ファミリーヒストリー「舘ひろし~志を持って生きる~」[解][字]…の番組内容解析まとめ

出典:EPGの番組情報

ファミリーヒストリー「舘ひろし~志を持って生きる~」[解][字]

舘ひろし驚きのルーツ。19歳まで暮らした築200年の屋敷の秘密が明らかに。祖父は町づくりに貢献。父は努力の末「舘医院」開業。戦禍の中、高校生活を送った母の思い。

番組内容
舘ひろしは名古屋市の出身。徹底取材で4代前の高祖父が、尾張徳川家に仕えていたことが明らかになる。土木技術者だった祖父が設計したアーチ橋が現存していることも判明。若き日の父を知るかつての同僚は「冗談好きで人気の医師だった」と証言する。母の実家は三重県特産の萬古焼の製陶所。母は常に成績トップの才女だった。長男として厳しく育てられたひろしはなぜ芸能の道に進んだのか。今年大学を卒業したひろしの秘蔵映像も。
出演者
【ゲスト】舘ひろし,【司会】今田耕司,池田伸子,【語り】余貴美子

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化

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  17. 喜三郎
  18. 大正
  19. 俳優
  20. 病院

解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)

NHK
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エンスカイ(ENSKY)

≪本番!
(監督)用意… はい!

俳優・舘ひろしさん。

ありがとうございました!

昭和50年にデビュー以来
ハードボイルドから コメディー

そして シリアスなドラマまで
さまざまな役に挑戦し続けてきました。

71歳の今も 第一線で活躍を続ける
舘ひろしさんの「ファミリーヒストリー」。

今日のゲストは 舘ひろしさんです。
どうぞ。

よろしくお願いします。

(拍手)

失礼します。 いやいや…。

さあ 今日は舘さん。
はい。

ちょっと 若干の緊張感があると。
そうですね。

やっぱり その 役者のお仕事の時とは違う
緊張感ですよね。

そうですね。

やっぱり 石原裕次郎さん 渡 哲也さん
舘さんって 何か違うんですよね。

そうですか?
唯一無二というか。

でも 皆さん そうでしょう だって。
かっこいい~! 唯一無二ですね。

見たことないですし 唯一無二ですもん。
すみません。

♬~

俳優・舘ひろし。

昭和25年 愛知県で生まれました。

昭和30年代半ばの 舘家の写真です。

祖父は 戦前 愛知県庁に勤めていた役人。

父は医師。

ひろしは 19歳で上京するまで

江戸時代に建てられたという

築200年の武家屋敷に暮らしていました。

これ お座敷です。

舘さんは 古い武家屋敷について
詳しいことは知らないといいます。

名古屋ってイメージないですよね。
(池田)そうですね 今…。

愛知県名古屋市にある実家です。

古い武家屋敷は既になく
建て替えられています。

(取材者)どうも 今日は
ひとつ よろしくお願いいたします。

こちらこそ
よろしくお願いいたします。

今年 94歳になる
母 初子さんです。

一緒に迎えてくれたのは
4歳年下の弟 啓二さん。

医師をしています。

初子さんが結婚したのは
昭和24年 22歳の時。

当初 古い武家屋敷での
暮らしに

戸惑ったといいます。

初子さんも 古い武家屋敷のいわれを
何も知りませんでした。

しかし 初子さんは
本家との交流はなく

岐阜のどこにあったかも分かりません。

戸籍にも 手がかりは ありませんでした。

ひろしの舘家と
どのように つながるのか。

親戚への取材から
浮かんだのは…

海津松木村の
舘家の資料が見つかりました。

舘家は 松木村の有力な家の一つでした。

(水谷)永禄5年に
この舘 善左エ門という方が

まあ この近くの
安八郡須脇村より

松木の地に
やって来まして

家を
おこすわけですね。

それから
2代目の善左エ門

3代目の治左衛門

歴代の当主 および子息 息子の名前が
書いてあります。

海津松木の 舘家があった場所です。

10代以上続いた大地主でしたが

戦後の農地改革で
土地を手放すことになり

昭和20年代に この地を離れています。

地域の歴史に詳しい

加藤久芳さん 中島繁紀さんが

その後の舘家のことを
僅かに伝え聞いていました。

海津にあった舘家の
子孫の一人が

岐阜市にある老舗旅館
十八楼で働いていたといいます。

女将の…

舘さんは 長年 十八楼にも
大変 お力添えを頂いた方なんです。

お嬢様が お二人 いらっしゃいまして

今も
仲良くさせて頂いているんですけれども。

十八楼で働いていたのは 舘 晃。

海津にあった舘家に

養子として入った人物です。

晃の娘が 雅子さんと英子さん姉妹です。

海津舘家に関する

古い資料を持っていました。

海津にあった 舘家の歴史が書かれた

「代々年忌覚帳」です。

これらの記録をもとに

明治 大正期の海津舘家の様子について
説明してくれました。

大正期に書かれた
海津舘家の「代々年忌覚帳」には

先祖の名前 法名 没年月日が
記されていました。

これを手がかりに 舘ひろしの家との
関係を調べてみることにします。

名古屋にある 舘ひろしの実家。

仏壇に 先祖の位牌が
保管されていました。

(初子)あるでしょう? 啓ちゃん。
そこに…。

位牌に書かれた 先祖たちの名前。

喜三郎が
ひろしの曽祖父。

九平治が
ひろしの4代前 高祖父にあたります。

更に 九平治の父で
5代前の先祖が 藤左ヱ門。

裏には 法名と

天保7年7月に
亡くなったことが記されていました。

海津舘家の「代々年忌覚帳」
この中にも

藤左衛門という人物の記録が
ありました。

名古屋舘家の位牌と
照らし合わせると

5代前 藤左ヱ門の
法名と没年月日が

一致したのです。

海津舘家の
藤左衛門の息子が

ひろしの高祖父
九平治であることが

分かりました。

海津の大地主だった舘家は
長男が家督を継いでいます。

長男ではなかった
ひろしの高祖父 九平治は

幕末の頃 家を出て
名古屋に向かいました。

大きな志を持って。

明治元年ころの
名古屋の城下町を復元した地図です。

舘ひろしの家がある辺りには

「御手筒同心」とあります。

九平治と
御手筒同心との関係は…。

尾張徳川家の
文献資料を保存する

徳川林政史研究所です。

名古屋郷土文化会が
昭和27年に発行した冊子に

「御手筒同心」について
書かれた

文章がありました。

「『御手筒同心』
というのが

四組六十人あった。

組員は
三四十年勤続したり

交代(株譲り)する者も
あった」。

更に 昭和40年に出版された
「下級士族の研究」という本。

その中に ひろしの高祖父
舘 九平治について触れられた部分を

見つけました。

名古屋に出た九平治は
幕末の安政2年 26歳の時

御手筒同心の受井清次郎から
役職を譲り受け

武士となったことが分かりました。

九平治は
武士となった
翌年の安政3年

同じ御手筒同心

杉山半左衛門の娘
はると

結婚しています。

九平治は 尾張徳川家藩主の鉄砲を
管理する務めに励みます。

徳川林政史研究所で

九平治について記された
別の資料も見つかりました。

ここに
舘さんの名前がありますけれども

この人たちは
何をしたかといいますと

この鉄砲方にて
弾薬を受け取って そして弾薬を運ぶと。

明治4年。 尾張藩は廃藩となり
愛知県となります。

九平治は 舘家の組屋敷と

妻 はるの実家 杉山家の組屋敷を合わせた
広い土地を

愛知県からの払い下げにより
入手していたことも分かりました。

名古屋の舘家が住んでいた
古い武家屋敷は

もともとは 江戸時代の
御手筒同心の組屋敷だったのです。

はぁ… いかがでしたでしょうか?

へえ~
少し 聞いている話と違いましたね。

違いましたか?
はい。

でも ああやって あの…
全部残ってるんですね 仏壇のところに。

あの うちにある仏壇がですね
えっと 一度 真っ黒になったんですね。

もう あの… 煙とか すすとか。

ああ まあ その
ろうそくとか お線香つけますからね。

それで それを塗り直すので
一度 こう 修理に出したんですね。

そしたら こう開けてみたら

上に 「明治2年」って
書いてあったんですよ。
はい。

それで 引き出しを開けたら
あれが出てきたんですよ。

そのまま…
そのまま 置いてあったんですね。

でも その御手筒同心の役職
っていうことですけども

ねえ 戊辰戦争に参加してますよ。

いや ほんとですねえ。
ねえ?

戦地に行ってますから 鉄砲持って。
何してんですかね。

一番 よく分かったのは

どうして 僕が あんなに
いつも拳銃を持ってたかというのが。

そうですね。 しばらく ずっと
鉄砲 持ってましたもんね。

そうでしたね。
ですから やっぱり

もう そっから きてますよね。
きてましたね。

アハハハッ!

実子がいなかった 九平治は

岐阜
海津の舘家から

おいにあたる喜三郎を
養子に迎えます。

はぁ~ やっぱ この時代だなあ。

この時 喜三郎は二十歳。

舘ひろしの曽祖父 喜三郎。

明治 大正期の舘家の当主です。

喜三郎は 職に就くことはなかった
人物と伝わっています。

そうなんです。
あっ そうですか。

喜三郎の
三男が

明治28年生まれの
喜八郎。

ひろしの
祖父です。

舘 喜八郎は
大正2年 名古屋高等工業学校に入学。

町づくりがしたいと 土木科を選びます。

名古屋高等工業学校は
現在の名古屋工業大学。

「名工大土木百年誌」の編集に携わった…

大正5年に卒業した
喜八郎は

愛知県 土木部に就職しています。

愛知県庁を訪ねます。

喜八郎は
県庁で どんな仕事をしていたのか。

こちらは 昭和62年にですね

私どもの組織の前身 愛知県土木部が

土木部の組織の変遷を取りまとめた
資料になります。

舘ひろしさんのおじい様
舘 喜八郎さんが…

大正の11年12月から 大正14年6月まで

「新城土木工区事務所主幹」

事務所のトップとして
在職された記録が残っております。

その事務所で建設した
土木構造物としては…

(伊藤)…があります。

いずれの橋もですね
昭和30年以降にですね

新しい橋に架け替えられておりまして
残念ながら 現在は残っておりません。

それが その後の取材で

喜八郎が
設計に携わった橋が

一つだけ現存していることが
分かりました。

橋があるのは 愛知県新城市。

同行してくれたのは…

土木遺産の研究をしています。

橋の名は 黄柳橋。

馬場さんは
平成4年 橋の保存の調査をし

論文にまとめていました。

設計者3人のうちの1人が
舘 喜八郎だったのです。

黄柳橋は 大正7年の竣工。

100年以上前に造られた
コンクリートアーチ橋です。

大正12年に

喜八郎の長男として
誕生したのが

栄一郎。

後の
ひろしの父です。

このころ 喜八郎は 愛知県庁で

橋だけではなく 道路事業にも関わり
町づくりを進めていきます。

昭和16年の
愛知県職員録に

46歳になった
喜八郎の名前が
ありました。

喜八郎の長女で…

喜八郎は 子どもの将来について

強い希望があったといいます。

昭和17年。

長男 栄一郎は…

医師の道を目指します。

栄一郎の記録が

東海国立大学機構 大学文書資料室に
残されていました。

(堀田)これになりますね。

(堀田)ここに 臨時附属医学専門部の

生徒の氏名というですね
欄がありまして

昭和17年度ですね 入学。

ここに
舘 栄一郎さんのお名前があります。

えっと ここですね。

なぜ 医学専門部の前に
「臨時」とあるのか。

1937年に 日中戦争が始まりまして

まあ それで いわゆる軍医ですね… の
養成のために 臨時につくられた

あの… まあ 施設だということで。

そのために 「臨時」という言葉が
入ってるってことですね。

まあ 軍医として 戦地に渡る人が
多くなったものですから

その分だけ あの こう 日本国内の医者が
不足してしまいますので

この医学専門部は 中学校を卒業して

もう いきなり この専門部に入って
で 4年間。

で まあ 医師になる
ということですので

大学に行くよりも
3年早く医師になるという

まあ そういう形になりますね。

(砲声)

戦争が長期化。

若い医師たちは
軍医として戦場に派遣されます。

昭和20年4月。

医学専門部3年を終えてすぐ

22歳の栄一郎は 海軍に入隊しました。

栄一郎の軍歴です。

4月15日
戸塚海軍衛生学校 補修学生となり

その後 佐世保の海兵団へ
移動となっています。

栄一郎の軍隊生活は

戦地に赴くことなく
4か月で終わりました。

昭和21年
23歳になった栄一郎は

愛知県南部に位置する
南知多の病院に

勤務することになります。

病院創設者の孫で…

私どもの病院は 現在は
精神科病院でございますけども

もともと 設立された昭和6年には

結核の病院というか
療養所でございました。

戦後 療養所を再開する時

医師の一人として赴任してきたのが
舘 栄一郎でした。

結核が専門だったんですよ
うちのおやじは。

昭和21年に 私の祖父が 名古屋大学の
内科の教室に通っておりまして。

ちょうど その時に 栄一郎先生
舘 栄一郎先生は復員をされたばかりで

医局に出入りされておったそうで。

祖父が 栄一郎先生に

南知多の 私の病院に来て下さいと
お願いを申し上げたところ

まあ 快諾して頂いて
先生が こちらへ赴任して頂いたと。

まあ 当時は まだ
独身でいらっしゃったんでしょうかね。

戦後 間もない頃

診療所に勤務していた
医師たちの座談会が

昭和56年に行われていました。

栄一郎も参加しています。

当時の診療所の状況について
医師の一人は こう語っています。

それに対し 栄一郎は…。

まあ やっぱりね モテて モテて
っていう方でしたよ。

だから 村の方の方がね

もう 栄一郎さんに夢中になっちゃってる
っていう患者さんが

女の患者さんがいて大変でした
ほんとに。

昭和24年 栄一郎は

三重県四日市に住む 一人の女性と
見合いすることになります。

鈴木初子。 後のひろしの母です。

栄一郎26歳 初子22歳の時でした。

はぁ~! お父さんも
かなり おモテになったみたいですよ。

僕は 知多の診療所は覚えてるんですよ。

いや 遊びに行ったことあるんですか?

いやいや 僕は あそこで育ったんです。
へえ~!

あの 橋が残ってましたね。
ねえ?

現存する。
残ってましたね。

このじいさんが だから まあ

こう 舘家が その 昔の封建時代から
今 近代に移る中で

その 英国式にしようと。

ですから 子どもの時は
お茶の時間というのがあって。

あっ もう ティータイムみたいの
あったんですか?

へえ~。
はい。 それが紅茶だったんですよ。

その当時はね ミルクティーって
言わなかったんですよ。

何て 言うたんですか?
「牛乳紅茶」って。

そこは 英国式じゃないですね。

舘ひろしの母 初子さん 94歳。

昭和24年 結婚する時に

実家の両親が持たせてくれた
焼き物を見せてくれました。

三重県四日市特産の…

実家は 急須などを作る工場でした。

続いては
母方 鈴木家の歴史を追い

三重県四日市市に向かいます。

初子のおいで
ひろしの いとこにあたる…

現在 鈴木家が営んでいた
萬古焼の製陶所はありません。

平成9年
伸幸さんの父が亡くなった時

工場を閉めました。

(伸幸)これが… これはですね え~と…

金婚式 銀婚式の時の写真らしくって

これが末治郎 曽祖父ですね。

これが かめで曽祖母

これが 祖父の末吉になります。

萬古焼の仕事を始めたのは

曽祖父の末治郎でした。

酒が大好きな
人物だったといいます。

末治郎は 仕事を途中でほっぱらかして
こう どっか遊びに行くと。

窯をたかずに こう 飲みに行くと。

まきで 窯 たいてた時は

ふた晩
ず~っと見てないといけなくって

でも おじいちゃんたちは もう
夕方になると

さっさと 飲みに行っちゃうんで

それで かめさんが ずっと ふた晩とも

窯の前で見てたって聞きました。

昭和2年 長女 きわの夫として

萬古職人だった真田末吉を
養子に迎えます。

初子さんの父です。

末吉は 窯元5軒を束ね
「萬古製陶所」という会社を作り

家業を広げました。

昭和初期の 四日市の写真です。

いくつもの窯から 煙が立ち上り

萬古焼は 興隆を極めます。

鈴木家の親戚には

今も
萬古焼を手がけている人たちがいます。

母 初子のいとこにあたる…

萬古焼無形文化財指定保持者に
認定され

その作品は
いくつもの賞を受賞しています。

萬古焼の製陶所を営んでいた
鈴木家の長女が

昭和2年生まれの 初子です。

おばは 非常によくできたという
話は聞いてますし

あの~ 字も 非常に
大変うまかったという

話は聞いてますね。 はい。

あの~ 小学校の時から よくできた
才女だったという話は。 はい。

初子は 四日市高等女学校で
勉強に励みます。

すごいな。

四日市高等女学校は 統合により
現在 四日市高校となっています。

初子の記録がないか 調べてもらいました。

初子は 最終学年の1年間を

勤労奉仕で
工場での縫製作業に費やしました。

四日市高校に隣接する 同窓会館。

昭和44年に 初子が学生時代を振り返り
寄稿した文章があることが分かりました。

「四日市高等学校 七十年史」というのが
ありまして。

昭和 戦中記ですね。

そちらのところに
え~と これですね。

タイトルは 「戦禍にまみれて」という
題でですね

舘 初子さんですね。 旧姓 鈴木さん。
昭和20年卒。

大体 1ページちょっとですね
ちょっとにわたって書いてみえると。

そういうことが分かりました。

初子が 42歳の時に書いた

「戦禍にまみれて」。

昭和20年6月から8月にかけ
四日市市は 激しい空襲を受け

被災者は 5万人近くにも上りました。

初子の実家は
かろうじて被災を免れました。

そして 8月15日 18歳の時に
終戦を迎えたのです。

ハッハッハッハッハッ。
あの文章は ご存じでしたか。

いや もう全然 知りません。
あっ 全然 知らない?

でも何か ずっと成績が

お母さん 優秀やと
おっしゃってましたけど さっきも。

ずっと… あの…。
1番? ええ。 女学校を卒業するまで。

う~ん。 で 1回だけ2番になって
泣いたっていう。

は~!

あと あの かめさんっていう
ひいばあさん。
はいはい。

僕ね この あの
大おばあさんの思い出って

すごい いつも思うのは。
ええ。

枕が 陶器の枕でしたね。

ええ~っ!?
ええ~っ!?

かたい枕を ここにあてて寝てましたね。

ハハハハハッ! すごいですね。

昔の人は そうなんでしょうかね。

まあまあ 昔の枕ってことなんですか…
えっ 早く起きなきゃいけないからとか

そういうことなんですか。
あの… 頭にあてることは ないんですね。

首ですか? はい。 で こんなので
よく寝られるなあと思って。

昭和19年から20年にかけ
名古屋も 激しい空襲を受けます。

名古屋に暮らす舘家は
海軍に入隊した栄一郎を除く全員で

三重県四日市市で
疎開生活を送ることにします。

頼ったのは
栄一郎の医学専門部の友人で

四日市出身の 平野康平。

実家の離れを貸してくれました。

そんな平野家に
戦後 和裁を習いに来ていたのが

萬古焼の製陶所を営む
鈴木家の長女 初子でした。

和裁を教わったのは 康平の母 とさ。

初子は とさから
見合いを持ちかけられます。

相手は 平野家が離れを貸していた
舘家の長男。

当時 南知多の結核療養所で

医師をしていた 栄一郎でした。

見合いの日
初子は 近くの近鉄の駅まで

こっそり 栄一郎を見に行きます。

昭和24年 2人は結婚。
栄一郎26歳 初子22歳の時のことです。

翌 昭和25年3月。

栄一郎と初子の間に
長男が誕生します。

ひろしです。

愛知県の北部にある 江南市。

ひろしが生まれた頃 栄一郎は
南知多の結核療養所を離れ

この地にあった町の診療所に
勤務していました。

宮田ね。 ここです。

栄一郎と同じ診療所で働いていた人が
健在であることが分かりました。

これ すごいね これ。
はい 見つけますよ。

おかげさまです。 どうも。
(取材者)こんにちは。

今年 90歳。 石黒ひろ子さんです。

宮田町役場に就職した石黒さんは

昭和24年10月から
診療所の受付の仕事に就きました。

当時 町の人口は 6, 000。

2人しかいない医師のうちの1人が
栄一郎でした。

診療所には 車もバイクもありません。
自転車を走らせ 往診します。

栄一郎は この町で
医師としての経験を積んでいきました。

戦後 舘家は
四日市から名古屋に戻ります。

そんな舘家を

突然の不幸が襲います。

昭和27年。
当時 医学部に学んでいた

栄一郎の弟 荘平が
病に倒れたのです。

肺結核でした。

喜八郎は 何とか荘平を助けようと

高価な薬を買ったといいます。

しかし 昭和27年5月
荘平は 23歳の若さで亡くなります。

2人の息子を医師にしたいという

喜八郎の願いは かないませんでした。

荘平の死後
栄一郎一家は

名古屋の実家に
戻ります。

父 喜八郎と共に

暮らすことに
しました。

新たな勤務先は
名古屋市内の総合病院。

仕事を終えて帰宅すると
医師としての専門性を高めようと

論文の執筆にも取り組みました。

昭和32年 栄一郎は

名古屋大学に博士論文を提出。

心不全の治療薬 ジギタリス剤が

心臓の血管に及ぼす影響を

実験データを添えて 考察しています。

昭和37年 39歳になった栄一郎は

自宅の敷地内に
「舘医院」を開業しました。

息子 栄一郎が
医師として独立したことを

喜八郎は 喜んだといいます。

舘医院は 地域の人たちにとって
欠かせない病院になっていくのです。

中学校1年生の時に
この舘医院を開業して。
はい。

それで その設計をしてる時に
何か うちに設計図があって

それを みんなで言ってる時に。
ええ。

僕はね 「ここは こうした方がいい」って
言ったら

「子どもは黙ってろ!」って
言われたんですよ。

そりゃ そうですよ。
おやじ おやじに。

それで すごくショックを受けた。
(池田)うん うん。

え~ よかれと思って 俺は言ったのにと。
うん。 そしたら次の日ね

学校から帰ってきたらね
おやじが謝りましたね。

ええっ!? 昨日は すまんと?
うん。 昨日は悪かったと。

ええ~っ!? あの… やっぱり
お前の意見も聞くべきだと。

めちゃくちゃ いい。
だから… はい はい。

だから そういうところは真摯でしたね。

やっぱり でも この流れを見てると
お母さんも プレッシャーかかりますよね。

絶対 医者にしないとっていうのはね。
そうです そうです。

(池田)ちょっと怖いかもしれない。
やっと開業もしたし

さあ この病院を大きくしてちょうだい
ひろしっていうのが。

昭和31年 小学校に入学した ひろし。

このころから 舘家の長男として
期待されていきます。

子どもの頃の 忘れられない
エピソードがあるといいます。

母は 割と厳しい母だったんですね。

私が小学校1年に上がった時に
最初の夏休みに

名古屋駅から
その 四日市の自分の自宅まで

自宅の近くのバス停まで
1人で行かされたんですね。

僕も 今でも覚えてる
「富士電機前」っていうとこなんですが

「そこで降ろして下さい」って頼んで
あの 車掌さんに。

それで 乗ったんですけれども。

恐らく 1時間ちょっとかかったんですね。

それは やっぱり すごく不安で。

それで この車掌さんが
僕を降ろし忘れたら

どうしようっていうことを
ず~っと考えて乗ってました でも。 はい。

小学校1年の頃の
ひろしを記憶している人がいます。

栄一郎の
医学部時代の友人

平野康平の長男
勝介さん。

ひろしと同い年でした。

すごいな。

小学生から中学生へ。

母 初子さんは ひろしに

夫と同じ 医師の道に進んでもらいたいと
期待するようになります。

昭和40年 ひろしは
開校 間もない

愛知県立千種高校に
進学。

ラグビー部に
入部します。

(一同)1 2 3 4…。

ひろしを ラグビー部に誘ったのは

1年先輩の初代キャプテン。

現在OB会の会長を務める…

一つは体格ですね ラグビーですから。

あの~ 結構
当時 身長があったっていうことと

それと やっぱ あの~
何となく彼の周りは にぎやかで

みんなが こう
友達が寄ってくるような

そんな雰囲気もありましたよね
彼には。 ええ。

ひろしは 2代目キャプテンとなりました。

キャプテンになって
彼は苦労したと思います。

僕と違って ラグビーの経験が
中学校時代なかったですから。

みんな 実力は それぞれ
こう似たようなもんなん…。

リーダーシップとるには やっぱり
大変な苦労があったと思いますね。 ええ。

ラグビーに夢中な ひろし。
勉強まで手が回りません。

ハハハハッ。
(池田)あ~。

ひろしは 高校3年の冬
医大を受験するも失敗。

翌年も
合格することは できませんでした。

受験をして 失敗をするわけですよね
当然 勉強してないんで。

それで 何人か悪い仲間が すぐできて。

で 毎日 それで
浪人生活は遊んでましたね。

ハハハハッ。

当時の悪い仲間の一人が
ジャーナリストの須藤邦裕さんです。

18歳の時 ひろしと出会って以来

現在も 交流を続けています。

予備校の授業など
全然 受けることもなく

もう 一度も 僕らは受けてないな。
(池田)一度も!?

まあ 浪人するんだったら 東京で…
東京へ行こうよと。

まあ何か とっても名古屋が
狭く感じたっていうかな。

舘んちは もう
許してもらえなかったんですね。

何としても やっぱり こう医学部に
次は合格してと。

で 舘は まあ家出を。

それは 僕らとの約束を守るために
家出を決意するんですけどね。

昭和44年 2年目の浪人生活となった
ひろしは 家出を決行。

東京に向かいます。

そして翌年
医学部を諦め 入学したのは

千葉工業大学工学部
建築学科でした。

あ 建築…。

たまたま その時つきあってた
ガールフレンドの

おじさんか何かが
そこの出身だった…。

僕は 絵が好きだったもんですから
じゃあ 機械よりも あの 建築がいいと。

ひろしは 大学在学中に

オートバイのグループ
「クールス」を結成します。

僕は この時に知りました 舘さん。

ハハハハッ。
(池田)クールスでね。

オートバイって
割と派手な色だったんですね。

僕は それを あの…
僕は ラグビーやってましたから

オールブラックスっていう
あのニュージーランドのチームがあって

その黒い塊が
すごく魅力的だったんですね。

だから 僕はオートバイの
そのクールスというチームを作った時に

黒い集団にしようと思った。

クールスは評判を呼び
昭和50年 レコードデビュー。

映画にまで出るようになります。

あ チームごと出たんですね。

そうです。
え~!

ひろしは 大学に行くことをやめ
芸能活動をスタートさせます。

息子を心配する初子は
ある決心をします。

ひろしが
いつ大学生活を再開してもいいように

ないしょで
学費を払い続けることにしたのです。

理事長の瀬戸熊 修さんは

ひろしが在籍当時 事務局勤務でした。

まあ これ…

昭和54年
29歳になった ひろしは

石原プロ制作の刑事ドラマ
「西部警察」に出演。

その名は 全国区になります。

♬~

4年後の昭和58年

ひろしは 石原プロに入社します。

渡 哲也の存在が 決断の理由でした。

渡さんに会って その時に

初めて その渡さんが

「ひろし お前には華がある」って
言われたんですね。

「え 何? それ」って。

で まだ でも あんまり よくは分からずに
はあ~ 何だろう…。

いまだに
分かってないんですけれども。

でも そこで ほんとに
渡さんという人に会えて

あの それが すごく良くて。

僕の人生が
きっと変わってったんだと思うんです。

♬「泣かないで」

昭和59年 ひろし自身が作曲した
「泣かないで」が大ヒット。

舘ひろしは 名実ともに
トップスターの仲間入りを果たします。

舘ひろしは 俳優として
さまざまな役に挑戦してきました。

現在 71歳。

日本を代表する俳優の一人として
輝き続けています。

いや~…。
いやいや…。

いかがですか?
お恥ずかしい。

お母さまの あの悲しい表情…
当時を思い出して。

でもね 母がね この間
つい この間 聞いたんですけれども

僕が 大学を ちゃんとやめたのが
「西部警察」やってる時なんですね。

ええ~!
「西部警察」をやってる

終わりの方まで いたんですよ。
在籍してたんです。

それで結局
亡くなった うちの

石原プロの小林専務って
いう方がいらして。
もう伝説の…。

それで たまたま名古屋で ロケーションを
「西部警察」をやった時に…。

そうや 名古屋でも やりますもんね。
はい。 母と父が来ましてね

その時に あの小林専務が

もう ひろし君は
俳優として やっていけるから

もう大学は ここでって。

で ほんとに そこで やめたんですね。
母が もう やめたらしいですね。

今日 ご自身の「ファミリーヒストリー」
ご覧になって いかがですか?

いや 何か あの…

こう 拝見するまでは
ちょっと不安だったんですけれども

はい あの…
ルーツを改めて知って

まあ すごく楽しかったです。
はい。

はい ありがとうございました。

石原プロが解散した今年

舘さんは 新たに
「舘プロ」を立ち上げました。

舘プロを立ち上げたっていうのは

どっかで その 裕次郎さんの夢
渡さんの夢だった映画作りを

ほんとに こう
消えそうな ともし火ですけど

それだけは こう
受け継ぎたいなという気持ちがあって。

とにかく映画の夢だけは

こう 消さないようにというつもりで
はい 今やってますけど。

芸能生活46年。

現在 主演ドラマの撮影に
取り組む日々です。

これからは ここで
あるいは 小山さんのアパートで

月に2回ほど
面接をすることになります。

食べることは大事よ。 健康が第一。

愛知県豊田市にある
舘ハートクリニック。

♬~

平成25年 90歳で亡くなるまで
医師を続けた父 栄一郎さんと

同じ道に進んだ 弟の啓二さんです。

今年3月 舘ひろしさんは
かつて在籍していた千葉工業大学から

俳優としての功績
社会貢献などが評価され

卒業証書を授与されました。

フフフ…
たった1人ですよ。

今回 卒業式の様子を収めたDVDを
大学から借りることができました。

母 初子さん
弟 啓二さんに見てもらいました。

は~。

(映像音声・司会)「ただいまから
千葉工業大学

卒業証書授与式を
執り行います」。

(司会)本日の卒業証書授与式は

昭和45年4月に 工学部建築学科に
入学された 舘ひろしさんに

卒業証書を
お渡しするために挙行するものです。

(映像音声・司会)
「それでは 皆さん
ご起立下さい」。

♬~

(映像音声・司会)「一同 礼」。

(映像音声・学長)
「『卒業証書 舘 廣。

本学工学部建築学科を
卒業したことを認定し

卒業証書を授与する。

令和3年3月22日

千葉工業大学学長 松井孝典』」。

(映像音声・拍手)

あ~…

ハハハハハ。
(池田)ハハハハ…。

(啓二)いや~ よかったです。

♬~

お母さんの笑顔が。
よかったですね。

よかったですね 見て頂いて。

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