出典:EPGの番組情報
英雄たちの選択「秀吉の“終活” ~発見!幻の京都新城~」[字]
2020年5月、京都御苑内で発見された秀吉最晩年の城、「京都新城」。幼い秀頼に、どう天下を継承させるか。新発見の城が物語る、秀吉の知られざる“終活”プランとは?
詳細情報
番組内容
2020年5月、戦国史を揺るがす大発見があった。京都御苑の一角で、豊臣秀吉が亡くなるわずか一年前に築いた幻の城の遺構が姿を現したのだ。「京都新城」である。当時まだ5歳だった秀頼のために築いた城といわれる。城郭考古学者・千田嘉博さんは、秀吉の狙いを豊臣家の生き残り戦略と分析する。果たしてその真相とは?新発見の京都新城の分析を軸に、英雄・秀吉の人生最後の戦略、知られざる“終活”プランに迫る。
出演者
【キャスター】磯田道史,杉浦友紀,【ゲスト】千田嘉博,小和田哲男,伊東潤,【語り】松重豊ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
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キーワード出現数ベスト20
- 秀吉
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- 京都新城
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- 関白
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- 有力大名
- 意味
- 千田
- 朝廷
- 徳川家康
- 本当
- 問題
解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)
戦国史を揺るがす大発見があった。
京都御苑の一角で巨大な城の痕跡が
なんと 400年ぶりに姿を現したのだ。
城の名は 京都新城。
当時の史料には
登場するものの
その正体が
謎に包まれていた
幻の城である。
更に 金箔瓦も出土。
五七の桐と呼ばれる
文様は
豊臣家を
象徴するものである。
この城を築いたのは 豊臣秀吉。
一代で天下人に上り詰め
戦国乱世に終止符を打った英雄だ。
東西およそ400m 南北およそ800mに及ぶ
壮大な城郭は
秀吉が亡くなる 僅か1年前に
築かれたことが分かっている。
いや~
ご門をくぐらしていただきま~す!
城郭考古学者 千田嘉博さんが
京都御苑を訪ね その謎に挑んだ。
京都新城の築城っていうのは 秀吉が
考えに考えて 思いついたですね…
…というふうに
言ってよいと思います。
最晩年 病に侵されながら
幼い秀頼を
後継者と定めた秀吉。
徳川家康を信頼し 後事を託した。
ところが
秀吉の死後 家康は秀頼から天下を簒奪。
豊臣家は あえなく滅亡した
とされてきた。
しかし 京都新城の発見によって
秀吉が 秀頼と豊臣家を守るため
周到な布石を打っていた可能性が
浮かび上がってきたのだ。
謎多き京都新城を巡って
戦国史の専門家たちが 熱い議論を交わす。
やっぱり武家のトップとして それで…
最悪の場合 まあ…
死期の迫った秀吉は
一体どのような構想を抱き
秀頼に天下を継承しようとしたのか?
知略を駆使して戦国を駆け抜けた 秀吉。
その人生最後の戦略
知られざる終活プランに迫る!
♬~
♬~
皆さん こんばんは。
こんばんは。
歴史のターニングポイントで
英雄たちに迫られた選択。
その時 彼らは何を考え 何に悩んで
一つの選択をしたんでしょうか。
今回の主人公は こちらです。
皆さんご存じ
戦国の英雄 豊臣秀吉です。
何度も この番組でも
取り上げてきましたが
今回は 晩年の秀吉をテーマに
人生の最期を どう考えて
後を継ぐ者に何を託していくのか
秀吉の「終活」について
考えていきたいと思います。
秀吉にとって 晩年は やっぱり
まあ どうやって
この取った天下を続けていくのか。
こういった悩みがあったはずなんです。
で あの~ 史料 少ないんですけど
新史料が現れました。
これは 文字ではありませんでした。
はい。 京都のお城。
…というふうに
我々 呼んどりますけれども。
これが 初めて土の中から
顔を出したことで…
ということで その お城といえば
この方ですね。
城郭考古学者の千田嘉博さんです。
よろしくお願いいたします。
よろしくお願いいたします。 どうも~。
京都新城について 今日は
一つ キーポイントになりそうですね。
ええ。
この京都新城が見えてきたことで
なぜ秀吉が 死のおよそ1年前という
非常に もう
残り時間が もう少ない時間なんですが
この京都新城というお城を
なぜ築いたのか。
そして 秀吉はですね それを築くことで
その 終活ですよね
どういうふうに捉えていたのかですね。
これは今まで…
…というふうに
考えてこられたんですけども。
はい。 さあ それでは
秀吉の終活を見ていきましょう。
秀吉には 乗り越えなければならない
さまざまな問題がありました。
まずは そこからご覧いただきます。
織田信長が
家臣 明智光秀の謀反により
壮絶な死を遂げた…
この時 織田家の有力家臣の中で
いち早く抜きん出た者こそ
羽柴秀吉だった。
逆臣 光秀を
討伐することに成功した 秀吉。
卓越した軍略で
織田家筆頭家老 柴田勝家を破り
ばく大な経済力で
最大のライバル 徳川家康を圧倒した。
しかし この時
秀吉は既に 50歳近かった。
天下を掌握し
自らの覇権を維持するために
何をなすべきか。
盤石な政権を築くことが
秀吉の課題だった。
大きな壁の一つが
出自の問題だった。
九州の有力大名 島津氏は
秀吉の出自を こう記録している。
「秀吉は まことに
由来なき
人物である」。
農民出身の秀吉を
由緒のない
低い身分の者と
蔑んでいるのである。
そこで 秀吉は
出自の問題を克服するため
朝廷の権威を利用しようとした。
秀吉は朝廷から
従五位下 左近衛権少将に任じられた。
「従五位下」とは 殿上人として
昇殿を許される最初の位だ。
更に その翌年
秀吉は異例の速さで昇進。
朝廷の最高位 関白にまで上り詰めた。
この時 朝廷から「豊臣」の氏を賜り
以降 豊臣秀吉と名乗ることとなる。
当時 来日した宣教師は
その衝撃を こう記している。
更に秀吉は
大名たちの統制を図るために
独自の戦略に打って出る。
秀吉の名字である「羽柴」の姓を
有力大名に下賜する
授姓という政策だ。
これは
秀吉を支えた 有力大名たちの起請文。
羽柴武蔵大納言とは
徳川家康のこと。
「羽柴」が名字
「武蔵」は所領の地名
「大納言」は
朝廷の官職を示している。
ほかにも 小早川隆景や毛利輝元など
いずれの大名も
「羽柴」と名乗っている。
戦国時代の
朝廷官位に詳しい 堀 新さんは
秀吉の授姓政策の
ねらいについて
こう指摘する。
秀吉は まあ
ばらまくんですよね 羽柴姓を。
それで みんな 恐らく…
家制度であったり
そういう家柄とかを意識する
日本人の社会の中で 名字も そして本姓も
全部 変えさせるっていうのは
なかなか できることではないのですが。
秀吉は 自分自身が
そういうものを持ってなかったという
こともあるのでしょうか。
みんなで羽柴一族という…
…というところが
あるのかなと思います。
だが…。
秀吉にとって最大の問題
それは 後継者問題だった。
秀吉と 正妻の北政所との間には
実子がいなかった。 そのため秀吉は
信長をはじめ 家康や前田利家など
有力大名の子供を養子とし
その後の家督相続に備えていた。
ところが…。
秀吉 53歳の年。
側室の淀殿が 待望の子 鶴松を出産。
これで 後継者問題は ひとまず落着した。
その翌年 秀吉は 小田原合戦で
関東の雄 北条氏を滅ぼし
ついに天下統一を果たす。
この時点では
秀吉 そして豊臣家の天下は
末永く安泰であるかに見えた。
今回は戦国史に詳しい方々に
お越しいただきました。
よろしくお願いいたします。
(一同)よろしくお願いします。
はい。 お願いいたします。
さあ 秀吉が天下を治めるため どうしても
克服しなければいけなかったのが
出自問題ということだったんですが。
小和田さん。 この戦国時代とはいえ
秀吉のような 低い身分の者が
天下人になるというのは
そんなに難しいことだったんですか?
そうですねえ
やっぱり 秀吉の出自に関しては
いろいろ諸説あるんですけれども。
一番有力な説が
本当に もう 貧しい百姓のせがれ。
それこそ お父さん
名字も持ってなかったというね。
あの 百姓の中でも
名字を持てる百姓と
名字を持てない百姓といて。
だから百姓の中でも下の部分。
ああ~。
うん これやっぱり…
要するに
秀吉のいいところを信長が見て
それを
うまく引き出したというところで
秀吉自身が あれだけ
出世できたっていうわけですから。
う~ん ほかの大名に仕えていたら…
私よく言うんですけども
まあ せいぜい いって
足軽どまりかなあと思いますね。
そうですか。
はい。 ええ~。
そうですね。
あの 信長の抜てき主義についてですね
この抜てきっていうのは 実際には
秀吉にしろ 光秀にしろね
出自が定かならぬ者で 一族郎党とかが
あまりいない人を
抜てきしてるんですね。
ですからこれは
ある意味では 実力主義なんですけど
逆に 謀反を起こさせないように
してるんじゃないかなと。
まあ それでも本能寺の変でね
やっぱりやられてしまったって
いうことがあるんで。
結果的に いくら用心しても
やはり戦国時代っていうのは
すごい時代だったんだなと思います。
う~ん。
さあ そして朝廷の権威を背景に
出自の問題を克服した秀吉ですが
名字を与えるという方法。
何か秀吉らしいというか
すごい そういう方法があったか!
と私は思ったんですが。
これね うまい方法ですよねえ。
お金はかかりませんし。
チーム羽柴みたいな感じで
何か 一族になったような
まあ 気がしてくれるんじゃないかって
いうふうに
期待できますよね。
まあ 与えて
一体感を持てればいいんですけど。
もともと 有力大名ですよね。
ほいで
お前 今日から羽柴だ!
名乗っていいよって言われたって
内心じゃ腹立ってますよ。 ハハハハ!
だって ねえ
丹羽長秀の羽っぱとさ 柴田勝家と
ひっつけたような合成名字をですよ。
親代々 ちゃんとした名門の大名が…。
そうですよねえ。
ありがとうございます!
もう 私は 今日から羽柴でございます!
なんて言って 「知るかっ 秀吉っ!」
と思ってますよ それは。
確かに! 家康からしたら もう
どういうこちゃねんって話ですよね。
腹立つに決まっているわけですよ。
すごく まあ ある意味
リアリストなところっていうのか
あの~ 何をしたら人が喜ぶかって
随分 達人だったと思うんですね。
でもその達人の秀吉が もう羽柴をあげて
なんとかこれ チーム羽柴で みんな
こう 何か こっちに
ついてくれないかなあって思うって
何か ちょっと悲しいっていうのか。
秀吉ね もうそれぐらい
追い込まれてるんだなあっていうのは
思うんですけど。
あの~ 更に その 後継者問題が
非常に大きな問題かと思うんですが。
これについては
小和田さん いかがですか。
これはやっぱり 信長と秀吉の
差っていうのは大きいですね。
要するに信長の場合には
まあ 実の子供が 確か22人かなあ。
それに 養子とか養女なんかを入れると
27人ぐらいになるのかもしれない。
まあ秀吉も養子は
何人もいますけれど 実子としては
やっぱり さっき出てきた 鶴松と
このあと出てくる秀頼と
この2人なんで。
まあ そういった意味での子供の数の差。
それでしかも ある程度 信長の場合は…
もうちゃんと
政権移譲をやってるんですよね。
まあ その辺が
信長と秀吉の大きな違いですね。
さあ 後継者 鶴松も誕生し
秀吉の終活も安泰に見えたやさき
秀吉に最大の危機が訪れます。
実子 鶴松を 正統な後継者とするため
秀吉は
その下地作りを急いだ。
有力大名の養子を
他家へ転出させる一方
養子同士を婚姻させ
一族の結束を図った。
ところが
そんな秀吉に思わぬ悲劇が襲いかかる。
数え年 僅か3歳の鶴松が
夭折してしまったのである。
秀吉の後継者問題は
再び暗礁に乗り上げてしまう。
そこで 秀吉は
自分の姉の子供
甥の秀次を新たに養子とした。
血縁のある者が少なかった秀吉にとって
既に成人し
自らの天下統一を支えてきた武将は
秀次しかいなかった。
鶴松の死から4か月後 秀吉は秀次に
関白職を譲り 正統な後継者とした。
屏風絵に描かれた 聚楽第。
京の都に築かれた
関白の政庁である。
壮麗な天守を持つ城郭は
かつて 平安京の大内裏があった場所に
建っていた。
秀吉は 養子となった秀次に
関白職のみならず
この聚楽第まで譲ったのだ。
秀吉は秀次に国内の政を任せると
海外制覇への野望を抱くようになる。
秀吉の命令で全国から集められた
総勢30万の大軍が朝鮮に侵攻した。
文禄・慶長の役である。
鶴松が死んだことで やっぱり秀吉は
かなり動揺してますので
文禄・慶長の役と呼んでる
朝鮮侵略戦争も
いきなり
あのあと 具体化しますので。
そうすると もう…
明を征服したあとには
大唐の関白にすると
言いだすわけですけども。
まずは…
これは あの
朝鮮侵略とセットになっていて
というふうに考えています。
しかし 明くる文禄2年
57歳となっていた秀吉に
予想だにしない出来事が起こった。
淀殿が再び懐妊し
秀頼が誕生したのである。
拾われた子は健康に育つ
という
秀吉の我が子への思いが
込められていた。
秀吉の
溺愛ぶりを伝える書状が残されている。
「拾は
よく遊んでいるか」。
「とにかく精を出し
乳を飲ませるよう
言いつけよ。
もし そなたの乳が
足りないなら
なんとか たくさん
乳を飲ませるようにせよ」。
しかし 秀吉の天下を受け継ぐ者は
一人だけである。
実子 秀頼か それとも
既に関白に任じられた 秀次か。
果たして 秀吉の選択は…。
当時の秀次側近の記録には
秀頼と秀次の娘が婚約を結ぶべきと
秀吉が命じたとある。
つまり秀吉は 当初 秀頼を
関白 秀次の後継者とすることで
この問題を
平和裏に解決しようとしていたのである。
豊臣政権を研究する
矢部健太郎さんは
この時の秀吉の心の動きを
こう読み解いている。
つらい思い出として 鶴松が幼くして
亡くなっているというのが
ありますので…
その 健康な成長っていうのを
何年間かは やっぱり秀吉としても
見ないといけないですよね。 ですから…
それはやっぱり 当然の考えだと思います。
ところが その翌年。
秀吉に病魔が襲いかかる。
病名は明らかではないが
当時の記録には こうある。
「秀吉は意識不明となり
小便を垂れ流した」。
同じ頃 秀吉の朝鮮侵略は
こう着状態に陥り
出陣した将兵の間に
えん戦気分が まん延していた。
先の見えない対外戦争 そして自らの病。
徐々に 疑心暗鬼が生じた秀吉は
自らの後継者問題に
残酷な決断を下すこととなる。
豊臣政権の奉行衆が
関白 秀次を詰問した。
秀次と その家臣たちが
秀吉に対する謀反の談合を
ひそかに行い
武具などの準備をしていたためだという。
その5日後には 秀次の関白職を剥奪し
高野山へ追放。
そして…。
7月15日
秀次は 切腹して果てた。
享年28と伝わる。
京都市にある 秀次の菩提寺 瑞泉寺。
ここに 事件のあらましを記録した
縁起絵が伝えられている。
京 三条河原で 秀次の正室や側室34人
そして
秀次の子供5人が 次々に処刑された。
秀吉は 秀頼の将来に禍根を残さぬよう
徹底的に秀次の一族を抹殺したのだ。
更にその矛先は 関白の政庁だった
聚楽第にも向けられ
跡形もなく破壊した。
事件後 秀吉は有力大名たちに
起請文を提出させた。
第一条には こうある。
「秀頼に対し いささかも
裏切るような心を持たず
お守り申し上げること」。
非情な手段で秀次を排斥した秀吉は
こうして 実子 秀頼を
正統な後継者と定めたのである。
磯田さん それにしても
秀次事件は ちょっと…
悲しすぎるなと思ったんですが。
もう ひどい話ですよ。
ですよねえ。 本当に あれは。
皆 誰が後継者になれるかっていうのは
結構あるわけで。
でも ここで 秀吉のあとを
狙うっていうのは 秀次だと。
そうしたら 例えば
東北の大名たち 伊達や最上なんか
大事な娘さんを 秀次のもとに嫁がせて…
諸大名は。
はい はい…。 ところが その娘たちが
みんな 殺されちゃったわけですよねえ。
秀次と一緒に。
そうですねえ。
そうしたら… ええっ!? 大事な娘を
このあと 豊臣政権 支えようと思って
秀次のとこ せっかく入れたのに
虐殺されちゃったよ! ってことに
なると
やっぱり そりゃあ 恨みってのは
秀吉や その番頭である
まあ 奉行の石田三成とかに
向くわけですよねえ。 ええ。
何か変わってくんですよ
やっぱり この秀次事件から。
そうなんですねえ。
小和田さんは どのようにお考えですか?
この秀吉の実子の鶴松が
天正19年8月に亡くなって
その同じ年に 秀吉の弟の
秀長が1月に亡くなってんですね。
ほう。
うん。 で これねえ
まあ 歴史に
「もしも」はあまり言えないんだけど
秀長がもし生きてれば この
秀次事件っていうのは
私は起きなかったと思ってますね。
その秀次事件だけじゃなくて
例の有名な
千 利休切腹事件も
あるし。
それからまあ
文禄・慶長の役もある。
まあ 秀長が ある意味では
ブレーキ役兼ナビゲーター役を
務めていた。
それがなくなっちゃった途端に
どうも秀吉の暴走が始まった。
その一つのきっかけが
この秀次事件だと思いますね。
で これはですね
秀吉が まあ秀次に対して
完全に
ぬれぎぬと言いったらいいですかね。
何もないところで
謀反を企てただろうということで
まあ いったともいわれているんですが。
最近ですね 秀次が本拠にしていた
これは もともと秀吉から譲られた
京都の聚楽第なんですが。
地面を揺らして
地中に埋まってるものを探す
振動波の探査によって
ここが聚楽第の
天守があった場所だとかですね。
そういう非常に詳しい構造が
分かってきたんです。
で それを見ていますと
実は聚楽第の
中心部の外側に
非常に大規模な
堀を
巡らそうとしていたと。
秀吉は その秀次を切腹させたあとに
聚楽第を すぐ壊してしまいますから
その外郭を造りかけていた
この主人公っていうのは
これはもう 秀次でしか
ないのではないかと思います。
そうすると 実はですね この秀次の側も…
…というのが
お城の側から見えてくるのではないか
というふうに思います。
まあ恐らく そこには あれでしょうね
秀吉と秀次の思い違いがあって。
秀次としては 自分は もう
天下を譲られたも同じなんだから
自由裁量で そうやってね
お城をね 造るのはって
思い込んでいるわけですよ。
ところが だんだん秀吉が衰えてきて
疑心暗鬼が生じてきて
お前の勝手にはさせないぞ
みたいな気持ちがね
だんだん盛り上がってきて
だんだん擦れ違いが
出てきちゃってるんじゃないかなあと。
確かに。
いやいや
なかなか凄惨な事件だなと思いますが。
さあ秀吉は 後継者 秀頼に
どう事業継承をしていくのか。
去年 発見された 幻の城を通して
千田さんが その謎に迫ります。
京都で戦国史に
新たな光を当てる
大発見があった。
京都御苑の南東の一角で
秀吉が築いた城の
堀跡の一部が出土したのである。
地中深くから現れたのは
戦国時代に多く見られる
自然石を積み上げた
野面積の石垣だった。
こうした石が5~6段積み上げられ
その高さは 2m以上あったと推定される。
この城は 当時の記録に
「新城」と
記録されていることから
京都新城と呼ばれている。
秀吉が
後継者となる
秀頼のために
築いた城である。
更に 堀跡からは
京都新城の性格をうかがわせる
貴重な遺物が出土していた。
あった! ありました!
いや~! きれいですねえ~。
これがですね 京都新城から出土した
金箔瓦です。
金箔が施された瓦には
豊臣家を象徴する
五七の桐と
菊の文様が描かれていた。
京都新城は
この豊臣を象徴する 桐紋の瓦と
もう一つですね
天皇のシンボルでありました
菊の金箔瓦っていうのが
合わせて使われていたというのが
これは 発掘調査で
初めて分かってきたんです。
つまり…
…っていうことが ここから
見えてくるんじゃないかと思います。
今回 堀跡が発掘されたのは
京都御苑の仙洞御所内の一角だった。
その後の調査で 堀の幅は
およそ20mあることも分かった。
京都新城は
東西およそ400m
南北およそ
800mにも及ぶ
巨大な城郭だったと
推測されている。
江戸時代初めに描かれた絵図。
京都新城の北側は
公家の屋敷に囲まれ
すぐそばには 天皇の御所である
内裏があったことが分かる。
京都新城とは
どのような城だったのか?
当時の姿を伝える建物が
今も京都に現存していると
千田さんは言う。
ここに 戦国時代に築かれた
貴重な建物が保存されている。
桃山文化を代表する建築の一つである。
池に面した 三層に築かれた楼閣は
来客をもてなす場として
使用されていたという。
飛雲閣は
これまで聚楽第の遺構と考えられてきた。
しかし その建築年代が
聚楽第よりも新しい
京都新城の年代に一致することから
最近の研究では 飛雲閣が
京都新城から移築されたものだと
推定されている。
京都新城は 周囲を巨大な塀で囲み
塀の中に 深い堀が築かれ
城内には庭園の池に面した
公家屋敷風の建物などが
立ち並んでいたと考えられている。
秀吉が秀頼のため
この地に城を築き始めたのは
慶長2年4月。
亡くなる僅か1年前のことだった。
秀吉は
なぜこの地に秀頼の城を築いたのか?
いや~
ご門をくぐらしていただきま~す。
いや~ 来ました!
千田さんが訪れたのは
京都新城の跡地にあたる
現在の京都御苑。
今回特別に 苑内の撮影が許された。
もう この 広々としています。
もっと進んでいきます。
いや~。
この先 はるか向こうにですね
現在の内裏があるんですけれども
もう 実はですね
京都新城の南の端ってのは
大体もう
この辺りの所まできていた。
いや~ これは本当に大きいですね!
豊臣政権の威信をかけて
造ったお城っていうのが
現地に来ると 改めてすごく実感できます。
京都新城の
北側にあたる場所に
秀吉が
ここに城を築いた理由を
ひもとく手がかりがあった。
今は こういうふうに
大きな緑地になっていますけれども
この緑地ですね 実は
とても大事な所でして
ここに案内の 説明板がありますけども
土御門第跡というふうに
これ案内がされています。
この場所というのは
京都新城の一角の中に
取り込まれていた場所ではあるんですが
実はですね
もともとは かの有名な藤原道長が
屋敷を持っていた所でして。
そういった
メッセージっていうのが
込められていた
というふうに思います。
平安貴族を代表する道長の
屋敷跡を取り込み
公家屋敷に隣接した場所に
城を築いた秀吉。
千田さんは それは秀頼を
公家と一体化させようとした
ためではないかと考えている。
当時 秀頼の年齢は 僅か5歳。
豊臣政権の頂点に君臨するには
あまりにも幼すぎた。
秀吉は 秀頼を公家化することで
豊臣家を永続させようと
もくろんだというのである。
亡くなる もう1年もないぐらいの時に
この京都新城ってのは
完成しているんですが 本当に
それを急いで造らせたというのは
その後 残される まだ小さな子供の
秀頼っていうのをですね
どうしたらですね こう
生きていってもらえるだろうかと。
つまりですね…
…っていうことを選択して
この京都新城を築いたんだ
というふうに思います。
最晩年の秀吉が築いた 京都新城。
果たしてそれは 秀頼を
公家化しようとして築かれたのか?
う~ん。 こんな大発見が去年あったとは。
すみません 知りませんでした。
あの~ VTRにありましたように
まあ 秀吉の死の およそ1年前
ですから本当に秀吉の最晩年ですよね。
そこに まあ 急遽 秀吉が命じて
これ 石田三成たちが
工事をしたっていうのが出てきますが
町屋なんかを立ち退きをさせて
まあ 無理やり 急遽 造っていくんですね。
ああ~。 ですから これはですね
やはり 秀吉としてはですね
もう 自分の体調も
悪いっていうこともあって
もう自分は長くないであろうと。
さて まあ 秀頼はどうして
生きていくのかっていうですね
まあ その思いの中で…
まあ そういうイメージを
秀吉が持っていたというふうに考えて
ほぼ 間違いないだろうと。
つまり その 千田さんの説としては
秀吉は 秀頼を公家化するため
公家の一員にするために
この京都新城というお城を
建てたんじゃないか
という説なんですけれど
これに対して
皆さん どんなことを考えますか?
う~ん まあ ちょっと難しい問題で。
う~ん 私もね…
…なんだけれども
ちょっと考えが違うんですよね。
というのは
まあ 豊臣家を永続化させるために
要するに秀頼のために
この京都新城を造ったというのは
間違いないと思います。 はい。
ただ…
まあ そのために
もう聚楽第がないわけですから
それに代わるものとして…
つまり 私は やっぱり
聚楽第を まあ 潰しちゃったもんですから
その代わりとして
秀頼のために造ったっていう。
まあ 要するに
関白に将来なるであろうということで
そこに造らせたっていう
そういう考えでいますけどね。
ああ~ そっか
じゃあ その まあ 未来永劫
公家になるとこまではいかないという。
いかない。
いわゆる やっぱり…
…というのが
多分 秀吉の願いだったと思います。
磯田さんは
今回の千田先生の説 どう考えますか?
僕ね 千田説 半分賛成のところと
半分反対のところがあるんですよ。
それでね まず賛成のところいきますね。
はい。
えっと 京都新城は
豊臣秀頼を関白にするための城である。
マル。
フフフ…。
それでね これね
実はね 当時の公家にとってはね
迷惑な話なんですよ。
アハハハ。 そうなんですか。
それは どういうことかというと
関白とか ああいう大臣ってね
椅子の数が少ないわけですよ
1人しかないんです 関白。
ああ~。 ほいでね 関白はね
五摂家っていわれる
5つのお公家さんの
最上位の家が順繰りになって
楽しみにしてるんですよ。
ええ ええ。
で 天皇の御所の南側に
お前ら普通の五摂家と違って
俺の家は
10倍ぐらいあるぞ! っていうね 城を
あそこへ ドカ~ンと建てとくわけですよ。
はい。
それで 秀頼まだ小さいけど
関白 ツバつけたっていう
こういう城だと僕は思うんです。
はあ~。
ほいで あの~ まあ だから
小和田説に近いです そこは。
ええ ええ。
天皇の家来として あれは…
で どこに住むのかっていうのは
それはもう 大坂城ですよ。
だって
もう危ないですもん ちっちゃいから。
そこで考えられるのは やっぱり秀吉は
なぜそれだけ 公家社会に
溶け込もうとしたのかということだと
思うんですね。
で これはやっぱり 鎌倉幕府と室町幕府。
結局 武家政権というのは
滅ぼされる宿命にあるということを
秀吉は実感したんではないかなあと。
しかしまあ 平家政権もね
そういった意味でいえば
公家の中に溶け込もうとしたって
いうことは同じなんですけど。
自分だったら もっとうまく
やれるんじゃないかということを
思ったんではないかと。
で 少なくとも実権 いわゆる…
最悪の場合
そういう体制ができるんではないかなと。
そういう意味で公家化っていうのを
図ってったと思いますね。
う~ん。 何か あの… まだね
発見されたばかりということで
これからの調査に
本当に 期待したいと思うんですが。
あの 私 個人的には きっと
どんな説があろうと これだけは
変わらなかったんじゃないかなって
思うのは
もう秀吉は 実子である秀頼を
なんとか この先も
長く生きてほしいと思ったでしょうし
親としての気持ちを
何か見た気がしたんですけれど。
さあ それでは
秀吉が下した決断を見ていきましょう。
慶長3年4月。
秀吉は 秀頼と家康など諸大名を伴い
京都新城に入城した。
この時
秀頼は 朝廷から破格の待遇を受け
僅か6歳で 家康に次ぐ位階
従二位 権中納言を授けられた。
ところが…。
京都新城から伏見城に戻った秀吉は
発病し
そのまま 寝たきりの状態になったという。
幼い秀頼に
豊臣家をいかに継承させるべきか。
病床の秀吉は 最終的な決断を迫られた。
5月
秀吉は 突如として豊臣政権の拠点
大坂城の強化を命じた。
そして 秀頼の居城を
京都新城ではなく
大坂城と
定めたのである。
2003年の
大坂城の発掘調査で見つかった
全長240mに及ぶ 障子堀の跡。
堅固な大坂城の防御力を
更に高める目的で
秀吉が命じた
普請の跡だと考えられている。
秀吉は 大坂城を改造するだけでなく
有力大名を
家族ごと 城内に人質として住まわせた。
豊臣家を継ぐ秀頼には
朝廷の高い官位だけでなく
武家の棟梁としての働きを
期待したのである。
秀吉は有力大名を集め
死後の政権運営を
11か条にまとめた覚書を披露した。
そこに記されたのは
秀頼を支える大名たちの役割である。
「伏見城には
徳川家康が居住し
大坂城は秀頼の
居城であるから
前田利家がお守り役として
全てお世話願いたい」。
秀吉は
特に徳川家康と前田利家に
秀頼を
もり立ててくれるよう依頼した。
そして 8月5日。
秀吉は 家康たちに宛て
最後の遺言を書き残した。
「重ね重ね 秀頼のこと
頼み申し候」。
「何事もこのほかに
思い残すことなく候」。
この13日後 豊臣秀吉 死去。
享年62であった。
その後 秀頼は
新たな豊臣政権のトップとして
大坂城に君臨。
幼い秀頼を
石田三成などの五奉行や
徳川家康を筆頭とする
五大老が補佐する
体制が整えられた。
ところが
やがて
徳川家康が その本性をあらわにした。
秀吉が生前に定めた
御掟には こうある。
「諸大名間の縁組みは
上様の御意を得て
決定すること」。
家康はこの御掟に反し
諸大名との姻戚関係を独断で結んだ。
更に家康は
伏見城に居住という秀吉との約束を破り
大坂城に入城。
そのまま居座るばかりか
新たに天守まで築いた。
家康は専横を極めた。
これを激しく糾弾したのが
五奉行の石田三成だった。
やがて2人の対立は
家康を盟主とする東軍と
三成の西軍に二分。
全国を巻き込む
内乱へと発展した。
そのさなか 慶長5年8月29日。
京都新城の堀や石垣を 西軍が破壊した。
史料には
「禁裏のご近所の故なり」とある。
天皇の御所が 両軍の戦いに
巻き込まれないよう配慮したという。
秀頼の退去後 京都新城には
北政所が移り住んだと記録されている。
この時の破壊に
彼女がどう関わっていたのか
真相は定かでない。
その15日後
天下分け目の 関ヶ原の戦いが勃発。
戦に勝利した徳川家康は
やがて 征夷大将軍となり
江戸幕府を開いた。
豊臣家が滅亡したのは
それから僅か 12年後のことであった…。
秀吉は結局
秀頼のために築いた京都新城ではなく
大坂城を秀頼の居城と決めました。
千田さん これはなぜなんでしょうか?
どんな ねらいがあったんでしょうか?
はい。 あの~ やはりこれは
秀吉が本当にですね
秀頼のために 何が一番いいだろうかと
しゅん巡しながら
最終的には大坂城だというふうに
決めたということだと思うのですが。
これはやはりですね
豊臣の家臣たちにしてみればですね
周りに…
リストラされたりっていうことに
なりかねませんし。 そうですねえ。
やっぱりこれは なんとかして いやいや
私たちが秀頼を支えますからといって。
まあまあ 何て言うのか
引き戻しちゃったと。
…という歴史に
なってったんだと思います。
う~ん。 だから「幻の」っていうことに
なるんですね。 ええ。
磯田さん。
そして あの 関ヶ原の戦いの直前に
この京都新城の堀などが
西軍によって壊されてますよね。
これには どういう…
なぜ壊さなきゃいけなかったんですか?
私ね この時の 壊された時の
京都の状況を考えると
8月の初めに伏見城が
石田三成たち西軍によって
落城しますよね。
それで その2日後
京都一帯に伏見城が落ちたんで
落ち武者をかくまうなと。
ああ~。
ほいで 隠匿しちゃ駄目だと
からめ捕れっていう
こういう指示が出てる。
はい。 んで その月ですよ。
京都新城破壊と。
う~ん。
まあ例えば
東軍の人たちがやって来てですね
北政所のところへ
かくまってもらったりですね。
ああ~。 あの~ 何らか…
まだ浪人が 落ち武者が
いっぱいいるわけですね。
はい。
立て籠もったりすると
やっぱり面倒くさいと。 うん。
これね 千田はですね…。
ええ ええ。
これ当時の状況を考えてみますと
聚楽第は もうとっくにありません。
それから まあ豊臣の公の
公式のお城だった伏見城は
まあ 三成たちが
攻め落として焼けてしまってますので
京都にあった本格的なお城としては
この京都新城だけだったっていうことに
なるんです。
で 関ヶ原の決戦の
直前段階ですから
これ 三成たちは
大坂城に向かってですね
一日も早く
出陣してほしいと
矢の催促をしている
ことになります。
で そうすると
大坂から 関ヶ原に
もし向かったとすると
これ必然的に
大軍が入城するお城
としては
京都新城になったと。
ああ~。
これはですね やはり あの~…
…っていう その気持ちを
恐らくですね 秀吉と高台院は
共有していたと思いますので。
はあ~。
自ら豊臣方で その決定的な
そのイニシアチブを持っていたはずの
京都新城を壊してしまうということに
なったっていうことじゃないかなあ
というふうに思っています。
豊臣方のハト派っていう意味でしょうか。
あ そうです。
そういうことですよね。
はい。
そうすれば まあ家康だって
秀頼を そんな殺すことはないよという
そういうことだったんじゃないですかね。
なるほど!
何で西軍が? っていうのは
ちょっと思ったんです。
千田さんの話聞くと 少し
すっきりした感じはありましたけど。
史料ではね
裏付けられないんですけれども
でも そう考えると 一番
合理的に説明できる気はするんですよね。
さあ その秀吉の終活は
結果うまくいかなかったということに
なりますが。
どうすれば じゃあ うまくいったのか。
皆さんと考えたいんですけど。
伊東さん いかがですか?
そうですね 難しいですねえ 本当に。
どの時点で
どうすればよかったかっていうと。
何としても…
これは まず第一なんですけど。
その次はまあ あれですよね。
…っていうのが 次ですけれど。
もう最後の時点
どうしたらいいかっていうと。
僕だったら 思い切って…
例えば 上杉景勝とか毛利輝元。
もちろん信頼できるかっていうと また
ちょっと疑問かもしれませんけれど。
思い切って近くに 大坂の近くですね
畿内に移封させちゃって守らせちゃうと。
ああ~。
もうこの手しかないなあと。
もう 大大名じゃなければ
意味がないですから。
それをつくることによって 連携して
大坂城を守れるんではないかなと。
いや~ しかし その 秀吉は
なぜ家康を…
全幅の信頼を置いたんでしょうかね。
だから この秀頼様が大きくなるまで
なんとかお願いします ということで
亡くなっていくわけで。
それがまあ 秀吉の本心だと思いますね。
もう 前田利家がいれば
家康は暴走しないだろう。
そういうつもりでいたと思います。
ところが その…
そこで もう家康は
自分で天下を取れるっていう
形になっちゃったんで。
これはもう
秀吉の誤算というよりかは もう
もう しょうがなかった選択ですね
これはね。
…っていうとこだと思います。
いや~ 磯田さん
今日の この秀吉の終活っていうのも
非常に盛り上がりましたが
いかがでしたか?
まあ 人を信じて 明るかったから
あれだけ出世できた秀吉ですから。
やっぱり…
…とも この家は
いえるんじゃないかなと思いますよね。
で やっぱり家康だって
ちょっとしたことで殺されちゃってた
可能性があるわけですから。
やっぱりもう その 政治の行く末とか
人の運命の行く末っていうのは
ちょっとしたことで
もう偶然なような 風の吹き回しで
もう変わっていくんだっていうことが
よく分かりますね。
歴史は確固としてあるものではなくて
我々自身も自分たちが生きる上で
そんな風の吹き回しで
どうなるか分からないものだからこそ
一つずつ きっちりやっていかなきゃ
いけないんだっていうふうに
思いました。
うん。
きっと家康は
きっちりはしてたんだと思います。
そうですねえ。
だから生き残れたんだろうと。
皆さん 今日は ありがとうございました。
(一同)ありがとうございました。
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