出典:EPGの番組情報
英雄たちの選択「野望!伊達稙宗の巨大山城 ~信長を30年先取りした男~」[字]
戦国の常識を変える、と大注目を浴びる巨大山城が福島県にある。桑折西山城。織田信長が行った新たな城づくりを30年も前に行っていたのだ。城の主・伊達稙宗の野望とは
詳細情報
番組内容
伊達政宗の曽祖父・伊達稙宗が現在の福島県に築いた巨大山城・桑折西山城が今、大きな注目を浴びている。戦国末期の防御設備をすでに備え、後に織田信長が始めたといわれる家臣の城下集住も行っていた。都から遠い奥州にありながら、時代を何十年も先取りしていたのだ。伊達稙宗は領土を大きく広げ、法令を整備し、新たな国づくりにまい進する。そのシンボルがこの城だった。しかし、その先進性が家臣たちの大きな反発を生んだ。
出演者
【司会】磯田道史,杉浦友紀,【出演】千田嘉博,小和田哲男,中野信子,【語り】松重豊ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
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- 稙宗
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- 山城
- 政宗
- 伊達
- 伊達氏
- 当時
- 本丸
解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)
はは~ いや…
今 戦国の常識を変えると
熱い注目を浴びる巨大山城がある。
それが…。
福島県の桑折西山城。
近年の発掘調査で
数十年後の築城法を先取りした
革新的な山城だったことが
明らかになってきた。
戦国後期に多用された守りの工夫…
更に この山城の先進性を示すのが…
後の城下町を先取りしていたのである。
あの織田信長が始めたと
いわれてきたことが
その30年も前に
この東北の地で行われていたのだ。
実はですね…
戦国史を揺るがす巨大山城 桑折西山城。
この革新的な城を築いた人物が…。
伊達氏十四代当主 伊達稙宗。
後に東北を席巻する
独眼竜 伊達政宗の
曽祖父にあたる男だ。
都から遠く離れた東北の地で
画期的な巨大山城を築き上げた稙宗。
この城に
いかなる野望を込めていたのか?
さまざまな分野の専門家が
時代を先取った男 稙宗に迫る!
この人…
信長を30年先取りした男 伊達稙宗。
その実像に
東北の巨大山城 桑折西山城から迫る!
♬~
皆さん こんばんは。
こんばんは。
歴史のターニングポイントで
英雄たちに迫られた選択。
その時 彼らは何を考え 何に悩んで
一つの選択をしたんでしょうか。
今回の主人公は こちら。
伊達氏十四代当主の
伊達稙宗です。
伊達稙宗は
あの独眼竜 伊達政宗の曽祖父
ひいおじいちゃん
ということなんですけれど
磯田さん どういう人物なんでしょうか?
まあ ひと言で言うと…
稙宗という ひいおじいちゃんがいて。
これは 東北地方の他の大名がやらない
後に近世の大名が
ようやく達成するようなことをですね
実験的にチャレンジしてたんですよ。
はあ。
…みたいなものというかを
やってたような気がしますね。
で そんな伊達稙宗が築いた
桑折西山城ですが
今 研究者たちから
大きな注目を浴びているということで
この方にお越しいただきました。
城郭考古学者の千田嘉博さんです。
よろしくお願いいたします。
よろしくお願いいたします。
千田さん この桑折西山城は どうして
大きな注目を浴びているんですか?
はい。 あの 長い間ですね
お城としては
よく残ってたんですけども
木も生えて山になってたんですが
2008年からですね 地元の桑折町が
積極的に
発掘調査を続けてくださいまして
その結果ですね 後に…
…っていうのが
これ 分かってきたんですよ。
そうなんですか。
あ~ いいなあ 見たい。
とにかく見たい。
さあ それでは
その桑折西山城 どんなお城なのか
たっぷり見ていきましょう!
福島県伊達郡桑折町。
ここに
東北地方屈指の巨大山城
桑折西山城がある。
城郭考古学者の千田嘉博さんが
現地を訪れた。
いや~…
これね
今 緑の山が広がっていますけれども
実は この見えている
この山の一帯にですね
桑折西山城がありました。
当時としてはですね…
標高190メートルの
山全体に築かれた桑折西山城。
山の上に 曲輪と呼ばれる平地の区画を
いくつも備える巨大城郭だった。
戦国時代の姿が はっきりと残る
全国でも有数の貴重な山城である。
どうもです。 千田と申します。
今日は どうぞ
よろしくお願いいたします。
こんにちは 井沼と申します。
今日は よろしくお願いします。
案内してくれるのは 長年 桑折西山城の
発掘調査に携ってきた 井沼千秋さん。
最新の研究で歴史的な価値が見直され
城全体の整備が行われている。
その過程で 城内の各所にあった
守りの工夫の数々が
明らかになったという。
いや~
上がってきましたですね。
え~と ここが…
あっ ここが
大手門の場所ですか。
あっ 土塁が これ ありますよね。
はい。
なるほど。
ここですね 桑折西山城の
大手門のあった場所なんですが
これが うまくできてるんですよ。
この大手道っていうのは ちょうど この
低い所から登ってくるわけです。
そうすると 正面に こういう土手ですね
土塁で 反撃できるようになってますし
その横の所には 切岸っていうふうに
呼んでますけれども
こういう人工的な急な斜面をつくって
簡単には中に入れないってことで
ちょうど この狭い所しか
通るところがないと。
これは すごいですね。 当時としては
最先端の城づくりだというふうに
言っていいと思います。
この城が築かれたのは
鉄砲が伝来するよりも前の
天文元年 1532年ごろ。
当時としては極めて高度な防御施設が
各所に設けられていた。
おっ! 何かありますね。
はい。
あ~。
ちょうど こっちが本丸で 堀なんですね。
はい。
で こう 土手というのか 土塁があると。
土塁は こちらに。
人工的に掘られた空堀と
掘った土を積み上げた土塁。
更に ここには ある仕掛けがされている。
井沼さん 何か あの…
あっ そうですね。
あ~! だから
空堀 ドンって掘るんじゃなくって…
空堀の底を…
そういう構造になっております。
いや~ これも うまくできてますね。
この畝堀は 戦国末期
豊臣秀吉の小田原攻めに対抗するため
北条氏が用いたことで知られている。
だが 桑折西山城では
その50年以上も前に
畝堀が城の守りに使われていたのだ。
桑折西山城の中心部
本丸へと向かった。
はは~。
いや~ これは 本当に まあ…
そうですね。
伊達郡 福島盆地といいますが
一帯を一望にできます。
はは~。
いや~ これは すばらしい。
このお城の すぐ麓を東北自動車道が
すぐ この麓を通っております。
はは~。
前を通ってるのが東北新幹線です。
新幹線! はい。
あっ 新幹線 来た来た来た来た!
あっ 今 新幹線が参りました。
いや~。 これは やっぱり
この桑折西山城が いかに…
見て分かりますね これね。
そうですね はい。
桑折西山城がある場所は
奥州街道と羽州街道の分岐点。
まさに交通の要衝だった。
そこにあった山を利用して
城を築いたのが
伊達氏十四代当主 伊達稙宗である。
山頂には 本丸 二の丸 中館 西館と
4つの大きな曲輪があり
それぞれが 一つの山城とも言える
広さを持っていた。
本丸には 城主 伊達稙宗の館があり
そこで生活すると同時に
政治運営も行われていたという。
それは 当時の山城の機能としては
画期的な使われ方だと千田さんは言う。
…っていうのが
鎌倉以来っていうんですかね
その館の伝統を受け継いで…
それまで見られなかった…
…っていうのが とてもよく分かります。
実際 発掘によって出土した遺物からは
山城で政治や生活が行われていたことを
はっきりと見ることができる。
こちらが…
中国から もたらされた青磁。
こちらが 瀬戸美濃の大窯って…
今の岐阜県の辺りで 作られていた
陶器の皿でございます。
京都などとの交易によって
もたらされた高級品の数々。
伊達氏が 中央と密接なつながりを
持っていたことが分かる。
すり鉢や火鉢など
日常生活で使われていたものも
多く出土している。
これ 今度は これ 石臼…。
この ちょっと ボロッとしたのが
これが…
そうか~ だから ちゃんと山の上で
抹茶も飲んでね。
いや~ 文化的な当時の武士たちの
生活の様子っていうのが
よく分かりますよね。
そうですね。
そうですね。
更に 桑折西山城の
大きな特徴となっているのが
伊達の一族や
有力家臣が暮らしていた
中館や西館といった曲輪。
そこにも
本丸に劣らない防御が
施されている。
おっ! 何かあるあるある!
いや~ これは すごいですね。
中館。 こちらが西館。
ここが区画する空堀です。
はは~。 いや これは見事な空堀ですね。
そうですね。 先ほど見ていただいた…
いや~ これは 一段と
規模が大きいですし…。
そうですね。
また深いですね。
そうなんですよ はい。
特別に空堀の底へ下りさせてもらった。
ちょうど…
はは~。 いや~ 立派ですね これね。
はは~。 これ 比べると こっちの方が
ちょっと土手というんですかね
土塁が高いんですね。
より本丸に近い方の方が
より守りが固い内側だっていうですね
そういうことは意識してる
ということだと思いますね これ。
この強力な防御を備えた曲輪に
一族や有力家臣を
住まわせていた伊達稙宗。
もともと それぞれの領地に
館を構えていた彼らを
自らの城に集めることで
権力を一元化させる狙いがあったと
考えられている。
桑折西山城の城下にも
それを
更に推し進めようとしていた痕跡がある。
先生 ちょっと この図面を
ご覧になってください。 はい。
はは~。 あ~!
はは~。
桑折西山城の周辺には
例えば 南側の常陸館ですとか
駿河館跡ですとか
周辺に いっぱい
こういう遺跡があるんですね。
この常陸館という名称なんですけども…
伊達の家臣の
名前が付けられた
いくつもの館。
つまり
桑折西山城の
城下には
城を囲むようにして
家臣たちが集められ
住んでいたと
考えられるのだ。
有力な家臣に
なっていく人たちが
この稙宗の本拠のお城
この桑折西山城の周りに屋敷を持って…
新しい様子っていうのが
よく見えてきますよね。
こうした
城下に家臣を集める城づくりは
織田信長が 永禄6年に
小牧山城を居城としてからのこととも
いわれてきた。
だが それより30年も前に
伊達稙宗が
信長と同じ城づくりを行っていたのだ。
さあ 今回も さまざまな分野の専門家に
お越しいただきました。
よろしくお願いいたします。
よろしくお願いします。
まず 千田さんには
ロケに行っていただきましたけれど
桑折西山城 更に ちょっと
その先の時代に つながるような
お城だったんですね。
この天文年間ごろを境にして
その山城の上にですね
実際に大名が暮らす
あるいは そこが政治の場になる
そして軍事拠点でもあるっていうですね
新しい山城っていうのが出現してくる
ということになったんですが
なんと この桑折西山城の場合は
その 軍事 生活だけではなくって…
これから30年ぐらいあとにですね
織田信長が
新しいタイプのお城をつくっていって
それが直接 近世のお城
近世の城下町に つながるんですが
その動きを先取っているというですね…
これは 本当に あのお城から見えてきた
画期的な新しい歴史のイメージではないか
というふうに思います。
小和田さんは このお城
行ったことがあると聞いていますが…。
はい そうなんです。 私 やっぱり
戦国武将の主な城は
大体 歩いてるもんで。
ただですね
一度だけしか行ってないんですよ。
それも 今から30年ほど前ですので
もう 本当
木は生い茂ってるし
草はボ~ボ~だし
どっかから
ヘビが出てきそうな
そういった所を歩いたんで
きれいに整備された様子を見たら
ああ また
すぐ行きたくなっちゃったような
そんな感じですね。
あの でも いかがですか?
更に整備が進むと
あのように いろんなことが
分かってきましたけど。
やっぱり 早いんですよ。
天文元年というのは 1532年ですから
まだ それこそ…
それこそ 信長だ 秀吉は
まだ生まれてないような頃に
あれだけのね 大きなお城が まさに
東北で出来ていたっていうのはね
ちょっと びっくりですね。
そうですよね。
あの 中野さん いかがですか?
東北に こういったお城があったって。
そうですね。
何か 先べんを切ったのが伊達稙宗で
それの 何か いいとこ取りをして
織田信長が そういう城郭を
町をつくったっていうふうに考えると
やっぱり 先駆的な人というのは
いつもいて そのあとに
それを広める人がいて
っていう流れが
どの領域にもあるのかな
というのは
感じましたけどもね。
ちょっと
違うテーマの話ではあるんですけども…
だけども
それに先立つこと30年ぐらい前に
コルセットをなくした
エミーリエ・フレーゲっていう
女性がいたんですよね。
この人が先べんを切って
本当は改良服をつくったんだけども
はやらせたのは ココ・シャネルだった。
あ~ はい。
磯田さん いかがでしたか?
いや~ 驚きましたね。
まず 大きさに驚いた。
でね あれは大きいんですけど
大きく見せる城でもあるなと
思いましたね。
ヘソの部分に わざと つくってると。
ここをおさえとけば
奥州 羽州の覇者としては
王者だっていう場所に
でっかい深い堀を掘って
人に見せるために
つくった城だなと思いました。
それとね…
要害堅固というよりは。
あの 恐らく
周りに有力者を住ませるために
団地を形成するかのように でかい城と
その麓に大きな屋敷が配置できるという。
磯田先生 さすがです。
実際 現地 行ってみますと
確かに桑折西山城っていうのは
ものすごい崖の上の登れないっていう
お城と地形ではないんです。
それを 横から見たらですね
本当に それらを従えて
伊達稙宗のお城が
山の上にあるっていうですね
まあ ものすごく立派に見せる
そういうお城だっていうのは
そのとおりだというふうに思います。
家臣だけじゃなくて
町人たちも集めようっていう
そういう ある程度の
都市スペースっていうか…。
城下町って
自動的にあると思ってますけど
戦国期 ある時期までは
城と町は別ですからね!
城と町と それと家臣の屋敷っていう
3要素があるんだけど それが 全部…
だけど それが
集めて つくろうという意志が
ある程度 見受けられるところに
驚いてるわけよね。
これね やっぱり あれなんですよ。
伊達氏 稙宗の頃は 似たような
どんぐりの背比べになるような領主が
いっぱいいて その中で やっぱり
「俺は すごいんだぞ! 目立つんだぞ!」
ということをアピールするために
大きな城をつくってるんですね。
ほかの連中から見て
「あっ あの人には 俺は もう かなわない」
と思わせる。 だから むしろ…
それが あの桑折西山城の
一番のポイントじゃないかなと
思いますね。 う~ん。
では 桑折西山城を築いた伊達稙宗とは
どんな人物だったのか見ていきましょう。
長享2年 1488年に生まれた伊達稙宗。
彼は 20代前半で伊達氏の家督を継ぐ。
もともと 伊達郡を治める
一領主にすぎなかった伊達氏だが
稙宗の代には
現在の福島県北部から宮城県南部
更に
山形県の南部にまで領土を広げていた。
稙宗の勢力拡大を支えたのが…
彼には 男女合わせて
21人もの子どもがいたといわれる。
その子どもたちを 次から次に
周辺の大名と縁組みさせていった。
縁組みを拒んだ…
硬軟織り交ぜた手段で
版図を拡大させたのである。
その結果 周辺の
ほとんどの大名と縁戚関係が結ばれ
伊達氏は
奥羽地方屈指の勢力へと成長した。
更に 稙宗が重視したのが
幕府とのつながり。
伊達氏は
代々 室町幕府と密接な関係を持ち
将軍から
名前の一字を与えられることも多かった。
稙宗の名前も
十代将軍 足利義稙から
一字を拝領したものである。
そして 稙宗は
大永2年 35歳の時
幕府から ある役職に任命される。
それが 陸奥国の守護。
それまで
守護が置かれていなかった奥羽において
異例の地位を得たのだ。
名実ともに奥羽の盟主となった稙宗は
次なる行動に出る。
それが 桑折西山城の築城であった。
天文元年 稙宗は45歳にして
この城に拠点を移し
独自の支配体制を構築していく。
その象徴となったのが
矢継ぎ早に制定した新しい法制度である。
居城を移した翌年から僅か6年で
4つもの法令集を発布。
伊達氏による
新たな支配体制を世に示した。
稙宗が政治を行った場所が
桑折西山城の本丸に
残されている。
あっ 先生 こちらが…
この柱の所から それぞれ…
これは大きな建物ですね。
えっ 稙宗気分で
ちょっと中へ入れていただきましょう。
はい。 ここが玄関に…。
こんにちは。 玄関ね ここから入って。
どっちだろう? どっちが あれですかね
奥の部屋かな。 あっちかな?
恐らく あちらの方になるとは
思うんですけれども。
こっちから ガラガラって。
ハハハハハハ!
いや~ ここ 広間の…。
ここが広間になっていたと思われます。
だから 稙宗さんは
こっちにいたのかなあ。
ちょっと これ 立派につくっているような
感じがあるので
恐らく そこらが上座ではなかったかな
というふうに思われます。
かの有名な「塵芥集」。
あるんですけれども その…
稙宗の行った政策の中でも
歴史に名高いのが
天文5年に制定した「塵芥集」。
訴訟に関わる決まりを定めた法令で
なんと 171もの条文が記されている。
その内容は 殺人や窃盗といった
刑事犯罪をはじめ
土地の売買や質入れでの もめ事など
細かく多岐にわたる。
中には こんな条文もある。
「夫婦げんかについて。
離婚が成立した後に
別れた夫が後悔して
離婚していないと
言い張るのは処罰に値する」。
「犬を殺すのは
鷹の餌にするのであれば
罪にならない。
ただし 身分の高い人の
家に入って
犬を殺してはならない」。
更に こんな規定も…。
「道で見つけた落とし物について。
桑折西山城の
橋のたもとに
札を立てて
落とし物の特徴を
申し出た者に
返すようにせよ」。
この「塵芥集」の特徴について
南奥羽の中世社会を研究する
遠藤ゆり子さんは こう語る。
結論から言えば…
第一義的には…
実際 「塵芥集」の中には
稙宗が 家臣だけでなく
全ての領民に目を向けていたことを
うかがわせる条文がある。
「万民を育むために
用水路を
通すようにせよ」。
「農業用水は
万民の助けである。
誰か一人の損得で
用水路を潰すことは
民を育む道理に
反するものである」。
…というふうな中で使われています。
…フレーズなのかな
というふうに思います。
家臣だけでなく
領民のための政治を掲げることで
稙宗は 新しい国づくりを
行おうとしたのである。
伊達稙宗が行った新しい国づくりを
見ていただきましたが
小和田さん この稙宗の動き
どのように感じますか?
これ あの いわゆる戦国家法
まあ 分国法ともいってますけど。
これは
いろんな大名たちが制定してますが
この「塵芥集」は 結構 早い方ですね。
で しかも 171か条というのは
ちょっと群を抜いてます。
そういった意味では
夫婦げんかに対しての口出しもしてるし。
そういったところなんかは
う~ん まあ
庶民の生活
よく見てるんだなあという気はしますね。
あの あらゆる
細かな法律を定めてっていうのは
逆に言うと 今まで それぞれ
地元の武士たちが
自分たちで決めてた
自分たちで判断していたことを
「いやいやいや それは
俺が判断するんだから」ということで
それぞれの判断 全部 自分だっていう
ところへ持ってこようとすると。
これ 周りの人
たまらないっていうのか
全部それだと 「お伺い立てなきゃ
いけないんですか?」とか。
誰かんちに犬が入ったら それは
犬 取ってきちゃ駄目だとかって
「そんなことまで言われるの?」っていう。
ものすごい くちばし入れる
介入屋なんですよ この人。
これは やっぱりね
東北の在地っていうか
その現地の状況が
生み出してると思います。
普通だったらね 畿内の近くだと
守護が ちゃんといて
何か ちっちゃい領主同士が
けんかしたり あれしたら
やっぱり 調停に入るんですよ。
強制執行をしたり。
だけど 奥州には 守護いないんですから。
今 なったばっかりですから 彼が。
で なったから 「君たち
新しいシステムで私が調停します
裁判所をやります」って
やり続けるわけですね 強い介入を。
だから
さっき見たので 一番面白かったのが…
つくってました。
その領主の領地の地面に
携帯でも何でも落ちてたらですよ
そこの領主の地面だから
そこの領主が処置しないと
いけないじゃないですか。
ところが 稙宗は 基本的に
西山城下が この辺りのセンターですと。
そこの落とし物は 落とし物センターの
うちのところでやります。
…って強く介入するわけですよ。
何か今 稙宗が磯田さんに乗り移って
何か選挙演説してるみたいな気分でした。
聞きながら。
いや 面白いですよね。
非常に介入型の人であるということを
今 伺ったわけですけれども。
介入する時に
相手の出方というのがあるわけで
どうやって
相手の自由意志を奪うかという方略が
大事になってくるわけですよね。
こちら側が ブランドのロゴのついた
服なんかを着ていると
相手方が より協力的になったりとか
より その まあ 何て言うか
より多くを差し出してきたりということが
分かってまして。
そういうことを 恐らく 彼は経験的に
知ってたんだと思うんですよね。
そうすると その大きな城というのも
非常に効果的ですから…
…ということで 築城に かなり
力を割いたんじゃないかなあと思います。
磯田さん 何か だんだん
稙宗の人物像が
立体的に見えてきたなという
感じしますけれど いかがですか?
やっぱり 稙宗 目指してたのは
奥州・羽州の覇者でしょうね。
ただの戦国大名じゃ やだっていうのが
あるんだと思うんですよ。
だから やっぱり ほかの このころの
東北の大名家がやらなかったことを
いっぱい成し遂げてますよね。
帳面の作成だとかですね。
周りの大名じゃ ちょっと
まねできないようなシステムを
いっぱい持ってると。
う~ん。
これが 実は…
奥羽地方
現在の東北で勢力を拡大させ
法による支配体制を強化していった
伊達稙宗。
だが その理想を追った急進的な改革は
次第に…
桑折西山城の城下に集められたことで
家臣たちは もともと持っていた所領から
離れざるをえなくなった。
更に 稙宗が行う民衆のための政治は
家臣の既得権益を
奪うものでもあったのだ。
後に 伊達政宗は
曽祖父である稙宗について
こう評している。
「稙宗は
家臣の扱いが悪く
家中では
皆が恐怖心を持ち
恨みを抱く者が
多かった」。
そんな中 拡大路線を推し進める稙宗は
新たな外交政策に打って出る。
越後国の守護である上杉氏に
跡継ぎの男子がいなかったため
我が子を養子に送り込もうと
もくろんだのだ。
もし 上杉と関係を結ぶことができれば
伊達の影響力は
日本海まで及ぶこととなる。
これに対し
越後では賛否両論が巻き起こり
反対派の上杉家臣が
反乱を起こすに至った。
この時
稙宗が周辺の大名に送った書状には
こう書かれている。
「越後では
意見が分かれ
内乱が
起こっているが
反対する者は
退治する」。
武力を行使してでも あくまで
上杉との関係を結ぼうとしていた稙宗。
だが 天文11年 事態は思わぬ展開をする。
鷹狩りに出かけた稙宗が
帰り道に捕らえられ
桑折西山城に幽閉されてしまったのだ。
謀反を起こしたのは 稙宗の嫡男である
当時24歳の伊達晴宗。
稙宗の支配体制に
反感を抱いた
家臣たちが
晴宗を担いで 稙宗失脚を図ったのである。
間もなく 稙宗は腹心の家臣に救出され
桑折西山城を脱出。
これから いかに行動すべきか
選択の時が訪れる。
その心の内に分け入ってみよう。
なんということだ…。
家臣どもが晴宗をたぶらかし
わしを閉じ込めるとは。
だが ここで
きゃつらに屈するわけにはいかぬ。
昔ながらのやり方では 新たな時代に
伊達が生き残ることはできまい。
それができるのは わしだけじゃ。
たとえ
晴宗たちと戦ってでも当主の座を守り
新たな国づくりを続けるべきだ。
いや 待て
家臣の多くが晴宗についてしまうとは
一体 どういうことか。
そこまで わしは嫌われておるのか。
これでは
わしの国づくりに誰もついてはこぬ。
確かに これまでのやり方は
いささか強引なものだった。
家臣たちが反発するのも
当然だったのかもしれぬな。
ここは晴宗に当主の座を譲って
おとなしく隠居するべきか。
稙宗に選択の時が迫っていた。
伊達稙宗に選択の時が訪れました。
息子の晴宗と戦ってでも
当主の座を守るのか。
それとも
息子に当主の座を譲って隠居するのか。
皆さんが稙宗の立場だったら
どちらを選択しますか?
中野さんは どちらを選択しますか?
いや もう これ 1以外ないと思いますね。
戦ってでも。
というのは この人は
権力とかブランド力とか
そういうものを使って
人を支配するっていうやり方で
これまで体制を築いてきた人ですので。
その力が 彼に もう ないんだと
分かった途端に食われると思うんですね。
まあ 戦っても 戦わなくても
死ぬのであれば
まあ 戦うしかないかなと
自分なら思うと思います。
では 小和田さんは?
私も やっぱり 戦ってでも
当主の座を守るという方を
選びますね。
今回の この いざこざというか
争いの原因が 上杉との連携ですよね。
恐らく 稙宗は…
というのは 当時 太平洋側の方は
そんなに海を使った海運というのは
発達してないんですよ。
日本海の方は…
そうすると やっぱり
京都の情報が早く入る
あるいは いろんな物資が早く入る。
そういった意味での
経済的なプラス面というのを考えると
やっぱり このまま突っ走ろうと
したんじゃないでしょうかね。
選択1ですね。
千田さんは どちらを選択しますか?
はい。 私は「当主の座を譲って隠居する」を
選びたいと思います。
あの 稙宗のですね
改革から考えれば
これは 一歩二歩 後退ということでは
ありますけれども。
当主の座を息子に譲ったあとにですね
まさに 後ろから こう
だんだん時間をかけて
息子を操っていってですね
結果としては 自分のやりたいことを
やっていくということっていうのは
多分 可能だったんではないかと
思うんですね。
更にですね
さまざまな東北一帯の有力武士と
婚姻関係を結んできていますから…
いざとなったら 息子廃嫡で…
これは まあ
できるだろうと思うんですよね。
ここは 隠居しておいた方が
よかったんじゃないかな
というふうに思います。
皆さんの意見が出そろいましたが
磯田さんは どちらを選択しますか?
2。
私は 当主の座を譲って
やっぱり隠居する。
やっぱりね 国内の豪族
稙宗に ついていかないと思います。
なぜかっていうと
彼が やろうとしてることっていうのは
上杉と伊達の一体化ですよね。
ものすごい野望だと思いますね。
上杉氏っていうのは
もう名門中の名門ですよ。
何せ 尊氏のお母さんのおうちですから。
足利尊氏の。
豪族からすると
さんざんに介入された上に 更に…
「もう勘弁してよ 稙宗さん」と。
息子が 「お父さん やめて~!」って。
…って言ったら 一斉に みんな
行った状態でしょう そっちへ。
これは もうね 教養も頭もいいんだから
稙宗さんは 連歌 上手だから
連歌でも詠んで
もう暮らした方が楽しい!
これ でも 磯田先生の2と千田先生の2と
ちょっと違うんですよね。
何か 磯田さんの2って
もう どんな… 力を失っても
なんとか生き延びよう
遊んで暮らせばいいじゃないっていう
2なんですけど 千田先生の2って…
そのキングメーカーとして
生き延びるために
結構 実は気脈を通じた豪族たちの
力を借りるとか
諸国のね 血縁の人たちの力も
使おうという発想なんですけど。
これ お二人ぐらい
コミュニケーション力があれば
いいかもしれないんですが
伊達稙宗だったとしたら どうでしょう。
確かに難しいかもしれないですね。
さんざん 嫌われること
やってきましたからね。
でも 半分ずつってあるね。
「困ったら僕に言って」って言って
晴宗が外交とかで困ったら
周辺の大名に手紙書いて 使者を送って
「こうこうやってくれ」というふうに…
それはね あり! だから
力は もう息子に譲ったんだけれども
どこかで リモートコントロールして
まだ権限を握り続ける手は ありうる。
だから 例の徳川家康が隠居しますけど。
そうですよね はい。
ただ 家康と稙宗って
だいぶ性格違うから
何か こう 稙宗って
何か そういう地位を…。
そう! そうそう そうそう そうそう!
影の立て役者みたいになることに
満足しない気がするんですよね。
そうなんですよね。
いるんだよなあ こういう人。
さあ それでは
伊達稙宗がとった選択をご覧ください。
桑折西山城から
家臣の城に逃げ延びた稙宗は
縁戚関係を築いていた大名たちに
書状を送り 出兵を求めた。
息子の晴宗と戦ってでも
当主の座を守ることを決断したのである。
これにより 伊達の家臣だけでなく
奥羽一帯の大名が稙宗派と晴宗派に二分。
6年も続く戦乱が幕を開けた。
乱の勃発当初は
近隣の大名の多くを味方につけた
稙宗が
優勢に戦いを進める。
晴宗から
桑折西山城を奪い返すことにも成功。
城に戻った稙宗は こう語ったという。
だが 予想に反し
戦いが収まることはなかった。
伊達家の対立が飛び火し
周辺大名の家中でも
稙宗派と晴宗派に分かれた争いが
次々に起こったのだ。
援軍の減った稙宗は劣勢となっていく。
更に 娘を嫁がせていた
有力大名 会津の蘆名氏が
晴宗派に寝返ったことで
稙宗は窮地に陥る。
そして 天文17年
この奥羽一円を巻き込んだ戦乱は
将軍 足利義輝の停戦命令によって
幕を下ろす。
稙宗は 晴宗に敗れたのだ。
戦乱が終わると
稙宗は現在の宮城県にある丸森城に隠居。
以後 伊達の政治運営に関わることなく
永禄8年 この世を去る。
一方 伊達氏十五代当主となった晴宗は
天文の乱の終結直後
居城を米沢城に移す。
稙宗が 新たな国づくりを行わんとした
桑折西山城は
築城から僅か16年で
廃城となった。
だが この城には 稙宗の死後
再び使われた痕跡が残されている。
おお! いや これは すごいですねえ。
そうです。
敵の侵入を阻むため
門の外側の道をL字形に曲げる外桝形。
更に この桑折西山城の西館では
門の内側にも桝形が築かれ
二重に守りを固めていたのだ。
こうした出入り口が
つくられるようになったのは
戦国末期の頃である。
…っていうことを証明する
そういった門の形だと思います。
実際に 誰がこの城に桝形を築いたかは
解明されていない。
だが 一説では 稙宗のひ孫である
伊達政宗だったのではないかとも
考えられている。
稙宗の死から2年後に生まれ
奥羽の覇者へと のぼり詰めていった政宗。
稙宗が この桑折西山城で抱いた野望は
政宗へと
引き継がれていったのかもしれない。
息子の晴宗と戦うことを選択した稙宗は
結果的に戦いに敗れ
隠居することになります。
やはりですね
あまりにも 急ぎすぎたというのと
周りの人の 何て言うんでしょうか
気持ちを考えずに 目的に向かって
突き進んでしまったというですね
そこに 非常に
大きな失敗の理由があったと思います。
多分ね この…
「お父さん やめて」っていう話は
多分あったと思うんですけど
全く気が付いてないというのか。
もう全然聞いてないと。
結果 最悪のとこへ行くんですけど
自分 絶対 正しいと思ってるので
当然 戦うよと。
当然 勝つよと思ってたら
「あれ 負け? あれ? ま… 負け?
あれ どうして?」みたいなですね。
いや~
これ戦国時代の話だと思うでしょう。
でも 今のリーダーでも
こういう人 選ばれやすいんですよ。
聞く耳を持たない
確証バイアスっていうのがありますよね。
自分の信じていること以外の情報を
全くスルーしてしまうということが
あるんですけども。
だけれども
こういう人の発する言葉というのは
非常に分かりやすく短く簡潔で
大衆に浸透しやすいんですね。
一定数の大衆は支持するんですね
こういう人を。
その支持する人と
支持しない自分の敵っていうふうに
国民なのに自分の敵って思っちゃう
っていうタイプの人が
世界各国に やっぱり
そういう人が支持されてますよね。
国民の分断を生むんですけれども。
全く戦国時代の話には自分は思えず
ああ 今でも 500年たっても
人間って あまり変わらないんだなあ
というふうに感じましたけどもね。
確かに そうですよね。
磯田さん いかがでしたか?
いや もう 稙宗のせいで
あの一帯 大混乱になっちゃいましたね。
だけど その過程でね
私ね 晴宗もね 穿った見方すると
おいしい面もあったと思うんです。
えっ そうなんですか。
えっとね 国内の豪族たちに
こう言うわけですよ。
「うちのお父ちゃん 本当にお前らに
中小領主の独自性を認めずに介入したけど
悪いけど 俺 指揮 執るから
ちょっと上に立たせてくれ」って言ったら
国内も…
そうするとね やっぱりね ある程度
国内の豪族に稙宗みたいに介入したり
文句言ったりできる地位になると。
これが 恐らく
晴宗 輝宗と ある程度 受け継がれて
政宗 迎えるんだと思うんです 私は。
ああ~。
あの~ 千田さん この伊達政宗と稙宗は
共通する部分があるんでしょうか?
まあ ひいおじいさんと
ひ孫の関係ですけれど。
これがですね 城づくりで見ると
稙宗と政宗って
実は おんなじことやるんですよ。
もう時代の多くのお城っていうのは
ああいう…
そういうものをつくる時に 政宗は
今の仙台城 高い山の上にお城をつくって
政宗自身は 基本的に山の上に暮らすと。
そこに大御殿 建てるんですよね。
更に 今も東北一の大都市であります
仙台の城下町を
完成させていくということで…
…ということで
この2人は よく似てると思いますね。
そうなんですね。
やっぱり…
ですから これ まあ
歴史に「もしも」っていうのは
あまり私は言わない方なんだけど
ここで やっぱり稙宗が息子の謀反に…
謀反というか戦いになってなくて
やってれば
おんなじように
政宗がやったぐらいの広さのね
東北王というか 奥州王というか
そのぐらいのあれに
なったんじゃないかなあと思いますね。
多分 政宗 いろいろ
資料なんか読んだりね
あるいは お父さんや おじいさんから
話を聞いたりして
稙宗が どういうことをやろうとしたか
やったかっていうのは
もう 当然 知ってたわけで。
その遺伝子というのは やっぱり
自分が うまく… それを うまく使って
あれだけの勢力に伸びたわけだから。
結果論ですけど やっぱ…
そういう側面はありますね。
さあ 今日は
伊達氏十四代当主 伊達稙宗と
彼が築いた桑折西山城を
取り上げましたけれど
磯田さんは どんなことを感じましたか?
稙宗ね やり過ぎっていうところは
早すぎっていうのも
あったと思うんですよね。
なぜ早いんだろうって考えたら
結局 やっぱり武器の問題で。
火縄銃だと ああいう 稙宗が目指すような
集権化っていうのかね
強い求心力で率いていくということは
やっぱり 火縄銃は数を集めてやるから
すごい 中央集権的な権力を
つくりやすい武器ですから。
ところが これが登場する前にね
火縄銃型の社会を目指したわけですね。
早すぎた天才なのかもしれない。
それが やっぱり彼の不幸で。
発想はできるんだけど
環境がついてこないっていうね。
まだ環境が
火縄銃段階の時代になってないのに
コケちゃったと。
だけど それは 何らかの遺産になって
伊達家が
普通の家じゃないことが残ってて。
それで 政宗っていうので
東北の勇者としてですね
あれだけの広大な領域を やっぱり
持つに至ったのかなあと思いましたね。
いや~ 伊達稙宗の異様さが
今日は よく分かりました。
皆さん ありがとうございました。
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