そういう思いもありましたね。

コツコツとパラウン族の支援を続けていた
馬島さんに

大きな出会いが訪れます。

当時 軍の監視下に置かれ
動静が知られていなかった

アウン・サン・スー・チー氏との面会に
成功したのです。

とにかく スー・チーさんが ホーム…
何か パーティーをすると。

世界のいろんなところから
女性たちが訪問して

そのパーティーには参加するから

馬島さんも 尼さんとして

参加してみませんか?
みたいな声が かかったんですね。

あっ ほんとに いろんな国から
女性たちが参加して

交流会みたいなことするんだな
ぐらいにしか思ってなかったんです。

行ってみて ヤンゴンに着いてから
ちょっと これは様子が違うと。

行って そのホテルで
あと ノルウェー人の女性と

それから タイ人の学生さんと
4人が合流できて

で その2人が 情報収集してたんですね。

どういうタイミングで
訪れるといいかっていうことをね。

今は 何か すごい監視が
見張りが厳しくて

なかなか その合間を縫っていくのは
ほんとに厳しいみたいで

でも 何とかして会いに行くんだ
みたいなことだったんですけど

もし これ 軍の方の見張りの人に捕まると
また大変だからっていうことで

何か持ってた知人の名刺を
全部 ビリビリ破いて

トイレに捨ててたんですね。

私は そんな あんまり持ってない
身一つで行ってたから。

そんなに 大変なのかっていう感じで

それで 当日を迎えたんですね
今日 行きますって。

行かれた時 スーチーさんは
どんなご様子で いらっしゃいました?

まず 何か すごい薄暗かったんですね
その部屋が。

だから どこに いらっしゃるかなって
感じだったんだけど

とにかく 党員たち。
(取材者)党員?

NLD党員の若者とか女性たちがいて
まず 拍手で出迎えてくれる。

その奥の方に スー・チーさんが
立ってらっしゃったって感じですね。

で にこやかに迎えて頂いたと。

で 行って 待てど暮らせど
4人しかいないわけです 訪問者は。

ああ 我々が訪問すること自体が

今日の一つのね 目的だったんだって
いうのに そこで気づくんですね。

だから 情報を託すっていうかね
今 どんなことになってるかとかね。

ただ 私が しっかり分かったのは
今の海外からの いろいろな投資

こういう軍政下で 人々のところに
潤っていかない 海外投資っていうのは

全く意味をなさないから そういう投資を
もう一度 考え直すように

日本に帰ったら 企業に それを伝えて
ほしいというようなことをおっしゃった。

それで 私が お会いしてきたんだから
スー・チーさんのお気持ちを

やはり伝えないといけないっていう
思いに駆られて

それで 中日新聞に投書して

会ってきたさまを
ちょっと書いたんですね。

おっしゃってたこととかをね。

そしたら 中日新聞が取り上げてくれて

一面で 取り上げてくれましたね
トップ記事でね。

帰国後 間もなく 馬島さんの記事と写真が
新聞の紙面を飾りました。

すると 思いがけないことが起こります。

馬島さんのもとへ 名古屋で暮らす
ミャンマー人たちから

次々と連絡が入ったのです。

ミンニョンさんっていう
その当時 名大に留学してた方ですね。

それで 日本では 一番最初に
名古屋で難民認定された方なんですけど

この方から電話がかかってきて

実は ミャンマー人たちっていうのが
今 民主化を促すために

さまざまな抗議活動でデモしたりっていう
活動に取り組んでいると。

名古屋でも そういうメンバーがいると。

そういう人たちが
じゃあ あの ビザが切れてると。

みんなね 88年から90年にかけての
弾圧を避けて

日本へ逃げてきた 逃れてきた
多くの人は そういう経緯を持ってると。

ほとんど 何ていうのかな 一般的に言うと
オーバーステイなのに動いてたんですね。

いつ捕まって 強制送還されても
不思議ではないみたいなね。

だから まず難民申請を
手伝ってほしいってことでしたね。

難民認定とは

本国に帰ると 迫害を受けるおそれがある
外国人に対して

日本での永住許可を与える制度です。

しかし 審査は 非常に厳しいものでした。

1999年には
日本全体で 260人の申請に対して

認定された人は 僅か16人でした。

それでも 日本に逃げてくる
ミャンマー人が 年々増えていました。

馬島さんは 彼らのために
難民認定の申請の手伝いを始めます。

その中でも 最も心に残っているのが
キン・マウン・ラさんだといいます。

今では 在留を許可され
放置自転車を安く買い取って

アジアの貧しい国に
送る仕事をしています。

日本では もうゴミだけど やっぱり
貧しい国行けば これがすごく宝物ですね。

貧しい人でも手が届く
道具なんですよ。

自転車1台あれば
子供って 学校遠くても

2時間3時間 歩くところが
30分で行けれちゃうんです。

キン・マウン・ラさんは ミャンマーの
少数民族 ロヒンギャの出身です。

ミャンマーでは 数少ない
イスラム教徒の民族で

軍からの迫害は もちろん 仏教徒からも
激しい差別を受けてきました。

少なくとも 私のふるさとでは
軍と一緒に 仏教の人でも

こういう 普通に 軍と同じやり方を
殺したり レイプしたり

もう すごい
言葉では ちょっと言いづらいぐらい

こういう ひどいことを 生まれつき
経験してきたっていうことですね。

う~んと 1988年に この民主化活動の時に
いろんな活動をやって

で それで逮捕されて 拷問を受けて

で すごい こう
袋かぶされて 殴ったり蹴ったり

あと こう…
膝の下に こう 石を入れて

そこに 膝だけをのせて

これはね もう
ナイフで刺すよりも痛いんですよ。

最後に もう
すごいケガで入院したんですよ。

で そこの入院先から
お金の力で パスポートも作って

もう 空港でも お金払って
その後 バンコクへ逃げたんですね。

最初 ヨーロッパとか行くと
思っとったんですけれども

たまたま 日本に こう… 来る
こういう説明した ブローカーがおって

日本に もちろん
偽造パスポートで 写真を入れ替えて

偽造パスポートで 日本で来たんですね。

かわいい ヤギちゃん。 はい おいで~。

キン・マウン・ラさんは
1992年に来日しました。

(取材者)懐いてますね。
そうですね。

すごい… すごい
あの 子供… 子供みたいに。

以来 孤立無援のまま
名古屋の町工場で働き続けました。

しかし 2001年に
不法滞在で捕まります。

入国管理局のところで
「もう 国に帰りなさい」。

でも 私は帰るところがないよ。 ない。

ないから 私は
帰ることができないんですけれども

でも その時でも 難民申請することは
僕 分からないんですよ。

そこで初めて 馬島さんたちが加わって

「この人は ミャンマーに帰ったら
命が危ないから この人は難民だよ」と。

で そこからが もう始まりですね
馬島さんとの出会いっていうのは。

これが 今の裁判資料。

キン・マウン・ラさんの難民認定は
不許可となりました。

それでも
彼が 何とか日本で暮らせるようにと

馬島さんは
裁判に訴える方法を選びます。

膨大な資料…。

頼ってくる以上
それに応えたいっていうかね

それはありましたね うん。

必死で とにかく
帰れないんだからっていう形でね

言ってくる人が 目の前にいればね

そこは ちゃんと受け止めないとっていう
思いはありましたね うん。

裁判では
キン・マウン・ラさんが国に帰ると

命の危険があることを
証明しなければなりませんでした。

馬島さんは 毎日 夜遅くまで
キン・マウン・ラさんの話を聞き取り

書類にまとめて
何度も裁判所に提出しました。

4年に及ぶ裁判の末
キン・マウン・ラさんの主張が認められ

日本での在留が許可されました。

キン・マウン・ラさんは

見ず知らずの自分を信用し
尽くしてくれる馬島さんに

驚きを感じたといいます。

あの人の前には 全然この…

人 宗教 肌の色 民族とか

あの人の前には
それ 何もないんです。

あの人の頭の中に
それ 真っ白なんですよ

あの人は 馬島さんは。

(取材者)真っ白?
真っ白ですね。

あの人の心の中には 区別っていうのが
差別っていうのがないんですよ。

まあ ほんとに 僕 仏教の人たちから
いろいろな差別受けて

仏教 嫌いだったんですよ 昔。

(取材者)ミャンマーにいる時?
ミャンマーにいる時ね。

でも 馬島さんっていう
仏教のお坊さんと出会って

やっぱり これ
宗教とか関係ないっていうことは

馬島さんから 僕 勉強したんですね。

自分の人生にも
僕も いろんな国 行って

いろんなところ
いろんな人と出会ってるんだけど

やっぱり 馬島さんみたいな
心の豊かな人間って

僕は会ったことないですね。

少数民族難民の現場を
何度も こう この目で確認したりして

そういう ほんとの
ほんとに大変な…

生死をさまよってる状態の人たちを
見てきてて

で その一つの日本で
難民申請した人たちは 代弁者だと。

その問題を やはり 何ていうの 伝える
大きな代弁者ですね。

申請者が増えて 認定者が増えれば

ビルマの問題っていうのは
結構 一般の人には

分かりやすくなるだろうっていう
思いが 一つと

それから やはり目の前に

そうやって ほんとに苦しんでいる人が
いるっていうことに対してね

自分に できることがあれば

まあ 関わっていこうという思いは
ありましたね うん。

その苦を見る時は
こちらの私見を挟まないで

その苦を きちっと認識するって
いうことが必要ですよね。

だから 自分の心を
自分の感想とか 感情を入れないで

まず 受け止めるっていう
受け入れるってことからしないと

相手も 心開いてくれないし。

「同苦」って
日蓮上人は おっしゃってるね。

(取材者)同苦?
「苦を同じくする」っていうかね

自分も その立場に置くというかね
「同苦」の認識というかね

そこから始めたんですね。

だから それは どういうことかというと
苦しんでる人の立場に立つとか

その原因を取り除くことも
仏教の 一つの教えですから。

そういうのは たとえ
政治であれ 宗教であれ 民族であれ

あるいは 差別の問題であれ
それを 全部 含んでるわけですよね。

私が ミャンマーの問題に
出会ったのは そこだったんですね。

あの…

仏教の教えというのが
試されるというかね

そういう現場に行けば…。

日蓮上人がおっしゃる その
「『法華経』を読め」と言うけれど

声に出して読めばいいのかって
いうんじゃなくて

自分が苦しみを抱えてる人と関わって
関係性を持って

その中で 自分が何ができるか

どう その働きかけが
できるかっていうことを

試行錯誤しながら 関わっていく。

その中から 「法華経」が 自分を通して

実現されていくっていう思いを
持ってたんですね。

ミャンマー人と共に 苦を分かち合う。

それは 仏教の心に通じていました。

そうした姿勢は 1歳で寺の養女となった
馬島さん自身の生い立ちと

深く関わっています。

小さい頃から そういう感性は
少し 芽はあったかもしれませんね。

あの~ 人一倍そういうことに
敏感な自分が いたかもしれませんね。

悲しんでる人や 苦しんでる人に対する
その 憐憫の情というか

そういう気持ちは
多少 あったのかもしれません。

自分の心の中に
何か満たされないものが そこに。

ああ この人も こういうもの
持ってるなっていう思いと

共感したのかもしれませんね。

そういう 一つの琴線っていうかね

それが 響くものがあったんでしょうね
恐らく。

その根っこは そういう
幼くして 肉親の情に薄かった身が

それを 特に感受性を
持ってたかもしれませんね うん。

ほんとに 皆さん 家族から離れてね
他国のところで あの…

まあ ある意味… それぞれ こう
いろんな苦を抱えてたわけですからね。

名古屋のミャンマー人の
心のよりどころになっている パゴダ。

実は 馬島さんとミャンマー人が
力を合わせて つくり上げたものです。

ミャンマーの言葉で
「ミッタディカ・パゴダ」。

「慈しみの仏塔」と名付けられています。

パゴダ建設の話が持ち上がったのは
2012年。

難民認定の支援を始めてから
10年ほど後のことでした。

そのころ ミャンマーの軍事政権は

民主化へと かじを切っていました。

新しい憲法と選挙制度が整えられ

アウン・サン・スー・チー氏が
自宅軟禁から解放されます。

♬~

2012年には 国会議員に当選。

ミャンマーに
民主主義がもたらされることを

多くの国民が 信じ始めていました。

2010年から12年にかけて
民主化の方に かじが切られていく。

アウン・サン・スー・チーさんも
解放されて

政治の表舞台に
姿を現されるようになって

少しずつ 民主化の道が開けていく
という状況になったんですね。

それで 私も 今までの活動に

少し ちょっとこう あの…
まあ 何というのかな

あの… ちょっと 間を置きたいという
時期があった。

で 何か こう自分でも

自分のメモリアルのものが
欲しいなということで

まず ミャンマーから お釈迦様を
お釈迦様の尊像を手に入れて

私どもの妙本寺の本堂に 1年半近く

畳の上に台を引いて 置いてたんですね。

そこに おまつりしてたんです。

だけども 大理石で出来てる

真っ白のお釈迦様の尊像 坐像ですから
やっぱし重い。

だんだん 畳の方が沈むような感じも
あったし

どう見ても やっぱし ここのお寺では
合わないなっていうものがあって。

で 気付くと 今 パゴダのある土地に
私どもの土地があったということで

そこに じゃあ
このお釈迦様を おまつりする

ちょっとした お堂を
つくろうかということで。

そんな思いでいたら ミャンマー人の
懇意にしてた女性が

じゃあ ミャンマーのパゴダ

それも マンダレーにある
クドードォパゴダの姿にした

お堂にしてほしい。
したら? っていう提案をしてくれて

じゃあ パゴダにしましょう
そういうパゴダを つくりましょうって。

民主化が進むとともに
留学生や技能実習生の若者が増え

日本で暮らす ミャンマー人は
1万人近くになっていました。

馬島さんは 彼らのためにも
パゴダをつくりたいと考えます。

まず 建設資金を捻出するために

ミャンマー人に声をかけて
寄付を募り

現地から 大理石で出来た壁や
彫刻の部品を送ってもらいました。

更に 寺の信徒の建築士に 工事を依頼。

3年の歳月をかけて
パゴダが完成しました。

うん かわいいね。

以来 ミャンマー人の祈りの場として
大切にされています。

パゴダの建設とともに
隣には ゲストハウスが建てられました。

じゃあ いただきま~す。
(一同)いただきま~す。

一緒に食事をしたり
顔を突き合わせて相談をしたり。

さまざまな世代の
ミャンマー人が集い

交流する場所として 活用されています。

コオロギ? コオロギ?

コオロギ。
フフフッ。

子供たちが コオロギを取ってきて
で お母さんに渡して

お母さんが クッキングするわけ?

はい。
そうなんだね。

はい おいしいです。

この日は 毎日忙しく働いている
若者のために

懐かしい郷土料理が 振る舞われました。

♬~

気持ちがいいんで…

まあ 自分たちの
アイデンティティーを

確認する場にはなってると
思いますね パゴダを通じてね。

仏教徒であり
ミャンマー人であるっていうね

そういうルーツというかね

それを確認する場にはなってると
思いますね。

全てのことを こう 何ていうの

日本での いろんなことをね
もう 無にして

ひたすら祈れる場所にはなってると
思いますね。

まあ さまざまな 日本で生活するには

障害とか 問題を抱えてますからね
彼らは。

まあ それは
日本人でも それはありますけど。

だから そういう人たちが
パゴダでお参りしてる その時だけは

そんなことを 全部 空にして

素の自分に返って 子供みたいな気持ちで
参ってるっていう そういうことですね。

そういう自分を そこでは確認している
っていうようなことも聞きましたね。

何も考えないで
ここで ひたすら お祈りする。

それで 心が洗われたようなね
気持ちになるんだって。

ところが 今また ミャンマーに
危機が訪れています。

今年2月 軍が クーデターを決行。

抗議する国民を 武力で鎮圧しました。

日本で暮らす ミャンマー人たちも
繰り返し デモ行進を行い

日本人に
民主派への協力を呼びかけています。

まあ そのためにも あなたが
ねえ? ほんとに危ない…。

馬島さんは ミャンマーに帰っている
知り合いの身を案じ

連絡を取り合っています。

軍が 私服で見回りしてるの?

ふ~ん。 毎日のように来るの?

へえ…。

どっか 隠れるとこあるの?
どこか隠れる場所があるの?

家じゅう全部
家捜しするんだね。

「そう そう そう」。
捕まえる時はね うん。

まあ とにかく ほんとに

自分の身の安全だけはね
いつも考えて下さいね うん。

まあ ただ あの…

笑顔を忘れないでね いくら大変でも。
「はい」。

ね?
「はい 分かりました」。

あなたの笑顔が 一番いいから。 フフッ。

「アハハッ」。
ね?

うん。 まあ そうだね。

(取材者)今の方は 馬島さんと

どういう…
もともと お知り合いっていいますか…。

まあ 長い つきあいがある子ですね。

それで ずっと一緒に
支援活動してますね。

自分の身の危険を

ほんとに いつもいつも
そのリスクと隣り合わせでね

だから ちょっと あんまり
詳しいことが言えませんね。

(取材者)
もともと 名古屋にいらっしゃって…。

え~と そういう情報もあまり…。

ええ もう 何も これ以上は ええ。
(取材者)はい。

分かりました。
ありがとうございます。

パゴダ建設以来
毎年 行われてきた最大の行事

灯明祭の日が やって来ました。

祖国で大勢の人が
亡くなっているのに

祭りを行うのは不謹慎ではないかとの
意見もありました。

しかし 「そういう今だからこそ
祖国へ 祈りをささげたい」と

開催が決まりました。

ミャンマーの言い伝えでは

「10月の満月の夜に お釈迦様が
この世に帰ってくる」といいます。

灯明祭では 精いっぱいのごちそうで

お釈迦様をもてなすのが習わしです。

例年は みんなで
食事を共にしていました。

しかし 今年は お祈りを主とし
料理は持ち帰ることにしました。

パゴダに
続々とミャンマー人が集まります。

県外で暮らす若者たちも

この日ばかりは
誘い合わせて やって来ました。

日が暮れる頃には
100人余りのミャンマー人が集まりました。

♬~

(祈る声)

祖国への思いを込めて

みんなで 祈りをささげます。

♬~

ミャンマー人と共に歩んできた
長い歳月。

それが 僧侶としての馬島さんを
磨き上げました。

まあ ミャンマーの問題に
関わるとともに

いろいろ 縛りが解けましたね。

尼僧としての こう 何か 立場とか
日本の僧侶としての立場とか

そういうものを
全部 一つ一つ ほどけてって

で 本来の 自分の心のままに
動けるようになってきましたね。

それは
いろんな人との出会いで もまれ

鍛えられてきたんだと思いますね。

あの… 私なりに ほんとに
それが修行だったと思います。

ミャンマーの
少数民族の難民キャンプだったり

あるいは 避難民の姿だったり

あるいは 弾圧を逃れて
ミャンマーから来てる人たちの

そういう問題意識っていうかね

そういうものに
学ばせてもらうというか

それを共感したり

そういう 自分で鍛えてもらったっていう
思いはありますね。

しかも ミャンマーの場合は

やはり 本当に そういう
人々が苦しんでることに対して

僧侶として
何ができるかっていうことで

軍政に ものを申したり
抗議したりっていう お坊さんも

多数 見えました。

そういうお坊さんの考え方にも
刺激されましたね うん。

それは 別に
政治だから関わっちゃいけないとか

あの~… 何ていうのかな

外国人の問題だから
関わっちゃいけないとかって

そういう線引きが
あるわけじゃないんですね。

お坊さんだったら 全部 全部

やっぱし 抱え込まないといけないと
思うんですね。

それが 苦の現実ですからね
その現実を避けることはできない。

見つめ続けることによってしか

ほんとは 悟りは得られないんですよね
実際は。

まあ そういう現場を
やっぱし 経験させて頂いたのは

ありがたかったと思いますね。

多分 それが 私にとっての
お曼荼羅の世界だったと思います。

そこに 本仏は おられたと思います。

馬島さん
ちょっと こっちへ おいで下さい。

祭りの最後には 馬島さんへ

ミャンマー人からの感謝を伝える
セレモニーが行われました。

(拍手)

在日ミャンマー人の2世として
日本で生まれ育った子供たちが

お礼の言葉を述べます。

「こんにちは 馬島さん。

馬島さんは 僕が生まれる前から
僕の父や母

困っているミャンマー人たちを
世話してくれていました。

名古屋に 馬島さんがいてくれたので

日本のことが 何も分からない
多くのミャンマー人たちが

助けられました。

今 こうして 僕たちが集まっているのも
馬島さんのおかげです」。

「ミッタディカ・パゴダが
名古屋にあることが

どれだけ ミャンマー人にとって
心強いことか。

感謝してもしきれません。

これからも
私たちを見守っていて下さい」。

何か びっくりして言葉が出ません。

何か… こんなに たくさんの

私の大事な大事な 子供や孫が
いっぱい いるって感じです。

日本のお母さん おばあさんとして
これからも よろしくお願いいたします。

こちらこそお願いします。
(拍手)

まあ 役に立てれば
長生きしたいと思います。

長生きして下さ~い!

今は ほんとに
ミャンマー国内が大変な状況です。

少しでも 良くなるように

私も 陰ながら
皆さんの力になりたいと思います。

何でも言ってきて下さい。

(拍手)

♬~

♬~

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